ピコの屋台、最初の客は子どもだった
「店先の焼き台、一時間だけ貸して」
ピコは銅貨三枚と、蜜玉葱の袋をルチアの帳面へ置いた。
「皿洗い代から引けばいいのに」とアキラ。
「それじゃ、売れたのか働いたのか分かんないだろ」
十三歳の顔で、ルチアより商売人らしいことを言う。
ピコは《麦と灯》で皿を洗い、麦を研ぎ、客の注文を間違えなくなった。けれど、もらう銅貨にはいつも「手伝い代」と書かれている。今日は、自分の名の横へ「売上」と書きたいらしい。
ルチアは三枚を指で押さえた。
「場所、水、鉄板、閉店後の灰掃除。油と肉は別です」
「一時間だけだぞ」
「一時間でも鉄板は全部汚れます」
「水は井戸から来る」
「汲む人は空から来ません」
窓の外をニアが飛び過ぎた。
「来たよ?」
「呼んでいません」とルチア。
銅貨三枚は返ってこなかった。
旧東門の昼下がり。市場が片づき、夕方の客が来るまでの一時間だけ、《麦と灯》の前には人通りがある。ピコはそこへ小さな鉄板と鍋を出した。
売るのは、二温度玉葱の肉味噌麦包み。
名前が長い。
「二温度って、客に必要か?」
「俺には必要」
厚く切った蜜玉葱は、低い火でじっくり焼く。油は広げず、鍋底へ細く一筋。塩を先に振ると水が出すぎるので、何も入れずに蓋をした。
最初の厚切りは、表面だけ茶色く、中が白い。噛むと辛みが舌の奥へ残った。
「火を強くすれば」とアキラが手を伸ばす。
「強くしたら外が焦げる」
ピコは鶏骨汁を匙半分だけ鍋肌へ落とした。じゅっと立った蒸気を蓋で閉じ込める。火を弱め、玉葱が自分の水分で透き通るのを待つ。箸で押すと層がずれ、端から甘い汁がにじんだ。
薄切りの玉葱は、反対に熱い油へ短く入れる。
一度目は油がぬるかった。泡が弱く、玉葱は油を吸って曲がった。これは売らず、細かく刻んで店の夜スープへ回す。
二度目。薄い一枚を落とすと、細かな泡が縁を囲んだ。ピコはひとつ、ふたつ、みっつと数え、きつね色になる半歩前で網へ上げる。余熱で色が進み、冷えると薄い板のように固くなった。
「焦げる前に上げるの、誰に教わった?」
「昨日、アキラが焦がした」
「教えたとは言わない」
「見て覚えた」
それなら、たしかに授業料はいらない。
栗豚の挽き肉は、赤みが消えるまで細かくほぐして炒める。蜜玉葱の切れ端、豆味噌、鶏骨汁を入れ、木べらで鍋底へ一本の道が残るまで水分を飛ばす。汁が多ければ薄焼き生地から漏れ、少なすぎれば冷めた麦がぼそぼそになる。
冷えた光麦を指でほぐし、肉味噌と混ぜた。握り固めない。小さな薄焼き生地へ載せ、中心に柔らかい玉葱を置く。半月に折って両面を焼き、最後に揚げ玉葱を差し込む。
一口目は、ぱりっ。
その内側で、甘い玉葱と肉味噌を吸った麦がほどける。
アキラは試し焼きを一個割った。
「塩を、もう少し――」
「いらない」
「でも玉葱が甘いから、輪郭が」
「最初の客に聞く」
ピコは試食を取り上げ、二口で食べた。
「客の分を食べたな」
「試し焼きは数に入れてない」
「原価には入ります」とルチア。
ピコの頬が止まった。飲み込んだあと、帳面の隅へ小さく「一個」と書く。
鐘が鳴った。
焼ける匂いは通りへ出た。だが、人は匂いだけでは銅貨を出さない。
荷車を引く男は値札を見て通り過ぎた。パンなら同じ一枚で二人が食べられると言った。買い物帰りの女は「夕飯前だから」と笑い、子どもの手を引いた。その子だけが、振り返りながら角を曲がった。
ピコは鉄板の前で声を張らない。
「売らないのか」とアキラ。
「売ってる」
「呼ばないと分からない」
「分かる。札に書いた」
札の字は、肉味噌より詰まっていて読みにくかった。
アキラが書き直そうとすると、ピコは札を裏返した。表へ大きく「玉葱、ぱりぱりとやわらか」とだけ書く。長い料理名は裏へ追いやられた。
店先を、鼻の頭にそばかすのある少年が三度通った。
一度目は見た。二度目は匂いを嗅いだ。三度目は、握った銅貨を開いた。
「いくら?」
「一個、銅貨一枚」
「半分は?」
「半分にしたら、ぱりぱりと柔らかいのが一緒に入らない」
「半分だけ腹が減ってる」
「じゃあ半分、明日まで腹に残しとけ」
少年はまじめに考えた。アキラは笑いそうになり、ルチアに踵を踏まれた。客と売り手の交渉を、勝手に助けるなということらしい。
少年は一枚を出した。
ピコは初めて、自分の客へ包みを渡す。
「熱いから、上を持て。名前は?」
「トト」
「俺はピコ。店じゃなくて、今日のこれは俺の屋台」
「店の前なのに?」
「銅貨三枚払った」
トトは急に包みを大切そうに持った。三枚の重みが味へ加わったわけではない。それでも、誰から買った物かは分かったらしい。
壁際でかじる。揚げ玉葱が割れ、欠片が鼻についた。そのまま二口目を食べる。
「どう?」とアキラ。
ピコが肘で押した。
「俺が聞く」
ひと呼吸置き、客の口が空になるのを待つ。
「甘いのと、ぱりぱり、どっちが先に来た?」
「ぱりぱり」
「中の玉葱は?」
「甘い。熱い」
「肉は?」
「ちょっと濃い」
アキラは、だから塩を足さなくてよかった、と思った。言えば邪魔になるので黙る。
ピコは眉を寄せた。
「水、飲む?」
「ただ?」
「店の水は場所代に入ってる」
「じゃあ飲む」
半杯を一息で飲み、トトは残りを食べた。濃いと言ったくせに、端へこぼれた肉味噌を指ですくっている。
「嫌いだった?」
「濃いのと、嫌いは別」
ピコが黙る。
味を訊けば、良いか悪いかが返ってくると思っていた顔だ。客の口から出たのは、直せとも、そのままにしろとも決めてくれない言葉だった。
トトはもう一枚の銅貨を出した。
「もう一個」
「濃いんだろ」
「濃いから、水がうまい」
「水はただだぞ」
「じゃあ得した」
ピコは肉味噌の匙を、最初より浅くした。代わりに柔らかい玉葱を一層増やす。全部の鍋を薄くはしない。目の前の一個だけ、トトが二口目へ進みやすい釣り合いへ変える。
鉄板へ置く前に、アキラが訊いた。
「揚げ玉葱も減らす?」
ピコはトトを見る。
「ぱりぱりは?」
「多い方」
「だって」
誰に答えたのか分からない顔で、生地を返した。
二個目を食べたトトは、水を半杯残した。
「今度は薄い」
「肉を減らした」
「でも最初の濃いのも、ちょっと好き」
「どっちなんだよ」
「一個目は一個目。二個目は二個目」
ピコは一個目と二個目の包み紙を見比べた。どちらも空なのに、次にどちらを焼けばいいかは書いていない。
終わりの鐘が近づく。売れたのは二個。鉄板の脇には、まだ包んでいない六個分が残っていた。
ピコは売上袋を見てから、トトを見た。
「明日もいる?」
「焼き台を借りられたら」
ピコがルチアを見る。
「予約が何個なら貸す?」
「明日、材料と時間を計算してから決めます」
「今決めろよ」
「今日の売上を数える前に、明日の場所を買わない」
トトは二人を見比べ、銅貨を一枚置いた。
「じゃあ、次に開く日。同じ鐘。二個目の味を一個」
「水は?」
「半杯」
ピコは銅貨へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。今日の二枚が入った袋ではなく、空の小皿へ載せる。
「これは今日の売上じゃない。まだ焼いてないから」
ルチアは何も言わず、帳面だけを一行空けた。
トトが走り去る。角を曲がる前、鼻に残っていた揚げ玉葱の欠片をようやく払い落とした。
鐘が鳴り、屋台を閉める。
六個分の肉味噌は鍋から清潔な浅皿へ移し、湯気を逃がしてから店の夕食へ回す。客用として翌日へ持ち越さない。柔らかい玉葱はスープへ。揚げ玉葱は湿る前に、まかないの上へ散らした。
ルチアが銅貨を並べる。
売上、二枚。
場所代、三枚。蜜玉葱、肉、麦、油。試し焼き一個。売れなかった六個分は店が夕食の材料代だけを払うが、ピコの手間賃はつかない。
「赤字?」
「赤字です」
「二個売れたのに」
「八個ぶん仕込んだからです」
ピコは自分の名の横へ書かれた数字を睨んだ。「売上」は二枚ある。その下の「差引」は一枚と少しの赤だ。
指には、揚げ玉葱の匂いが残っていた。二個を売った手の匂いだと思えば嬉しい。六個を売れずに終えた手の匂いだと思えば、急に油くさい。同じ指を鼻へ近づけたまま、ピコは笑うか顔をしかめるか決められなかった。
アキラは励ましそうになり、やめた。売上も赤字も、先に別の名前へ変えてしまえば、今日ピコが三枚を払った意味がなくなる。
「トトの一枚を足せば」
「まだあなたの物ではありません」
「分かってる」
不機嫌に答え、それでも小皿の銅貨を売上袋へ移さなかった。
木札を一枚削る。ピコは字を書くたび舌を少し出した。
――トト。肉味噌少なめ。やわらか玉葱多め。ぱりぱり多め。水半杯。
「多めが二つもある」とアキラ。
「肉が少ないから入る」
「原価は?」
ピコの手が止まった。
「……明日、計算する」
「次に開く日です」とルチアが直した。
それは《麦と灯》の常連札ではない。黒字の証明でもない。
赤い数字の横に残った、ピコの最初の「いつもの」だった。
ルチアは貸した水差しを持ち上げた。底に、半杯より少し多く残っている。
「この水は返却で?」とピコ。
「洗い物に使います」
「じゃあ明日は水代、安くなる?」
「なりません」
ピコは木札の端へ、小さくもう一行書き足した。
――水代は、納得してない。




