北門一の料理人、ひと口目で勝負を始める
北門一の料理人は、勝負を申し込む前にコロッケを二個買った。
「これは腹ごしらえだ」
店先で一個目を食べ終え、二個目へ手を伸ばしながら男は言った。
年はアキラより少し上に見える。焦げ茶色の髪を短く刈り、袖を肘までまくっていた。太い前腕には、小さな火傷の跡がいくつもある。
腰へ下げた包丁鞘には、《火角亭》の焼き印。
新街道の北門前で、昼も夜も満席になる酒場だった。
「二個目も腹ごしらえですか」
ピコが訊く。
「一個では味が分からん」
「半分ずつ食べれば?」
「作った本人が細かいな」
「作ったのは料理人。形を決めたのは俺」
男は二個目を割った。衣の厚さと、雲芋の中の肉を見てから食べる。
「なるほど。丸くしなかったのはいい」
「でしょ」
「だが、酒には甘い」
「朝から酒の話をする客には売ってない」
ピコが言い返す。
男は笑い、銅貨を二枚置いた。
「ザック・ファルド。《火角亭》の料理人だ」
「神谷アキラです」
「知ってる。うちの客が、飲む前にこっちで腹を埋めるようになった」
ルチアが帳面から顔を上げる。
「飲む前なら、あなたの店の酒代は変わらないでしょう」
「串が二本減った」
「何人で?」
「昨日は三十人」
「誤差ね」
「俺にとっては二本だ」
ザックは入口の外を指した。
荷車に琥珀鶏が二羽、炭袋が一つ、細長い鉄串の束が載っている。
琥珀鶏は、この土地でよく飼われる大柄な鶏だ。肉は鶏肉に近いが、皮の下に透き通った薄茶色の脂を持つ。火にかけると、その脂から炒った胡桃に似た香りが立つ。
「同じ鶏を一羽ずつ。昼客へ焼く。多く注文された方が勝ちだ」
「勝ったら?」
「俺が勝ったら、酒前の客へ腹八分の料理を勧めろ」
「負けたら」
「《火角亭》で、お前の店の朝飯札を置く」
悪い条件ではない。
「料理代と場所代は?」とルチア。
「売上を半分ずつ」
「鶏はあなた持ち。場所と薪はこっち。あなたの串焼きの売上はあなたに、うちの皿料理の売上はうちに入れる。外の長椅子を使った分だけ、どちらも売上の一割を場所代として出す」
「勝負の前に商売を始めるな」
「商売の中で勝負をして」
ザックはしばらくルチアを見た。
「北門へ来ないか、店主」
「料理人を引き抜く前に?」
「料理人より怖そうだから」
「褒めても場所代は取る」
「分かったよ」
昼鐘まで一刻。
店先へ二つの焼き台を並べた。
ザックは琥珀鶏を腿、胸、手羽へ迷いなく分け、骨の際へ刃を滑らせる。肉を大きめに切り、皮と交互に鉄串へ刺した。
「下味は塩だけですか」
「鶏がいい日は、塩だけで食わせる。たれを塗りすぎると味が決まりすぎて、客が好きな酒を合わせられん」
炭へ火を入れる。
ザックは炎が落ち着くまで待たず、串を高い位置へ並べた。皮下脂が温まり始めると、串の端で皮を押し、脂を炭へ一滴落とす。
ぼうっ、と火が上がった。
肉の表面を橙色の炎が舐める。
焦げる、とアキラは思った。
ザックはすぐ串を上げ、炎から外す。煤はつかない。皮の角だけが濃く色づき、煙の匂いをまとっていた。
「火を避けるんじゃないんですね」
「長く当てれば焦げる。短ければ香りだ」
「時間は」
「音と鼻」
ザックは琥珀脂が炭へ落ちる音を聞き、串の位置を一本ずつ変えた。
《旬眼》は使っていない。
それでも、肉の火入れを外さない。
アキラは自分の一羽へ向き直った。
同じように炎で焼いても、ザックの真似にしかならない。
胸肉は皮をつけたまま、大きな一枚へ開く。厚いところへ浅く刃を入れ、均一にする。ただし完全には切り離さない。
冷たい鉄板へ皮を下に置き、上へ小鍋を載せた。
「また押すのか」
ザックが横目で見る。
「皮を全部、鉄板へ当てます」
「炎から逃げた鶏は、酒を呼ばないぞ」
「今日は飯を呼びます」
皮から、透き通った薄茶色の脂がにじみ出る。鉄板の上で弾けるたび、炒った胡桃に似た香りが鼻へ届いた。
ちりちりという細い音。ザックの焼き台が立てる、ぼう、じゅう、という大きな音とはまるで違う。
ピコは二つの台の真ん中へ立ち、耳を左右へ向けていた。
「どっちがいい音ですか」
アキラが訊く。
「ザックのは客を呼ぶ音。こっちは、近くにいると腹が減る音」
「勝負の答えになってないぞ」とザック。
「客が違う」
十三歳に先に言われた。
アキラは皮側の輪が細くなるのを待ち、重しを外した。端からへらを差し、裏返す。
一枚の皮全体へ、細かな泡の跡がついている。薄い板のように張り、鍋を動かすと乾いた音がした。
肉側は強火で短く。厚い部分の弾力と、出る汁の色を見て火から外す。温めた乾いた板へ皮を上にして移し、何もかぶせず休ませた。
「たれは使わないのか」
「使います。ただし、切ってから肉側へ」
豆蜜、蜜玉葱の汁、少量の黒麦酒を、鉄板に残った脂と肉汁へ加える。
豆蜜は、味噌よりゆるく醤油より濃い、豆の発酵調味料だ。塩気とうま味を足し、蜜玉葱の甘い汁が肉の角を丸くする。そこへ黒麦酒の香ばしい苦みを少しだけ入れると、琥珀脂の甘さが重くなりすぎない。たれの泡が大きなものから細かなものへ変わるまで煮詰めた。
休ませた鶏を厚く切る。
皮は包丁の下で、ぱき、と一度鳴った。断面から肉汁が流れ出さず、中へ留まっている。
黒パンを薄く切り、鉄板で温めた。その上へ肉を載せ、たれはパンと肉の間へ塗る。皮の上は乾いたまま残す。
「肉汁パンか」
ザックが言う。
「飯にもできます」
「酒場ならパンだ」
「まだ負けてません」
「こっちへ寄せてきた時点で半分負けだ」
昼鐘が鳴った。
東門の荷運び人、パン屋の客、門番の交代組が店先へ集まる。炎と煙が先に見えるザックの台には、酒壺を持った客が並んだ。
「一本!」
「塩を強め!」
「焦げた皮のところ!」
ザックは注文を聞きながら、串の位置を変える。客が持つ酒の匂いまで嗅いで、塩を振る指を変えていた。
アキラの台へは、朝飯を遅く食べる職人と、子ども連れが来た。
「皮が硬くない方」
「たれを多め」
「パンじゃなく光麦で」
同じ鶏でも、注文が違う。
光麦は細長い米粒に似ているが、炊いても粒同士がべたつきにくい。肉汁を吸うと一粒ずつふくらみ、噛むたび中から味が出る。パンより腹にたまるものを望む荷運び人には、こちらが好まれた。
アキラは皮を大きく残す皿、小さく割る皿を分けた。たれは肉側へ。子どもの分だけ黒麦酒を使わず、蜜玉葱の甘みを増やす。
ザックの串が先に十五本売れた。
アキラの押し焼きは九皿。
「数なら俺だな」
「一羽から取れる数が違います」
「始める前に決めなかった」
「そうですね」
「素直だと張り合いがないぞ」
だが、売上の銅貨を数えると、押し焼き九皿と串十五本はほとんど同じだった。一皿で肉を多く使う押し焼きは、串一本より値段が高いからだ。
さらに困ったことが起きた。
「肉、終わりです」
アキラの台も、ザックの台も、一羽を使い切った。
なのに列には六人残っている。
「勝負なら、売り切れで終わりね」
ルチアが言った。
「客は終わってない」とピコ。
焼き台には、琥珀脂とたれが残っている。ザックの串を休ませた板には、煙の香りを含んだ肉汁。アキラの鉄板には、豆蜜と蜜玉葱の焦げ。
ルチアは朝届いた黒パンを厚く切った。
ザックの板へ三枚、アキラの鉄板へ三枚。
「肉はないぞ」
「匂いと汁がある」
片面へ肉汁を吸わせ、もう片面は炭火で焼く。ザック側には黒胡椒。アキラ側には薄切り蜜玉葱を載せた。
六枚を半分に切り、一皿へ二種類ずつ置く。
「肉汁パン。残った六人限定」
ルチアが売り札を出した。
列の六人は帰らなかった。
煙のパンから食べる者、玉葱のパンから食べる者。半分ずつ交換する者もいた。
最後の一皿は、ザックが買った。
「作った本人から取るの?」
「勝負の売上でしょう」
ルチアは銅貨を受け取る。
ザックは煙の方を一口で食べ、玉葱の方は二口に分けた。
「皮の火は、お前が上だ」
「炎の香りは、ザックさんが上です」
「客を見て塩を変えるのも俺が上だ」
「そこまで言いますか」
「言わないと勝った気がしない」
ザックは残った一切れを紙へ包んだ。
「誰かに?」
「夜の仕込み中に食う。来月、また一羽ずつだ」
「朝飯札は」
ルチアが忘れずに訊く。
「置く。勝敗が分かれたから半月だけ」
「ひと月」
「半月」
「二十日」
「……それでいい」
ザックは空になった荷車を引いて北門へ戻っていった。
ピコは二つの焼き台を片づけながら、アキラへ言う。
「負けた?」
「何で決めるかによります」
「じゃあ、次も見ないと分からない」
「そうですね」
ルチアが店先へ新しい札を掛けた。
――《火角亭》の酒前には、腹八分。
その下に、小さく書き足す。
――ただし肉汁パンは別腹。
その札を見た、荷運び人の女が店へ入った。腕には空の弁当箱、頬には炭の煤がついている。
「《火角亭》で酒を飲む前に、ここで食べても追い出されない?」
「追い出しません」とアキラ。
「じゃあ、腹八分の方。肉汁パンを半分、残りは持って帰る」
女は半分を食べ、残りを紙に包ませた。
「夜番の弟に持っていく。昨日、門の前でザックの串を食べたら、酒がないのに酒場へ入りたくなったって」
「それは褒めているんでしょうか」
「褒めてる。今日はこっちを持ち帰りたくなった」
女の指には、ザックの串焼きの煙がまだ薄く残っていた。その指で、弟の分の包みをしっかり押さえた。
ピコが包みを渡す前に、パンの底へ肉汁が染みすぎていないか確かめた。彼の手つきはまだ子どもっぽいが、売れ残りを包んでいた頃よりずっと慎重だった。
「次の勝負も見に来る?」とアキラ。
「勝負じゃなくても来るよ。うまい方を、今日の都合で食べる」
勝負の札は、夕方まで外さなかった。北門へ向かう客が一人、また一人と読んでから、《麦と灯》の扉を開けた。
アキラは勝負の札から目を離し、翌朝の出汁に使う鶏骨を流しで洗った。関節に残った血を、指の腹で一つずつ押し出した。
桶の水を三度替えると、ようやく底まで透き通った。勝負札はその間にも、入口の風で壁を軽く叩いていた。




