完売した夜の雑炊一杯
開店して初めて、すべての価格札が裏返った。
照り焼き、なし。
黒パンの飴色スープ、なし。
雲芋コロッケ、なし。
最後の虹殻海老フライを、エリオ夫婦が半分ずつ食べた。二人が帰ると、十二席に残ったのは皿の丸い跡と、揚げ油の香りだけだった。
ルチアは売上を二度足した。
「完売」
普段なら銅貨が合っていても、もう一度数える。今夜は一度で帳面を閉じた。
ピコが店先の札へ、覚えたての大きな字で書く。
――ぜんぶ、うれた。
「『完売』で二文字です」とルチア。
「こっちの方が、たくさん売れた感じがする」
「字が多いだけです」
アキラは笑いながら、空になった鍋を水へ浸した。
忙しくて昼から何も食べていない。自分たちのまかないなら、一杯だけ作れる。
明日の仕込み用に取った澄まし鶏骨汁が小椀一杯。昼に炊いて浅皿へ広げ、すっかり冷ました光麦が一椀。月卵が一個。葱の青いところが少し。
「三人で分けますか」とアキラ。
「四人」とピコ。
「誰が四人目です?」
「俺。二人分食べる」
「あなたは海老の衣を五本つまみました」
「衣は飯じゃない」
店の鈴が鳴った。
ガランだった。
夜番を終えた鎧の肩に、白い夜露がついている。右袖には乾いた泥が太い筋になり、袖口に赤黒い染みが一つあった。
いつもの入口二番席へ座る。裏返った札を端から見て、それでも言った。
「照り焼き、大盛り」
「完売です」
「見れば分かる。言ってみただけだ」
ガランは腰を上げた。
その時、腹が鳴った。
鎧の中で鳴ったせいか、空の店によく響いた。
ピコが札へ一文字足した。
――ぜんぶ、うれた。腹は、へる。
「消せ」
「事実だよ」
「一杯ならあります」
アキラはまかないの材料を指した。
ガランは鶏骨汁、麦、卵の順に見た。
「お前たちの飯だろう」
「三人で分けても、一口ずつです。夜番明けの人に出します」
「俺たち三人の腹は?」とピコ。
「あなたは衣を食べたでしょう」
「五本だけ!」
ルチアが保存棚を閉めた。中には明日の琥珀鶏も、蜜玉葱もある。
その前に、彼女はガランの袖口を見た。
「外套は入口の鉤へ。手を洗ってください」
「血は乾いてる」
「乾いていても、食卓へ載せる物ではありません」
ガランは言い返さず、重い外套を脱いだ。手洗い鉢の水が、指の泥で薄く濁る。ピコが新しい水を足し、汚れた鉢は調理台から離れた流しへ運んだ。
「腹が減ってる客にも厳しいな」
「腹を壊させたら、もっと遅くなります」
「使うのは、そこに出した三つだけ。明日の食材は開けません」
「分かっています」
答えたアキラの手は、もう月卵を二個に増やそうとしていた。
ルチアが保存棚の鍵を腰袋へ入れる。
「分かっていません」
「大盛りを頼んだ人に、卵一個では」
「ない物を大盛りにはできません」
ガランが座り直した。
「少ないなら、少ないまま出せ」
アキラは一番小さい鉄鍋を火へ掛けた。
鶏骨汁は冷えると、表面の脂が薄い板のように固まる。全部を落とさず、半分だけ残す。夜露で冷えた体には脂も必要だが、多すぎれば一椀の終わりが重くなる。
この汁は昼の鍋を火のそばへ放置した物ではない。澄んだところだけを浅い銅鉢へ移し、湯気を逃がしてから蓋をし、冷却石の棚へ入れてあった。アキラは匂いと表面を確かめ、小鍋で一度しっかり沸かす。
透明な脂が丸くほどけ、鍋の中央まで泡が上がる。そこで火を弱めた。
沸く手前で冷たい光麦を入れる。
木匙の背で押し潰さない。汁へ沈め、固まったところだけを端からほどく。急いでかき回せば外側が崩れ、汁が糊のように濁る。麦粒が一つずつ動き出すまで待った。
「まだか」
「大盛りよりは早いです」
「何と比べてるんだ」
湯気に鶏の匂いが戻る。
塩を指先で一つまみ。味見して、足さない。煮詰まる一杯は、最初にちょうどよくすると最後が濃くなる。
月卵を割った。透けた白身の中に、淡い金色の黄身が浮かぶ。
白身の濃い部分を箸で切り、先に細く流す。白い帯が汁の中でゆっくり固まった。残りの白身と黄身は二度だけ混ぜ、火を弱めて円を描く。
刻んだ葱を散らす。
蓋をして、火を止めた。
「何息?」とピコ。
「ガランさんが鎧の留め具を二つ外すまで」
「俺を砂時計にするな」
そう言いながら、ガランは首元と胸元の留め具を外した。
蓋を開ける。
白身はふわりと固まり、黄身は光麦の間へ柔らかく残った。鶏骨の湯気に、卵の甘い香りと葱の青さが重なる。
深椀へ移しても、底の丸みが見える量しかない。
「親子雑炊です。少ないです」
「見れば分かる。言ってみただけか」
「先に言いました」
ガランは木匙を入れた。
一口目は、いつもの速さで飲んだ。
二口目で、麦を噛んだ。粒の中心にはわずかな弾力があり、外側だけが鶏骨汁を吸っている。卵の白いところは軽く、黄身のところはまろやかだった。
三口目の前に、ガランは泥のついた右袖を椀から遠ざけた。
「その血、怪我ですか」
「俺のじゃない。北門で荷車の車輪が外れた」
御者が車輪の下へ腕を挟み、旅人たちと持ち上げた。薬草院へ運び、積荷を門倉へ移し、代わりの番が来るまで北門に立ったという。
荷台にいた御者の息子は、自分が飛び降りたせいで車輪が外れたと思い込み、薬草院の戸口から動かなかった。ガランは壊れた留め金を見せ、子どもの体重で折れたのではないと説明してから門へ戻った。
「納得しました?」
「泣くのは止めた。今度は父親の分まで腹が減ったと言っていた」
「御者は?」
「腕は折れた。腹は減ったと言える」
「なら食べられますね」
「お前は何でも飯へ戻すな」
ガランの声はいつも通りだった。けれど匙を持つ指の節に、乾いた泥が入り込んでいる。
アキラは布巾を濡らして渡した。
「これは代金に入るか」
「手を拭く布まで売りません」
「ルチアに聞いた」
「入りません」とルチア。
ガランは指を一本ずつ拭いた。椀の湯気が弱くなる前に、残りを食べる。
半分を過ぎると、速度が落ちた。量を惜しんでいるのではない。熱が腹へ入るたび、肩の力が少しずつ抜けていく。
「足りませんよね」
「足りん」
「黒パンを買ってきます」
「店は閉まった。お前も座れ」
向かいの席を顎で示され、アキラは空の椀も持たずに座った。
ガランは最後の一匙まで掬った。椀の底へ葱が一本残り、それも食べる。
「最初の日は、俺一人でも肉が余っていた」
「今日は、あなたの照り焼きがありませんでした」
「逆だ。一杯あった」
アキラは代金を取らないつもりだった。まかないになるはずだった、残り物の一杯だ。
ガランは照り焼きの半額を置いた。
「少ない分だけ払う」
「売り物ではありません」
「俺が食えば、客の飯だ」
その言い方は、開店初日に食べた照り焼きと同じだった。
ルチアは銅貨を売上袋へ入れず、別の小皿へ置いた。
「今夜の完売へは足しません」
「なぜだ」
「完売と書いた後の一杯です」
「細かいな」
「明日の朝、数が合わない方が嫌です」
ガランは腰から小さな木札を外した。門番の交代表に使う札で、表には角が一本、裏には次の遅番の日が刻んである。
「この角の日だけ、閉店後に材料があれば一杯作れ」
「照り焼き大盛りではなく?」
「それは開いている時間に食う」
ルチアは木札を受け取らず、条件を聞いた。
「骨汁がない日は?」
「作らない」
「卵がない日は?」
「麦だけ」
「麦もない日は?」とピコ。
「完売札を見て帰る」
「門の事故で来られない日は?」
ガランは札の角印を指した。その下に、斜めの短い溝がある。
「この傷を炭で黒くしておく。待つな。料理にも火を入れるな」
来る客のための札に、来られない時の印まで入っている。
ルチアはようやく受け取り、店先の完売札の裏へ掛けた。ほかの客からは見えない。席を空けておく札ではなく、閉店して材料が残った夜だけ、小鍋を一つ火へ戻す札だ。
「一晩、何杯までですか」とルチア。
「今は一杯でしょう」とアキラ。
「それをあなたが勝手に三杯へ増やすから、今決めます。一杯まで」
「まだ増やしてません」
「増やす顔だ」とガラン。
「ガランさんまで、顔で決めないでください」
ピコが木札の裏へ何か書いた。
――料理人も、腹がへる。
「それは知ってる」とアキラ。
ガランが炭筆を取り、下へもう一行加えた。
――料理人が眠い日は、作らない。
「消します」
「客の腹だけ守って、作る者を倒すな」
太い指で札を押さえられ、アキラは炭筆を奪えなかった。
ピコが鍋底を覗く。
「で、俺たちの飯は?」
鶏骨汁はもうない。麦も卵も、ガランの腹へ入った。
ルチアが棚から、売れ残りではなく最初から三人分取り置いた黒パンの端を出した。
「あるじゃないですか」とアキラ。
「あなたが明日の卵を開けるか見ていました」
「試したんですか」
「完売した日の料理人を」
黒パンは固く、湯気もない。三人で噛むと、ぱり、ぱり、と空の店へ音が落ちた。
ガランは鈴の外から顔だけ戻した。
「少ないな」
「少ないです!」
ピコが一番大きな端を胸へ隠した。
店先では、「ぜんぶ、うれた。腹は、へる」の札が夜風に揺れていた。その裏で、角印の小さな札が一度だけ木へ当たり、こつんと鳴った。




