「昨日のを大盛りで」――最初の客が帰ってきた
朝の七つ鐘が鳴る前に、扉の鈴が鳴った。
まだ看板も出していない。
アキラは光麦を研いでいた手を止め、ルチアと顔を見合わせた。
「この町の客は、開店前に来るものですか」
「来ない。開店後にも来ないから、皿を箱に詰めてたの」
朝から容赦がなかった。
昨夜、一階の皿を全部洗い終えたのは、時計の長針が二周した頃だった。そのあとルチアから町の名前、鐘の数え方、寝台の軋む場所まで教わった。
日が昇る前には市場へ叩き起こされた。
昨日の銅貨七枚で買えたのは、琥珀鶏が一羽、光麦が一袋、蜜玉葱が三つ。樹蜜は高いので買い足していない。
「昨日と同じ物を出すには、一人ぶんが限界」と、帰り道でルチアは言った。
その一人が本当に来るかどうかは、口にしなかった。
鈴がもう一度鳴る。
「店主。扉が重い」
「あなたが外から押さえてるからでしょう」
聞き覚えのある低い声だった。
ルチアが閂を外す。
ガランが、入口いっぱいに立っていた。
今日は革鎧の上に紺色の外套を着ている。欠けた角にも雨粒はない。息は乱れていないが、外套の留め金を一つ掛け違えていた。
その後ろから、若い門番が二人、肩越しに店内を覗いている。
一人は細身の青年。もう一人は猫に似た耳を持つ小柄な少女だった。二人とも同じ紺色の外套だが、新品らしく肩がまだ硬い。
「おはようございます」
アキラが言うと、ガランは右手を上げた。
「昨日のを大盛りで」
挨拶より注文が先だった。
「承知しました」
「本当に店だったんですね、隊長」
細身の青年が、つい口にした。
ガランが振り返る。
「何だと思って来た」
「雨で腹を空かせた隊長が見た幻かと」
「幻なら、お前たちは外で待て」
「朝飯を食べてから信じます」
猫耳の少女は、すでに入口の椅子へ手をかけていた。
ガランが昨日座った一脚である。ガランは少女の手首をつまみ、その隣の椅子を下ろした。
「そこは俺の席だ」
「もう常連の顔してる」
ルチアが呆れた。
「二日目だぞ」とガラン。
「店にとっても二日目だから、反論しにくいわね」
三人が座る。
空だった店に、朝から三人いる。
アキラは手の水を布で拭い、琥珀鶏を調理台へ置いた。
「昨日と同じ一皿は、ガランさんのぶんだけです。お二人は何を?」
「同じ物」と猫耳の少女。
「僕も」と青年。
「一羽しかないの」
ルチアが即座に切った。
三人の視線が鶏へ集まる。
昨日の鶏より少し大きいが、さすがに骨付き三皿にはならない。
「なら俺が昨日のを食う」
ガランは譲らなかった。
「隊長」
「お前たちは見学だ」
「連れてきた意味は?」
「昨日の話を疑った罰」
猫耳の少女の耳が、左右へ倒れた。
アキラは鶏を見る。
黄の輪は、腿、胸、皮、首の周りで違う太さをしている。同じ一羽でも、脂と水分は均一ではない。
骨付き腿は、昨日と同じ照り焼きにできる。
残る胸肉と首周りを細かくすれば、二人が見学だけで帰る量ではない。
「七枚で買った材料です」とルチアが小声で言った。
「鶏だけなら四枚です」
「覚えてたの」
「市場で三回言われたので」
「大事なことは三回言うわ」
「二人分、別の料理にします。銅貨二枚ずつで」
ルチアの指が、空中で素早く動いた。鶏四枚、麦、玉葱、薪、調味料。
「小盛りなら」
「普通盛りで」
「私の昼飯を計算に入れてない?」
「入れていません」
「なら、ぎりぎり。作って」
許可が出た。
まず関節へ刃を入れ、骨付きの腿を外す。ガランの照り焼き用だ。胸肉は包丁の背で軽く叩き、首肉と皮の端を合わせる。
「挽き機はありますか」
「そんな高い物はない」
「では、包丁で」
二本の包丁を交互に落とした。
たたたた、と乾いた音が厨房に続く。
全部を滑らかにはしない。胸肉は小指の先ほどを残し、脂の多い首肉だけ細かくする。刻んだ蜜玉葱、塩、月卵の白身を少し。木匙で混ぜると、肉が重くまとまり、匙へ張りついた。
「丸く焼くの?」
ルチアが訊く。
「平たい串にします。早く火が通って、裏返しやすい」
木串へ肉を巻きつけ、掌で薄く伸ばす。中央を少しくぼませた。
ガランの腿肉は、昨日と同じように冷たい鉄板から皮を焼く。横の炭火台では、二人分のつくねを網へ並べた。
琥珀脂が炭へ落ちた。
ぼっ、と橙の炎が一度だけ上がる。
「火事ですか!」
客席で青年が立った。
「座れ、ヘス」
「でも隊長、炎が」
「肉を焼けば火は出る」
「昨日一度食べただけで、ずいぶん偉そうですね」
猫耳の少女が言う。
「ミミナ。お前も見学に戻すぞ」
二人の名前を、アキラは頭の中で繰り返した。
ヘスとミミナ。ガランの部下。昨日までは店のことを知らなかった客だ。
つくねの縁が白くなり、表面に肉汁が浮く。黄の輪が狭まったところで返すと、網目の焼き色がついた。
仕上げに豆蜜だれを塗る。
一度目は薄く。乾かしてから二度目。たれが炭へ落ち、焦げた豆の匂いが朝の店を満たす。
「店主」
「まだよ」
「何も言っていない」
「大盛りはまだか、でしょう」
「詳しいな」
「昨日から店主だからね」
ガランの照り焼きを皿へ移す。皮はたれで濡らさない。肉側だけに昨日と同じ照りをつけ、蜜玉葱を添えた。
つくねは一人二本。一本はたれ、一本は塩にする。鶏の味を比べられるようにした。
光麦を三つの椀へ盛る。
ガランの椀へ、もう一匙。
「大盛り」と本人が言う。
さらに一匙。
「昨日より少ない」
「昨日の椀を覚えているんですか」
「俺の腹を何だと思っている」
「底の抜けた穀物袋」とルチア。
「入れた分は覚えている」
アキラは鍋へ匙を戻した。
底が見えた。
残っているのは、薄く張りついた焦げた光麦だけだ。
ルチアも鍋を覗く。
「ぎりぎりって言ったわよね」
「普通盛り二つと、大盛り一つです」
「その大盛りがおかしいの」
「昨日と同じにしておけと言われました」
「私の昼飯」
二人で鍋底を見た。
薄いきつね色のおこげが、妙にきれいな円を描いている。
「まだ飯があるじゃないか」
ガランが客席から言った。
「これは私の昼飯よ」
「なら、店主も一緒に食えばいい」
「どうやって三人前を四人で食べるの」
「俺の大盛りを増やしてから考えろ」
「減らす選択肢は?」
「ない」
ルチアは鍋底へ木匙を入れた。ぱり、とおこげが半月形に剥がれる。
しばらく見つめ、アキラへ渡した。
「銅貨を取って」
「昼飯は」
「あとで玉葱を食べる」
「それは昼飯ではなく玉葱です」
「誰のせい」
「大盛りの人です」
「料理人、お前は話が分かるな」とガラン。
ルチアの目が細くなった。
アキラはおこげを三つに割った。
琥珀鶏から出た脂を薄く塗り、炭火の上へ置く。片面が温まったら返し、豆蜜だれを刷毛でひと筋。焦げたところへたれが染み、表面がもう一度乾くまで焼く。
「一人で食べるつもりだったなら、これはルチアさんの料理です」
「鍋に張りついただけ」
「張りつかせる水加減にしたでしょう」
「褒めても昼飯は増えない」
だが、ルチアは玉葱を食べると言うのをやめた。
照り焼き、つくね、三角のおこげが客席へ並ぶ。
ガランは最初に照り焼きの皮を噛んだ。
昨日と同じ、乾いた音がした。
それを確認してから、アキラは厨房へ戻る。
昨日と同じ乾いた音が、今日も鳴った。アキラはそこで初めて、握っていた布巾を調理台へ置いた。
ヘスは塩つくねから食べた。二度噛み、断面を見て、次にたれつくねを口へ入れる。細かくした首肉の脂が粗い胸肉の間へ残り、噛むたびに豆蜜の焦げと鶏の汁が交互に出る。
「隊長」
「何だ」
「幻ではなかったです」
「だから連れてきた」
ミミナは返事をしなかった。
つくねを一本ずつ左右の手に持ち、交互に食べている。猫耳が、噛むたびわずかに前へ向いた。
最後に三人の手が、おこげへ伸びた。
ぱり。
三つの音が、少しずつずれて鳴る。
ミミナが自分の三角を半分食べ、残りを皿の端へ置いた。
「いらないなら、もらうぞ」
ガランが手を伸ばす。
「たれが染みるのを待ってます」
ミミナは皿を抱えて守った。
「冷める」
「冷めたところも確認します」
「ずいぶん慎重だな」
「猫舌です」
ヘスが笑った隙に、ガランは彼のおこげを一角だけ折った。
「隊長!」
「警戒が足りん」
「朝飯で部下を訓練しないでください」
空だった客席に、三人ぶんの声が跳ねた。
ルチアは調理台の端で、自分用に残した小さなおこげを齧っている。焦げた端を、やはり先に取っていた。
「玉葱だけでは?」
アキラが言う。
「これは商品にならない欠片」
「一番たれが染みています」
「だから検品してるの」
客席から、銅貨が卓へ置かれる音がした。
ガランが四枚。ヘスとミミナが二枚ずつ。昨日より一枚多い八枚が、朝の光を鈍く返している。
「料理人」
「はい」
「その串は、持って歩けるな」
「紙か葉で根元を包めば」
「明日の夜番へ七本。鐘六つの前に東門へ」
ルチアが帳面を開いた。
「七本で七枚。東門まで届けるなら、あと二枚」
「取りに来る」
「鐘六つまでに。遅れたら返さない」
「遅れん」
ガランは文句を言いながら、銅貨を七枚追加した。
ミミナが入口脇の看板を覗く。
「《麦と灯》。明日も同じ時間ですか」
「明日は七つ鐘から」とルチア。
「なら、夜番明けに来ます。おこげを残しておいてください」
「鍋底は予約品じゃないの」
「張りつかせる水加減にしたんですよね?」
さっきのアキラの言葉を、そのまま使われた。
ルチアがこちらを睨む。
「余計なことを教えたわね」
「明日の朝も、二脚は下ろしておけそうですね」
「明日来たらね。来ない客の椅子まで下ろすと、掃除が増える」
ルチアは言い切った。
その横で、ガランが自分の椅子を卓へ上げず、床に残している。
「では、明後日も同じ時刻だ」
「三回来る気で数えないで」
「大事なことは三回言うんだろう」
ガランは扉へ向かいかけ、アキラを振り返った。
「大盛りは約束どおりだった。北壁の鶏舎へ行く時は、東門で俺を呼べ。休みなら案内する」
「覚えていたんですか」
「俺の腹と約束を何だと思っている」
「腹より約束の方が、少しは長持ちするみたいね」とルチア。
低い笑い声と一緒に、三人は出ていった。
扉の鈴が止まる。
卓には十五枚の銅貨と、肉汁を拭った三枚の皿。床には昨日の一脚、その隣に二脚が残っていた。
ルチアは三脚を見たあと、帳面の閉店予定日へ一本、横線を引いた。
「昼は玉葱ですね」
「あなたもよ」
「おこげ、一口残っています」
アキラが鍋の縁から小さな欠片を剥がす。
ルチアは半分に割り、大きい方を取った。




