表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/29

武器みたいな黒パンを、飴色のスープへ

 翌朝、ニアは入口から入ってきた。


「見て。今日は何も壊してない」


 扉を開けただけで褒めてもらおうとする客を、アキラは初めて見た。


「扉は普通、開けても壊れません」


「昨日までは天窓もそうだったわ」


 ルチアが帳面から顔を上げずに言う。


 ニアは聞こえなかったふりをして、右手の指を二本立てた。


「細長い朝飯、二本。一本は肉多め」


「代金は?」


「屋根の修理代につけておいて」


「どうして修理代に、あなたの朝飯が入るの」


「朝飯を食べた人は元気になる。依頼人が元気なら、修理屋も仕事がしやすい」


「食べるのはあなたでしょう」


「元気な依頼人。速い修理屋。みんな幸せ」


「修理屋の幸せだけ、根拠がない」


 ルチアが言い終わる前に、扉の外から太い黒パンが差し込まれた。


 先端が、ニアの後頭部を軽く押す。


「入れん。翼を畳め」


「畳んでる」


「横へ立て」


 ニアが避けると、黒パンの持ち主が姿を見せた。


 岩を四角く切ったような男だった。肩幅が扉より少し狭い。灰色の作業着の背中には木槌と金槌、腰には釘袋が三つ並んでいる。


 男の後ろには、小麦粉のついた前掛け姿の夫婦がいた。妻が大きな籠を抱え、その籠には同じ黒パンが十数本、薪のように立っている。


「石工のダグだ。屋根も直す」


 男は黒パンを卓へ置いた。


 ごとん、と石に近い音がした。


「そっちはパン屋のベルンとサラ。屋根枠の板を探しに行く途中で捕まった。売れ残りのパンを埋める穴まで掘れるかと聞かれた」


「穴なんて頼んでないよ」と夫のベルン。


「埋めるしかないって言ったでしょう」と妻のサラ。


「昨日の売れ残りですか」


 アキラは黒パンを持ち上げた。


 ずしりと重い。黒麦を詰めて焼いた棒形で、表面は乾いている。香りを嗅ぐ。酸味を帯びた麦の匂いはあるが、黴や腐った油の臭いはない。


「三日前のだ」とベルン。


「捨ててください」


「早いな!」


「三日前のパンを客へ出す話なら」


「そっちは見本。籠は昨日の売れ残りだよ」


 ベルンが慌てて籠を示す。


 アキラは昨日分も一本取り、割れ目と底を確かめた。乾いているが、異臭も斑点もない。


「昨日の分だけなら、料理にできます」


「本当かい」


 サラが籠を調理台の横へ置く。


「新街道の店は白い柔らかいパンばかり売る。うちは黒麦で腹持ちを良くしてきたんだけど、朝に売れなきゃ夕方には硬くなる。捨てる分が、毎日ひと籠」


「だから場所を移す」とサラは続けた。


 ベルンが籠の持ち手をつかんだ。


「移さない。あの窯は親父が積んだ」


「窯を守って、店を潰すの?」


「新街道の家賃なら、白パンを倍焼かなきゃ払えない。黒パン屋じゃなくなる」


「今の通りなら、黒パン屋のまま借金持ちになるよ」


 二人とも声を荒らげなかった。毎朝もう言い尽くし、怒る力まで粉と薪へ使ってきたような言い方だった。


 籠の底に、小さな木札が落ちている。新街道の貸店舗。手付金は七日後まで。裏には、今の店で捨てたパンの数が二十八本ぶん、短い線で刻まれていた。


 ベルンは札を伏せた。


「料理の相談に、店の話は関係ない」


「毎日ひと籠なら、関係あります」とルチア。「捨てる数は、家賃と同じく店の話です」


「昨日分を引き取るなら、一籠いくらで売りますか」とルチア。


「捨てるはずのパンに、金を払うのかい?」とベルン。


「食べられる前日分なら、店で使う材料です」


「穴を俺に掘らせるより、パンとして売る方が得だ」とダグ。


「屋根代と相殺する?」とニア。


「あなたの借金へ他人のパンを入れないで」


 話しているあいだに、ダグが三日前のパンを片手で振った。


「これは武器になる」


「ならないよ」とベルン。


「持ち手へ布を巻けばなる」


「パン屋で武器を売らせないでおくれ」


 ダグが黒パンを槌のように振り、卓の木匙へ打ち下ろす。


 ぱきん。


 折れたのは、木匙の方だった。


 全員が黙った。


「だから三日前のは捨てます」


 アキラはもう一度言った。


 昨日のパンは、そこまでではない。それでも端を指で押しても、ほとんど沈まなかった。


 細かく砕き、スープのとろみにする方法が浮かぶ。パン粉にして肉へ混ぜてもいい。


 アキラが黒パンを横へ寝かせると、ベルンの手が籠の持ち手を強く握った。粉にしてしまえば、この棒形を焼いた窯も、父親から受け継いだという話も、椀の中から消える。


「薄く切れますか」


「腕がいいなら」とベルン。


 試されている。


 アキラは波刃の長い包丁を借りた。黒パンへ刃を当て、押さずに前後へ動かす。乾いた皮が、ごり、ごり、と削れる。棒の太さから見れば薄い、指二本ぶん。これより薄ければ汁の中で崩れ、厚ければスープが芯まで染みない。


 一枚切るだけで、腕が疲れた。


「毎朝これを切るなら、先に切っておいてください」


「腕がいいなら?」とサラ。


「パン屋の方がいいです」


 サラが笑い、ベルンは少し悔しそうに鼻を鳴らした。


 アキラは蜜玉葱を縦に薄く切った。


 琥珀鶏の脂を鉄鍋へ溶かす。玉葱を落とすと、山になった薄片が鍋の縁まで届いた。


「その蜜玉葱、全部使うの?」


 ルチアが訊く。


「玉葱の甘みを出したいので」


「高い樹蜜を足すのは禁止」


「玉葱だけで出します」


 塩をひとつまみ振り、火を弱くする。


 最初は白かった玉葱が透け、やがて縁から黄色くなる。木匙で返すたび、量が減っていった。鍋底へ薄い茶色の膜が張る。


 アキラが水を入れようとすると、ダグが覗き込んだ。


「焦げてるぞ」


「まだ焦げではありません」


「石なら、あの色は焼きすぎだ」


「玉葱なら、あそこがおいしいところです」


 少量の鶏出汁を注ぐ。


 じゅわっと蒸気が上がり、木匙で底をこすると、茶色の膜がほどけて汁へ溶けた。もう一度、水分を飛ばす。また膜を作る。二度、三度と繰り返すうち、玉葱は飴色になり、初めの半分以下へ縮んだ。


「急ぐ店では売れない料理だね」


 サラが言った。


「玉葱は朝の仕込みで炒めます。注文を受けてから待つのは、乳酪を焼く間だけです」


 言ってから、アキラは客席を見た。


 床に残っていた三脚へ、ニア、ダグ、サラが座っている。ベルンだけは自分で四脚目を下ろした。


 客が待っている。


 まだ慣れない景色だった。


 アキラは鶏骨の出汁を鍋へ加え、ダグの作業鞄から覗く黒麦酒の瓶を見た。玉葱だけでは甘さが続く。麦酒の苦みを少し入れれば、最後の味が締まる。


「その黒麦酒を、杯の底ほど使わせてもらえますか」


「俺の昼酒だぞ」


「銅貨一枚。それで足りないなら使いません」とルチア。


 ダグは酒瓶と、蜜玉葱の鍋を見比べた。


「一枚でいい。だが、そのスープは俺にも飲ませろ」


「料理代は別です」


「なら屋根代へ入れる」


「先に屋根代を決めてください」


 ダグは返事の代わりに瓶を差し出した。アキラは黒麦酒を杯の底ほど量り、鍋へ加えた。残りはすぐダグへ返す。


 煮立たせすぎず、玉葱の甘みが出汁へ移るまで待つ。


 黒パンは乾いた鍋で両面を温めた。表面に新しい焼き目をつけ、深い椀へ一枚のまま沈める。上から飴色のスープを注ぐ。


 山乳酪は、山で作られる硬いチーズに近い。淡い黄色の塊から薄く削ると、乾いた木屑のように丸まる。それを黒パンの上へ載せ、竈の火へ近づけた。


 乳酪の縁が溶け、泡が一つ、二つと膨らむ。


「刻まないのか」


 ダグが訊いた。


「刻んだ方が早く柔らかくなります」


「なら、なぜ」


「元がパンだと分かる方がいいと思って」


 ダグは折れた木匙を見た。


「そうだな。粉にしたら、こいつに負けた気がする」


 四つの椀を出した。


 最初に匙を入れたのは、サラだった。


 乳酪の膜を割り、その下の黒パンへ木匙を立てる。今度は折れない。皮にはまだ少し抵抗があるが、中は飴色の汁を吸い、押した場所からゆっくり沈んだ。


 サラが一口すくう。


 最初に熱い玉葱の甘み。噛むと黒麦の酸味が戻り、鶏脂と乳酪がその角を丸くする。飲み込んだあとに、黒麦酒の苦みがほんの少し残った。


 ベルンはすぐに食べなかった。


 スープを吸った一枚を、匙で端から持ち上げている。重くなったパンが切れずに垂れ、琥珀色の汁を椀へ戻した。


「俺のパンだ」


 確かめるように言ってから、口へ入れた。


「だからそう言ったでしょう」


 サラは二口目を食べている。


「いや、さっきまで硬い棒だったのに、別のパンみたいだ」


「昨日のパンでも、傷んだ物は使いません」


 アキラが念を押すと、ベルンは観念して頷いた。


 ニアは細長い朝飯を右手、スープの匙を左手に持っていた。


「両方食べにくい」


「片方ずつ食べて」とルチア。


「飛んでないから、両手使えると思ったのに」


「地上の練習をしなさい」


 ダグは黒パンの端を歯で噛み、匙を使わず引きちぎった。


「これなら屋根も直せる」


「どういう関係ですか」


「腹が温まった。指が動く」


 立ち上がり、壊れた天窓を見上げる。


「昼鐘までに枠は替える。代金は銀貨一枚と、このスープ」


「スープを取るのね」とニア。


「お前の借金は減らん」


「みんな幸せじゃなかった?」


「俺は幸せだ。お前は払え」


 ベルンとサラは、昨日分の黒パンを毎朝持ち込むことになった。黴、異臭、油の傷みがある物は持ち込まない。店は一籠を銅貨一枚で買い、スープが売れた日は追加で一枚。


 契約期間は、一か月だけにした。


「ずっと買うと書けば、移らなくて済む」とベルン。


「うちの客数で、二人の暮らしまで保証はできません」とルチア。


「一か月、数える」とサラ。「捨てた本数と、この店から戻る銅貨と、新街道の家賃。三つ並べてから決める」


「旧店を残す、から先に言ったな」


「新街道を消してはいないよ」


 契約紙の左端には、ベルンが《父の窯》と書いた。サラは消さず、その右へ《今月の家賃》と書き足した。どちらにも丸はつかなかった。


「売れ残った方が得にはしないのね」


 サラが契約を見て言った。


「焼きたてが売れる方がいいでしょう」とルチア。


「うん。それならいい」


 夫婦は空になった椀を籠へ重ねた。


 ダグが梯子を立てる横で、ベルンが三日前の黒パンを一本渡す。


「屋根を直すなら使うかい」


「釘を打つ槌には軽い」


「さっき武器になるって言っただろう」


「武器と道具は違う」


「パンだよ!」


 四脚目の椅子は、その日から床へ残された。


 昼鐘の少し前、石工仲間らしい若い男が、濡れた手袋のまま扉を押した。ダグが屋根枠へ釘を打つ音と、店から流れる玉葱の匂いを、通りで嗅いだという。


「黒パンの店なのか」


「黒パンだけの店ではありません」とサラが答えた。


 彼は椀の中のパンを見て、眉をひそめた。昨日のパンなら、職人仲間は朝から笑う。硬くなった物を、金を払って食べるのか、と。


 アキラは一枚を匙で押した。表面はまだ形を保ち、乳酪の下だけが出汁を吸っている。


「最初はパンを。次に、スープを」


 男は言われた通りに一口食べた。皮の近くには噛み応えがあり、中心は飴色の汁を抱えてほどけた。玉葱の甘さのあとに黒麦の酸味が来て、黒麦酒の苦みがその二つを締めた。


「昨日のパンだろ」


「昨日の、食べられる分です」とアキラ。


「昨日の仕事を、今日まで使うのか」


 屋根の上からダグが答えた。


「石も木も、まだ使えるなら使う。手を抜くのとは違う」


 男は二口目を食べ、椀を空にしてから銅貨を置いた。


「明日、仲間を二人連れてくる。昼の釘打ち前に、これを食えば腕が動きそうだ」


 サラは籠を抱え直した。売れ残りを持ち込む手つきが、朝より少しだけ軽かった。


 三日前のパンはダグへ渡したが、ベルンは新街道の木札を捨てなかった。木札だけを、前掛けの内側へしまう。


「七日後までだよ」とサラ。


「分かってる」


「昨日もそう言った」


「今日は一日減ったから、昨日より分かってる」


 二人は別々の速さで歩き出し、店の角で、籠の幅だけまた並んだ。


 店の外で、黒パンではなくダグの金槌が、屋根枠へ乾いた音を立てた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ