表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/29

完売した夜の雑炊一杯

 開店して初めて、すべての価格札が裏返った。


 照り焼き、なし。


 黒パンの飴色スープ、なし。


 雲芋コロッケ、なし。


 最後の虹殻海老フライを、エリオ夫婦が半分ずつ食べた。二人が帰ると、十二席に残ったのは皿の丸い跡と、揚げ油の香りだけだった。


 ルチアは売上を二度足した。


「完売」


 普段なら銅貨が合っていても、もう一度数える。今夜は一度で帳面を閉じた。


 ピコが店先の札へ、覚えたての大きな字で書く。


 ――ぜんぶ、うれた。


「『完売』で二文字です」とルチア。


「こっちの方が、たくさん売れた感じがする」


「字が多いだけです」


 アキラは笑いながら、空になった鍋を水へ浸した。


 忙しくて昼から何も食べていない。自分たちのまかないなら、一杯だけ作れる。


 明日の仕込み用に取った澄まし鶏骨汁が小椀一杯。昼に炊いて浅皿へ広げ、すっかり冷ました光麦が一椀。月卵が一個。葱の青いところが少し。


「三人で分けますか」とアキラ。


「四人」とピコ。


「誰が四人目です?」


「俺。二人分食べる」


「あなたは海老の衣を五本つまみました」


「衣は飯じゃない」


 店の鈴が鳴った。


 ガランだった。


 夜番を終えた鎧の肩に、白い夜露がついている。右袖には乾いた泥が太い筋になり、袖口に赤黒い染みが一つあった。


 いつもの入口二番席へ座る。裏返った札を端から見て、それでも言った。


「照り焼き、大盛り」


「完売です」


「見れば分かる。言ってみただけだ」


 ガランは腰を上げた。


 その時、腹が鳴った。


 鎧の中で鳴ったせいか、空の店によく響いた。


 ピコが札へ一文字足した。


 ――ぜんぶ、うれた。腹は、へる。


「消せ」


「事実だよ」


「一杯ならあります」


 アキラはまかないの材料を指した。


 ガランは鶏骨汁、麦、卵の順に見た。


「お前たちの飯だろう」


「三人で分けても、一口ずつです。夜番明けの人に出します」


「俺たち三人の腹は?」とピコ。


「あなたは衣を食べたでしょう」


「五本だけ!」


 ルチアが保存棚を閉めた。中には明日の琥珀鶏も、蜜玉葱もある。


 その前に、彼女はガランの袖口を見た。


「外套は入口の鉤へ。手を洗ってください」


「血は乾いてる」


「乾いていても、食卓へ載せる物ではありません」


 ガランは言い返さず、重い外套を脱いだ。手洗い鉢の水が、指の泥で薄く濁る。ピコが新しい水を足し、汚れた鉢は調理台から離れた流しへ運んだ。


「腹が減ってる客にも厳しいな」


「腹を壊させたら、もっと遅くなります」


「使うのは、そこに出した三つだけ。明日の食材は開けません」


「分かっています」


 答えたアキラの手は、もう月卵を二個に増やそうとしていた。


 ルチアが保存棚の鍵を腰袋へ入れる。


「分かっていません」


「大盛りを頼んだ人に、卵一個では」


「ない物を大盛りにはできません」


 ガランが座り直した。


「少ないなら、少ないまま出せ」


 アキラは一番小さい鉄鍋を火へ掛けた。


 鶏骨汁は冷えると、表面の脂が薄い板のように固まる。全部を落とさず、半分だけ残す。夜露で冷えた体には脂も必要だが、多すぎれば一椀の終わりが重くなる。


 この汁は昼の鍋を火のそばへ放置した物ではない。澄んだところだけを浅い銅鉢へ移し、湯気を逃がしてから蓋をし、冷却石の棚へ入れてあった。アキラは匂いと表面を確かめ、小鍋で一度しっかり沸かす。


 透明な脂が丸くほどけ、鍋の中央まで泡が上がる。そこで火を弱めた。


 沸く手前で冷たい光麦を入れる。


 木匙の背で押し潰さない。汁へ沈め、固まったところだけを端からほどく。急いでかき回せば外側が崩れ、汁が糊のように濁る。麦粒が一つずつ動き出すまで待った。


「まだか」


「大盛りよりは早いです」


「何と比べてるんだ」


 湯気に鶏の匂いが戻る。


 塩を指先で一つまみ。味見して、足さない。煮詰まる一杯は、最初にちょうどよくすると最後が濃くなる。


 月卵を割った。透けた白身の中に、淡い金色の黄身が浮かぶ。


 白身の濃い部分を箸で切り、先に細く流す。白い帯が汁の中でゆっくり固まった。残りの白身と黄身は二度だけ混ぜ、火を弱めて円を描く。


 刻んだ葱を散らす。


 蓋をして、火を止めた。


「何息?」とピコ。


「ガランさんが鎧の留め具を二つ外すまで」


「俺を砂時計にするな」


 そう言いながら、ガランは首元と胸元の留め具を外した。


 蓋を開ける。


 白身はふわりと固まり、黄身は光麦の間へ柔らかく残った。鶏骨の湯気に、卵の甘い香りと葱の青さが重なる。


 深椀へ移しても、底の丸みが見える量しかない。


「親子雑炊です。少ないです」


「見れば分かる。言ってみただけか」


「先に言いました」


 ガランは木匙を入れた。


 一口目は、いつもの速さで飲んだ。


 二口目で、麦を噛んだ。粒の中心にはわずかな弾力があり、外側だけが鶏骨汁を吸っている。卵の白いところは軽く、黄身のところはまろやかだった。


 三口目の前に、ガランは泥のついた右袖を椀から遠ざけた。


「その血、怪我ですか」


「俺のじゃない。北門で荷車の車輪が外れた」


 御者が車輪の下へ腕を挟み、旅人たちと持ち上げた。薬草院へ運び、積荷を門倉へ移し、代わりの番が来るまで北門に立ったという。


 荷台にいた御者の息子は、自分が飛び降りたせいで車輪が外れたと思い込み、薬草院の戸口から動かなかった。ガランは壊れた留め金を見せ、子どもの体重で折れたのではないと説明してから門へ戻った。


「納得しました?」


「泣くのは止めた。今度は父親の分まで腹が減ったと言っていた」


「御者は?」


「腕は折れた。腹は減ったと言える」


「なら食べられますね」


「お前は何でも飯へ戻すな」


 ガランの声はいつも通りだった。けれど匙を持つ指の節に、乾いた泥が入り込んでいる。


 アキラは布巾を濡らして渡した。


「これは代金に入るか」


「手を拭く布まで売りません」


「ルチアに聞いた」


「入りません」とルチア。


 ガランは指を一本ずつ拭いた。椀の湯気が弱くなる前に、残りを食べる。


 半分を過ぎると、速度が落ちた。量を惜しんでいるのではない。熱が腹へ入るたび、肩の力が少しずつ抜けていく。


「足りませんよね」


「足りん」


「黒パンを買ってきます」


「店は閉まった。お前も座れ」


 向かいの席を顎で示され、アキラは空の椀も持たずに座った。


 ガランは最後の一匙まで掬った。椀の底へ葱が一本残り、それも食べる。


「最初の日は、俺一人でも肉が余っていた」


「今日は、あなたの照り焼きがありませんでした」


「逆だ。一杯あった」


 アキラは代金を取らないつもりだった。まかないになるはずだった、残り物の一杯だ。


 ガランは照り焼きの半額を置いた。


「少ない分だけ払う」


「売り物ではありません」


「俺が食えば、客の飯だ」


 その言い方は、開店初日に食べた照り焼きと同じだった。


 ルチアは銅貨を売上袋へ入れず、別の小皿へ置いた。


「今夜の完売へは足しません」


「なぜだ」


「完売と書いた後の一杯です」


「細かいな」


「明日の朝、数が合わない方が嫌です」


 ガランは腰から小さな木札を外した。門番の交代表に使う札で、表には角が一本、裏には次の遅番の日が刻んである。


「この角の日だけ、閉店後に材料があれば一杯作れ」


「照り焼き大盛りではなく?」


「それは開いている時間に食う」


 ルチアは木札を受け取らず、条件を聞いた。


「骨汁がない日は?」


「作らない」


「卵がない日は?」


「麦だけ」


「麦もない日は?」とピコ。


「完売札を見て帰る」


「門の事故で来られない日は?」


 ガランは札の角印を指した。その下に、斜めの短い溝がある。


「この傷を炭で黒くしておく。待つな。料理にも火を入れるな」


 来る客のための札に、来られない時の印まで入っている。


 ルチアはようやく受け取り、店先の完売札の裏へ掛けた。ほかの客からは見えない。席を空けておく札ではなく、閉店して材料が残った夜だけ、小鍋を一つ火へ戻す札だ。


「一晩、何杯までですか」とルチア。


「今は一杯でしょう」とアキラ。


「それをあなたが勝手に三杯へ増やすから、今決めます。一杯まで」


「まだ増やしてません」


「増やす顔だ」とガラン。


「ガランさんまで、顔で決めないでください」


 ピコが木札の裏へ何か書いた。


 ――料理人も、腹がへる。


「それは知ってる」とアキラ。


 ガランが炭筆を取り、下へもう一行加えた。


 ――料理人が眠い日は、作らない。


「消します」


「客の腹だけ守って、作る者を倒すな」


 太い指で札を押さえられ、アキラは炭筆を奪えなかった。


 ピコが鍋底を覗く。


「で、俺たちの飯は?」


 鶏骨汁はもうない。麦も卵も、ガランの腹へ入った。


 ルチアが棚から、売れ残りではなく最初から三人分取り置いた黒パンの端を出した。


「あるじゃないですか」とアキラ。


「あなたが明日の卵を開けるか見ていました」


「試したんですか」


「完売した日の料理人を」


 黒パンは固く、湯気もない。三人で噛むと、ぱり、ぱり、と空の店へ音が落ちた。


 ガランは鈴の外から顔だけ戻した。


「少ないな」


「少ないです!」


 ピコが一番大きな端を胸へ隠した。


 店先では、「ぜんぶ、うれた。腹は、へる」の札が夜風に揺れていた。その裏で、角印の小さな札が一度だけ木へ当たり、こつんと鳴った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ