空から落ちた配達娘に、五分で朝飯を
翼のある娘が、天窓を破って降ってきた。
朝の仕込みを始めたばかりだった。
アキラが蜜玉葱へ包丁を入れ、ルチアが前日の銅貨を数えていた。その二人のあいだへ、天窓ごと落ちてきた。
ばきり、と頭上で木が折れる。
「下!」
ルチアに引かれ、アキラは調理台へ腹をぶつけた。
青い羽根。革の鞄。長い脚。
それらが天窓から差す朝日の中を落ち、吊り下げてあった乾燥葱を巻き込み、粉袋の上へ突っ込んだ。
ぼふん、と白い粉が舞う。
娘は粉袋へ腰から刺さり、広げた翼だけを外へ出していた。
「……着いた?」
「厨房には」とアキラ。
「予定と違う」
「屋根から入る予定だったなら合っています」
ルチアは顔についた粉を払った。
娘は両手をつき、粉袋から自分を引き抜いた。
ルチアは床へ落ちた羽根を一枚拾い、娘の目の前へ突きつける。
「これはいくらになると思う?」
「あたしの羽根? 売っても大した値には」
「天窓」
「そっちかあ」
十代の終わりほどに見える。空色の髪を首の後ろで結び、背中には同じ色の翼がある。左の翼だけ、先端が少し煤けていた。
革の鞄には銀の留め具が三つ。ひとつも外れていない。落ちても荷物だけは守ったらしい。
「ニア。北便の配達係。弁償はする。たぶん。分割で」
「たぶんを取り消して」
「弁償する。分割で」
「そこは確定なのね」
ルチアが帳面を開く。
ニアはその帳面へ一瞬だけ目を落とし、窓の外、壁の時計と順に見た。時計の針を確かめた瞬間、顔色が変わった。
「いま何鐘?」
「七つ鐘の四半刻前」
「終わった!」
翼が一度に広がった。風で乾燥葱が揺れ、また粉が舞う。
「広げない!」
ルチアが片翼をつかんだ。
「北門まで荷物を届けて、七つ鐘には中央塔。その前に朝飯を買う予定だったの」
ニアは煤けた左翼の先をつまんだ。
「新街道は建物の間で風がぶつかって、翼が押し戻される。旧東門の上なら風が抜けると思ったら、煙突を避けた先に、その、屋根が近くて」
「屋根は動かないわ」
「あたしは動いてた」
「知ってる。上から来たもの」
ニアの腹が鳴った。
昨日のガランほどではない。だが本人は、翼で腹を隠そうとした。右を隠すと左が出て、左を隠すと右が出る。
「五分で食べられる物、ある?」
アキラは調理台を見た。
炊いて蒸らしたばかりの光麦。東門へ届けるつくね用に刻んだ琥珀鶏。蜜玉葱。月卵。豆蜜。
時間さえあれば、丼にできる。
五分で作り、飛びながら食べるなら、器は使えない。
「飛びながら、両手は使えますか」
「右手だけ。左は鞄を押さえる」
「匙は」
「落とす」
「皿は」
「もっと落とす」
「着地して食べるのは」
「着地が一番危ない」
厨房の床に散った粉を見る。
「納得しました」
「しないで。今のは屋根のせいもある」
「屋根は動かないわ」とルチア。
ニアは言い返す代わりに、鞄の銀具を三つとも指で確かめた。落ちた本人は粉まみれなのに、革の表には擦り傷一つない。
「大事な荷物なんですね」
「北の村から預かった薬と手紙。どっちも、今日届かなきゃ意味がない」
「それで朝飯を抜いたの?」
ルチアの声から、からかう調子が少し消えた。
「抜いたんじゃない。後へ回しただけ」
「中央塔の次は?」
「西の集荷場。その次が昼便」
「後がないじゃない」
「夜はある」
胸を張った拍子に、また腹が鳴った。今度は翼でも隠しきれなかった。
アキラは月卵へ伸ばした手を一度止めた。何層も焼く時間はない。だが、中身を包むための薄い一枚なら間に合う。大きな肉片は、一つ噛むたび片手の包みを傾けることになる。
ニアの左手は、いまも鞄の銀具を押さえていた。
残り五分。
アキラは浅い鉄鍋を強火へかけた。
琥珀鶏を細かく刻む。練り物のように滑らかにはしないが、昨日つくねにした時より細かくする。飛びながら噛んでも、大きな肉片がこぼれないように。
肉を鍋へ落とす。
じゅっ、と脂が鳴った。刻んだ蜜玉葱を加え、透き通るまで待たずに塩を振る。玉葱から水が出る前に、肉の縁へ焼き色をつけた。
「もう一つ鍋を」とアキラ。
「洗うのはあなたよ」
言いながら、ルチアは小さな鉄鍋を火へ置いた。
月卵を二個割る。
黄身は橙色が濃く、白身の中で沈まずに浮いた。塩をひとつまみ。水をほんの少し。箸で白身を切るように混ぜる。
肉の鍋へ豆蜜を落とすと、甘い焦げの匂いが上がった。そこへ光麦を入れる。木匙で押しつけ、麦の一粒一粒に肉汁とたれを吸わせた。
細かな肉を木匙で割り、中心まで白く変わっていることを確かめる。鍋底にも赤い汁は残っていなかった。
「あと三分!」
ニアが時計を読み上げる。
「急かすなら、包む葉を取って」とルチア。
「どれ」
「右の棚、緑の束」
「これ?」
「それは布巾」
「緑だよ」
「食べられる方の緑!」
ニアは棚を開け、保存用の香葉を引き抜いた。勢い余って三枚落とす。拾おうとして頭を棚へぶつける。
着地が危ないのではなく、地上全般が危ないらしい。
小鍋へ月卵を薄く流す。縁が乾き、中央だけがまだ揺れているうちに火から外した。
肉味噌焼き飯を両手で丸く握り、薄焼き卵の中央へ置く。
「熱くない?」
「熱いです」
「料理人って、手の皮どうなってるの」
「普通なので、かなり熱いです」
アキラは指先を水へつけた。
卵で飯を包み、香葉を下半分へ巻く。見た目は黄色い丸だった。
「二分!」
ニアが受け取り、厨房脇の裏口を開けた。
「待って。ここで一口、試してください」
「飛べるか試す方が早い」
止める前に、石畳を蹴った。
翼が二度、強く風を打つ。
青い体が屋根の高さまで上がった。
右手の黄色い丸へかぶりつく。
次の瞬間、噛んだところから光麦がほどけた。
「あ」
ニアの口から、焼き飯がこぼれる。
風に乗り、きらきらと朝日を反した。
その真下で、ルチアが帳面を開いていた。
ぱらぱらぱら、と肉味噌焼き飯が紙面へ降った。
ニアは空中で止まった。
ルチアも動かなかった。
「……屋根の修理代に、帳面代を足して」とニア。
「服の洗濯代も」
「それは自分で払って」
「あなたの朝飯よ」
「一粒なら誤差」
「数える?」
「ごめんなさい!」
残り一分半。
アキラは丸形を捨てたくなかった。味は悪くない。肉の脂を麦が吸い、薄焼き卵が肉味噌の汁を包んでいる。
問題は形だった。丸い包みは一口かじっただけで、噛み口が左右へ広がる。残った飯を支える卵の縁がなくなり、次の一口で横から押し出される。
「長くします」
「何を」と、空中のニア。
「朝飯を」
残りの焼き飯を、細長く押し固めた。円柱ではなく、指で挟みやすい平たい棒にする。表面を鉄鍋へ戻し、四面を短く焼いた。
豆蜜の糖が薄く焦げ、外側の麦同士をつなぐ。
新しい薄焼き卵へ斜めに置き、転がしながら巻く。片端だけ閉じ、反対側は食べ進める口として残した。香葉で下半分を包み、細い紐を一周。
「残り半分!」
「半分って何」
「一分の半分!」
「三十秒と言って!」
ルチアが二本目を空へ投げた。
ニアは右手で受け取る。今度は飛び去らず、その場で先端を噛んだ。
薄い卵が歯に触れ、その下で焼けた麦が軽くほどける。中の肉味噌は細かく、玉葱の甘みと豆蜜の塩気が、横へこぼれず噛み口から広がった。
横からは、一粒も落ちなかった。
ニアがもう一口食べる。
急いでいた翼の動きが、一拍だけゆっくりになった。
「それで飛べますか」
「飛べる」
「食べながらでも」
「これなら」
「味は」
「質問が多い!」
ニアは叫び、北の空へ体を向けた。
三度目の一口を頬へ入れる。
「明日、二本! 七つ鐘の半刻前! 修理屋も連れてくる!」
「前払い!」とルチア。
「屋根代から引いて!」
「借金から朝飯代は引けない!」
「じゃあ修理屋に払わせる!」
青い翼が風をつかんだ。
ニアは城壁より高く昇り、北門の方角へ小さくなった。片手には鞄。もう片方には、半分になった朝飯がある。
地上に残ったのは、割れた天窓、粉まみれの床、肉味噌飯の載った帳面。
ルチアは帳面から一粒つまみ、口へ入れた。
「冷め始めても悪くない」
「検品ですか」
「損害の確認」
「味見に見えました」
「目が悪いんじゃない?」
アキラは天窓を見上げた。
割れた木枠の向こうに、青い空が四角く見える。昨日まで雨だった空だ。
「修理代、高いですか」
「琥珀鶏なら十羽」
「ニアさん、また来ますかね」
「来なかったら、配達組合へ請求書を飛ばす」
ルチアは汚れた帳面の端へ、新しい注文を書いた。
細長い朝飯、二本。
七つ鐘の半刻前。
その下に、少し大きな字で付け足す。
――入口から入ること。
書き終えたところで、天窓から木屑が一つ落ちた。
ルチアは無言で帳面を閉じる。今度は紙面へ落ちなかった。
「掃除からですね」
「屋根から」
「粉袋も破れています」
「破れた粉袋はあなたが見て。床へ出た粉は料理に戻さないで」
ルチアは梯子を運び、アキラは口の裂けた粉袋を別の桶へ移す。床へ散った分は箒で集め、捨てる袋へ入れた。青い羽根が一枚混じっていた。先端だけ煤けている。
調理台には、鍋肌に残った焼き飯が木匙一杯ぶんあった。床へ落ちていない分だ。
アキラは冷めかけた焼き飯を食べた。
肉味噌の味は悪くない。けれど冷めるにつれ、肉味噌の汁が麦の下へにじみ、表面が少し湿っていた。形を細長くしただけで、明日の二本が完成したわけではない。
注文帳の余白へ、短く書く。
――明日は細長く。肉味噌の汁を、もう少し飛ばす。
「屋根」と、梯子の上からルチアが呼んだ。
「今行きます」
アキラは残りを一口で食べ、帳面を粉の届かない棚へ置いた。
空いた天窓から、北へ飛ぶ青い影はもう見えない。代わりに遠くで七つ鐘が鳴った。間に合ったかどうかは分からない。
粉の届かない棚では、注文帳の《二本》という墨がまだ乾いていなかった。
アキラは梯子の脚を押さえた。頭上でルチアが板を当てると、四角かった青空が半分だけ細くなった。




