雨宿りの門番に、皮ぱり照り焼きを
玉葱の焦げる匂いがした。
神谷アキラは、その匂いで目を覚ました。
頬が冷たい。目を開けると、すぐそばに石の床があった。病院の白い天井も、救急車の音もない。代わりに見えたのは、煤けた梁と、銅鍋の並んだ棚だった。
薪の爆ぜる音がする。
竈に掛けられた鉄鍋で、薄切りの玉葱が焦げ始めていた。
「まずい」
アキラは床へ手をつき、立ち上がった。自分がなぜ厨房に倒れているのか。それを考えるより先に、右手が鍋の柄へ伸びた。
竈の脇にあった厚布で柄をつかみ、鍋を火から下ろす。木匙で底を返すと、黒くなったのは数枚だけだった。残りは縁が濃い茶色になり、甘い匂いを出している。
黒くなった数枚を木匙の先でよける。残りまで余熱で焦がさないよう、棚から取った浅い皿へ薄く広げた。閉じ込められていた湯気がほどけ、茶色い玉葱の甘い匂いが戻ってくる。
そこまで確かめてから、アキラは自分の手を見た。
鍋をつかんだのは、見慣れた自分の手だった。火傷もない。ただし袖口が違う。白い料理服ではなく、生成り色の粗い上着が手首を覆っていた。足元も、履いた覚えのない革靴だった。
「誰?」
背後から女の声がした。
アキラが振り返ると、太い火かき棒の先が腹を向いていた。握っているのは赤茶色の髪の若い女だ。反対の手には、使い込まれた帳面を抱えている。
「その鍋から離れて」
「焦げていたので、火から下ろしただけです」
「玉葱は助かった。でも、厨房にいた理由にはならない」
「その通りです。僕も、どうしてここにいるのか分かりません」
「話は通じるのね。少しだけ安心した」
女は火かき棒を下ろさなかった。
当然だ。アキラ自身、自分がどうやってここへ入ったのか説明できない。
「名前は?」
「神谷アキラ。料理人です」
「カミヤが家名?」
「はい」
「どこの町?」
日本、と答えかけてやめた。
窓の外を横切った人には、背中に茶色い翼があった。女の腰に吊られた小石は、竈の火とは違う青白い光を内側からにじませている。
冗談を言われている様子ではなかった。
「それが、うまく説明できません」
「自分が住んでいた町を?」
「信じてもらえないと思います」
「安心して。もう、あまり信じてないから」
女は顎で勝手口を示した。
「外へ出て。役所へ連れていく」
アキラが従おうとした時、吊り棚の下に置かれた鳥が目に入った。
羽を処理した姿は鶏に近い。ただし普通の鶏より一回り大きく、皮の下に淡い琥珀色の脂が透けている。
その鳥の上で、光が動いた。
皮の表面に、細い金色の輪。腿肉の奥に、赤みを帯びた輪。さらに、その二つを横切るように青と黄色の線がゆっくり回っている。
目をこすっても消えない。
金の輪を見ていると、皮から脂が抜けていく様子が頭に浮かんだ。腿の奥にある赤い輪は、金より遅れて細くなるらしい。
誰かに教わった記憶はない。本当に火入れの順番なのか、それとも倒れたせいで見ている幻なのかも分からない。
ただ、料理人の勘は告げていた。皮と肉を同じ火で仕上げれば、どちらかを取りこぼす。
「何を見てるの」
「あの鶏です。今夜使うなら、もう少し冷たい場所で休ませた方がいい」
女の眉が動いた。
「琥珀鶏を知っているの?」
「名前は今、初めて聞きました」
「名前も知らない鶏を見て、保存場所まで口を出したの?」
「すみません。皮の脂が抜ける時と、肉に火が入る時が、別々に見えるんです」
「見える?」
女の火かき棒が、また腹へ近づいた。
「食べ頃が、輪になって」
口に出すと、ひどく怪しい。
女の火かき棒が、少しだけ上がった。
その時、表の扉で鈴が鳴った。
「閉店札を掛けたはずなのに」
女は火かき棒を壁へ立て掛け、客席へ向かった。
アキラも勝手口へ出る機会を失い、二歩ほど離れてついていく。
客席には大卓が二つ、小卓が二つ。十二脚の椅子は、一つ残らず脚を上にして卓へ載せられていた。
入口脇の看板には、《麦と灯》と彫られている。麦穂を抱いた角灯の絵が、吹き込んだ雨で半分濡れていた。
開いた扉に、大男が立っていた。
額には左右一対の角がある。ただし右の角は途中で欠け、古い欠け口だけが白く乾いていた。濡れた外套の下に革鎧を着け、腰には太い警棒を下げている。
翼のある人を見たばかりなのに、今度はその欠けた角から目を離せなかった。飾りではない。折れてから長い時間がたっている。
「雨が弱まるまで、軒を借りたい」
大男の声は低く、よく通った。
「中へどうぞ。外よりはましだから」
女は入口に近い椅子を一脚だけ下ろした。
「ただし、今日はもう料理を出せない」
「構わん」
男が座る。
革鎧が鳴った直後、その腹も鳴った。
大きな音だった。
女は帳面で口元を隠した。
男は欠けた角の根元を掻く。
「外の雷だ」
「雨しか降ってないわ」
「城壁の音かもしれん」
「東門は石造りよ」
「詳しいな、店主」
「門の裏で店をやってるからね」
アキラは空腹の音に弱かった。
仕込み中の厨房であの音を聞けば、余ったパンでもスープでも、何か出せる物を探してしまう。
「鶏なら焼けます。あの琥珀鶏を、一皿だけ」
女と大男が同時にこちらを見た。
「焼けるのか」と大男。
「焼かせない」と女。
男は二人を見比べた。
「夫婦喧嘩なら外で待つぞ」
「今、初めて会った人です」と女。
「火かき棒を向けられています」とアキラ。
大男は二人を見比べ、真顔でうなずいた。
「仲は悪いな」
女は眉間を押さえた。
「琥珀鶏は、明日の仕入れ代を作る最後の一羽なの。料理人を名乗るだけの人に使わせられない」
「なら、俺が払う」
大男が卓へ銅貨を六枚置いた。
女の視線が銅貨へ落ちる。
「七枚」
「一枚は何だ」
「大盛り」
「まだ頼んでいない」
「その腹で普通盛りを頼んだら、そっちの方が困る」
男は鼻から息を出し、銅貨を一枚足した。
「ルチア・ウェル」
女はそこで初めて名乗った。
ルチアはアキラへ指を三本立てた。
「黒焦げはあなたが食べる。生焼けは客へ出さない。残った食材を、相談もなく捨てない。一つでも破ったら役所へ渡す」
「分かりました」
「失敗しないと言える?」
「言えません。火入れの輪は見えても、味付けが合うかは食べてもらわないと分からない」
ルチアは帳面を開きかけ、やめた。火かき棒を壁へ戻して厨房へ向かう。
アキラは水桶で手と腕を洗った。
前屈みになると、胸元で硬い物が鳴った。
内ポケットから、指先ほどの硝子瓶が出てくる。底に黒い液体が少しだけ残り、金属の蓋には、前の店へ昨日届いた濃口醤油の試供品と同じ蔵印があった。
その瓶を持って店を出た後、雨の横断歩道を渡った。
横から迫る白い光。急ブレーキの音。
記憶は、そこで切れている。
前の店の厨房には、仕入れ先の地図を貼っていた。養鶏場、チーズ工房、漁港、果樹園。休みが取れたら行くつもりで、一つも行けなかった。
目の前には、北壁の外で育ったという琥珀鶏がいる。
アキラは瓶を内ポケットへ戻した。金属の蓋が、濡れた指より冷たく胸へ当たった。
客席で、ガランの腹がもう一度鳴る。
アキラは灰汁石鹸で指の間と手首まで洗い、清潔な布で水気を拭いた。次に調理台の汚れを確かめ、薄刃の包丁を光へかざす。形は違っても、厨房で最初に確かめることは変わらない。
ルチアが琥珀鶏を調理台へ置いた。
「丸焼きにする?」
「それでは待たせすぎます。骨付きの腿を一枚。胸と首は明日に残します」
「骨を外せば、もっと早いでしょう」
アキラは包丁を入れる前に、客席へ顔を向けた。
「骨付きのままでいいですか」
男は卓上の木匙を指先で転がした。
「骨は残せ。手で食う」
「では、骨付きで」
ルチアが平たい鉄板を選び、アキラへ渡した。
「先に聞けるなら、少しは任せられる」
アキラは皮の水気を布で拭い、塩を薄く振った。まだ冷たい鉄板へ皮を下にして置き、洗った小鍋を重しにする。
「冷たい鉄板へ置くの?」
「先に皮の下の脂を出します。強い火だと、表面だけ焦げる」
薪を一本抜き、炎を弱めた。
しばらくは何の音もしない。
やがて、ち、と小さく鳴った。
同じ音が二つ、三つと増えていく。皮の下から淡い琥珀色の脂がにじみ、鉄板へ広がった。脂が温まると、炒った胡桃に近い香りが立った。
皮の上に見えていた金色の輪が細くなる。
「今だ」
重しを外す。
へらを差し込むと、皮は鉄板からきれいに離れた。焼き色は濃いきつね色。細かな泡が固まり、表面が乾いている。
裏返すと、客席で椅子が鳴った。
「まだか」
「今、返したところ」とルチア。
「なら、まだだな」
「見に来ないで。待てなくなるから」
厨房をのぞこうとした男を、ルチアが帳面で追い返した。
肉側には、短く強い火を当てる。厚い部分へ洗った細い金串を刺し、数を数えてから抜いた。にじんだ肉汁には、まだわずかな濁りがある。赤みを帯びた輪も太いままだ。
火を少し弱め、もう一度待つ。二度目に抜いた串は中心まで熱く、肉汁は澄んでいた。輪が細くなったことだけに頼らず、骨際へ赤い部分が残っていないことも浅い切れ目から確かめて、火から外す。
すぐには切らない。
温めた皿へ皮を上にして移し、火から少し離れた乾いた場所へ置く。皮には何もかぶせない。
「そのままだと冷めるでしょう」
「中心まで火は通っています。すぐ切ると肉汁が流れるので、ここで休ませます」
鉄板に残った脂へ、黒い数枚を除いた玉葱を入れた。
玉葱の縁が透け、焦げかけた部分から甘い匂いが戻ってくる。鍋底についた鶏の旨味も、木匙でこそげて絡めた。
「たれは豆蜜でいい?」
ルチアが茶色い壺を出す。
一口なめると、味噌よりさらりとして、醤油より甘い。豆の旨味と強い塩気がある。
「これだけだと塩辛い。水と、少し甘い物が欲しいです」
「樹蜜ならある。高いから一匙まで」
「半匙で十分です」
豆蜜二匙、水二匙、樹蜜半匙。
熱い鉄板へ入れると、大きな泡が立った。木匙で底を引き、跡がすぐ消えなくなったところで火を止める。
休ませた肉を戻し、たれは肉側だけへ絡めた。皮へはつけない。
「全部に塗らないの?」
「皮が湿ります」
「皮を残されたら?」
「理由を聞きます。次の一皿があるなら、そこで変えます」
「次があるつもりなのね」
ルチアはそう言いながら、炊いてあった光麦を深い椀へよそった。
白金色の粒は米より少し細い。炊き上がった粒同士がくっつかず、底の方だけ淡く光っている。
アキラは脂を吸った玉葱を添え、骨付き腿を皿へ載せた。
「月卵の黄身は、生で出せますか」
ルチアは卵籠の殻を一つずつ見て、青い検査印のある一個を選んだ。
「今朝の卵で、殻割れなし。青印がない物は半熟にも使わない」
アキラは改めて手を洗って殻を割り、濃い橙色の黄身だけを小さな器へ入れた。
「料理名は?」とルチア。
「琥珀鶏の照り焼き」
「照り焼き?」
「甘辛いたれを絡めて、つやを出す焼き方です」
「最後は焼かずに絡めたでしょう」
「細かいですね」
「お金を取るからね」
ルチアが皿を運んだ。
大男は最初に鶏の骨をつかんだ。
皮へ歯を立てる。
ぱり、と乾いた音がした。
男は何も言わず、二口目を噛んだ。割れた皮の下から脂がにじみ、指を伝う前に親指でぬぐう。そのまま光麦を口へ運び、玉葱を半分に切った。
アキラは厨房の入口で待った。
以前の店で、常連のオムライスを勝手に変えたことがある。卵を柔らかくし、ソースまで作り直した。前より上手くできたと、自分だけは思っていた。
次の金曜も、アキラは窓際へ水を置いた。客は来なかった。その次の金曜にも。
目の前の男は、月卵の黄身を光麦へ全部かけた。そこへ肉側のたれを落とす。木匙を使ったのは最初の二口だけで、あとは椀を持ち上げて食べた。
「皮に、たれを塗らなくてよかったですか」
アキラは聞いた。
男は鶏を噛んだまま片手を上げた。
待て、ということらしい。
骨際の肉まで歯で外し、玉葱を麦へ混ぜ、最後に残った皮で皿のたれをぬぐった。
皿には、骨だけが残った。
「塗るな」
「分かりました」
「次もだ」
アキラは「次も」という二文字を、口の中で一度転がした。
「この琥珀鶏は、どこで育てているんですか」
今度は男の太い眉が上がった。
「北壁の外だ。秋は森胡桃を砕いて餌へ混ぜる。だから脂があの匂いになる」
「見に行けますか」
「鶏を食った客に、鶏舎の場所を聞く料理人は初めてだ」
「育つところを見れば、次の焼き方が分かるかもしれません」
ルチアが銅貨を数えた。
「明日の仕入れ代もない人が、北壁の外へ?」
「まず明日の朝、もう一皿作って売ります。鶏舎へ行くのは、そのあとです」
男は鼻から短く笑った。
「大盛りにできたら、道を教える」
大男は濡れた外套を肩へ掛ける。外の雨は、入ってきた時より弱くなっていた。
「店主。明日は何刻に開く」
ルチアは壁際に積んだ細長い皿の箱を見た。
積まれた箱は、閉店後の片づけにしては多い。十二脚の椅子をすべて上げていたのも、今日だけ店を閉めるためではなかったらしい。
ルチアは卓の銅貨を数え、一枚だけアキラの前へ滑らせた。
「朝の七つ鐘」
「なら、その時に来る」
男が扉を開ける。
「ガランだ。東門の夜番をしている」
帰る時になって、ようやく名乗った。
「明日は大盛りにしておけ、料理人」
鈴が鳴り、扉が閉まった。
アキラは掌の銅貨を見た。
「これ、僕の分ですか」
「皿洗い代」
「料理代では?」
「身元の分からない人へ、いきなり料理代は払わない」
「厳しいですね」
「樹蜜を半匙も使った人に言われたくない」
ルチアは火かき棒を元の場所へ戻した。
「二階に小部屋がある。一晩だけ貸す。説明は皿を洗いながら。逃げても、東門の夜番が顔を覚えてる」
「朝の七つ鐘は、何時ですか」
ルチアはしばらく黙ったあと、壁の振り子時計を指した。
「そこから説明するの?」
アキラは空になった皿を流しへ運んだ。
客席では、ルチアが残りの椅子を卓へ上げていく。
ガランが使った一脚だけは、床に置いたままだった。




