覆面記者が残した、鱒の一切れ
その男は料理より先に、値札を見た。
次に椅子の脚、厨房の流し、食べ終えた隣客の皿。光る麦にも、《旬眼》にも質問しない。
アキラは、街道新聞の記者ではないかと疑った。
「銀鱗鱒を」
今朝、東の川から届いた一尾。皮は薄銀色、身は淡い桃色。脂は少ないが、腹を開くと川藻に似た青い香りがした。
包丁を取ると、いつもなら使うはずのない長さ定規へ、手が先に伸びた。
骨を抜き、身の厚さを揃える。豆蜜と花蜜、青酸果皮を合わせた床へ、身側だけを短く当てる。皮と身を分け、身は弱い火、皮は二枚の鉄板で挟み焼き。ぱりっと乾いた皮を、最後に身へ立てた。
「いつもは横」とピコ。
「湿らないようにです」
「横でも湿ってない」
アキラは聞こえないふりをした。
皿へ光麦、焼き青菜、青酸果。鱒は三切れ。皮は帆のように立っている。
男は最初に皮を食べた。
ぱき、と薄い音。
次に身。豆蜜は表面だけへ染み、内側には淡い脂が残る。青酸果皮の匂いが飲み込んだあとに抜けた。
男は食べる速さを変えない。感想も言わない。
最後に鱒が一切れ残った。
光麦も青菜も空。鱒だけが皿の端へきれいに置かれている。
「火が入りすぎましたか」
「なぜ?」
「残っているので」
「残したら失敗ですか」
前の店の常連を思い出す。
新しくしたオムライスを黙って食べ、皿を空にし、それきり来なかった客。皿が空でも、人の気持ちは分からない。
「理由を訊く前に、そう思いました」
男は鱒を薄紙へ包んだ。
「夫が夜番です。一口だけ持って帰る」
「冷めます」
「冷めた味も食べる」
「温め直すなら、強火にしないでください。皮は別に」
「記事より細かいな」
男は胸元から銀の筆章を出した。
「エリオ。街道新聞で食と宿を担当している」
「やっぱり」とピコ。
「何が分かった」
「普通の客より、椅子を見てた」
エリオは椅子の脚をもう一度見た。十二脚のうち、入口側だけ何度も引かれ、床に白い跡がある。
「料理人より目がいい」
「俺は耳もいい」
ピコが威張る。エリオは初めて笑った。
「皮は横でもよかった」
「湿り方が違います」
「味より、格好を優先しなかったか」
アキラは皿を見る。
立てた皮は目を引く。だが客が一口を包む時には邪魔で、エリオは自分で横へ倒した。記者へ見せたかった皿と、夫へ持ち帰りたかった一切れは、同じ形を望んでいなかった。
「少し」と認めた。
「そこは書く」
翌朝、街道新聞が店へ届いた。
大きな見出しではない。旧東門の小さな食堂欄だった。
――一切れ持ち帰れる店。ただし、鱒は一尾。
記事は褒めていた。皮の音、川藻の匂い、光麦との相性。値段も書いた。最後には、料理人が記者と知ると皮を立て、いつもより皿を飾ったことまで書かれている。
「そこ、要る?」とアキラ。
「読者は記者じゃないから」とルチア。
記事には、夫が冷めた鱒を食べたとも書かれていた。皮は湿ったが、身は黒パンへ載せると塩気がちょうどよかったという。
ただし、翌朝二人で来るとは書かれていない。
七つ鐘を過ぎても、エリオは来なかった。
夫も来ない。
「夜番なら寝ている」とルチア。
「記事を書いた人は?」
「仕事でしょう」
来ない理由はいくらでも作れる。どれも本人の答えではない。
代わりに、記事を読んだ客が七人来た。
鱒は一尾しかない。
浅い冷却箱の中で、腹が押し潰れないよう布輪に載っている。鰓は暗い赤、目はまだ澄み、腹へ鼻を近づけても川藻の匂いしかしない。捕った鐘、血を抜いた鐘、冷却箱へ入れた鐘の札も揃っていた。
アキラは魚を台へ出す前に、七人を見た。
先頭の馬番。子を抱いた女。染め糸を買った帰りの姉妹。新聞を丸めて握る若い書記。残る二人は、朝の鐘を気にして何度も入口を見る荷運び人だった。
「記事に書いてある」とルチア。
「本当に一尾とは思わなかった」と先頭の馬番。
「一尾と書いて、一尾以外の意味があります?」
「新聞は大げさに書くものだろ」
エリオ本人がいれば怒ったかもしれない。いないので、記事だけが折り畳まれた。
「記事と同じ焼き鱒は一皿だけです。三切れで、記事と同じ値段」
ルチアが平皿を一枚置く。隣へ深皿を五枚。
「頭と骨の汁、ほぐし身、焼き身一切れなら五皿。こちらは三銅貨安い。七皿にはできません」
「一尾を七つに切ればいい」と若い書記。
「身が指先ほどになります」とアキラ。
「記事の皮は?」
「五つに割って横へ置きます。立てません」
「新聞と違うじゃないか」
「だから、切る前に言っています」
アキラの包丁は、まだ鱒へ触れていない。七人の期待を一尾へ押し込めてから説明しても遅い。
「焼き鱒一皿を七人で取り合うか、五人が汁を食べるか。決めてください」とルチア。
馬番が深皿を取った。
「俺は腹へ入る方。新聞には負けた気がするが」
子を抱いた女も深皿を取る。姉妹は二人で顔を見合わせ、同じ方へ手を伸ばした。若い書記は少し迷って五枚目を取った。
七人へ同じ焼き身を出せば、一切れが指先ほどになる。一皿を守れば、六人が匂いだけ嗅いで帰る。
「七人で食べられる形にします」
「記事の皿じゃないのか」と馬番。
「違います」
二人が帰った。
一人は「皮を食べに来た」と言い、一人は急いでいた。アキラは呼び止めなかった。残った五人へ、記事と同じだと嘘はつけない。
頭と中骨は血を洗い、短く湯へ通す。冷たい水から鍋へ入れ、沸く直前の小さな泡で保つ。白い濁りをすくうと、透明な脂が丸く浮いた。腹骨の周りについた身は匙で外す。
皮は水気を拭き、鉄板へ平らに押しつける。立てない。乾いたら細長く五つへ割る。
身の厚い中央は五切れ。塩は焼く直前。皮目から火へ置くと細かな泡が端から出る。下から半分まで色が変わったところで返し、すぐ弱火へ落とす。
五つの深皿へ、温かい光麦を半椀。ほぐした骨身。鱒出汁。青酸果の皮。最後に焼いた身を一切れと、ぱりぱりの皮を横へ置いた。
最初に匙を入れたのは、子を抱いた女だった。皮を子どもへ渡し、自分は汁を飲む。骨から出た旨味が麦の隙間へ入り、川魚の淡い脂が舌へ残る。青酸果皮は生臭さを消すほど強くせず、湯気の終わりだけ軽くした。
「骨は?」
女が子の口元を見る。
「汁は濾しました。ほぐし身も指と目で二度確かめています。でも、お子さんの一口は小さくして見てください」
女は身を匙の背で割り、自分で中心を確かめてから子へ渡した。子どもは鱒より先に、汁を吸った麦を三粒ずつ舌へ載せた。
馬番は身を最後まで残した。
「誰かへ持って帰ります?」
「残すと記事になるんだろ」
「なりません」
「じゃあ食う」
皮を噛む音が、最後まで客席に残った。
五人のうち三人は満足した。女は骨汁をもう一口。馬番は次もこの汁でいいと言った。
残る二人は、記事の焼き鱒が食べたかったと言った。
「おいしくない?」とピコ。
「うまい。でも、これを目当てに来たんじゃない」
若い書記は、挿絵の立った皮を指で叩いた。
「この音を食べに来た。汁の味が悪いわけじゃない」
染め糸の姉は、妹と一つの新聞を見ながら首を振る。
「私は三銅貨安い方で助かった。でも、この人の分まで満足したことにはしないで」
二人は代金を払い、予約をしなかった。
料理がうまくても、注文と違えば不満は残る。
アキラは二人を正しく説得する言葉を探した。見つかる前に、扉が閉まった。
残った客も、同じ顔ではなかった。
子を抱いた女は、空になった深皿を見てから訊いた。
「新聞の人が食べたのは、これより高い?」
「焼き身が多いので、三銅貨高いです」
「じゃあ私は、こっちでいい。子どもと分けられるから」
馬番は反対だった。
「俺は次、金を足して焼いたのを食う。汁が嫌いじゃないが、記事に負けた気がする」
「誰にです?」とピコ。
「新聞を先に食った奴らにだ」
新聞は食べられない、とアキラが言う前に、馬番は二つ折りの記事を卓へ広げた。油のついた指が、立てた鱒皮の挿絵を汚す。
「ここだ。こんなふうに、ぱりっと立ってる」
「立てると運ぶ途中で湿ります」
「店で食うんだよ」
「でも、皮だけ先に焼けば――」
ルチアが厨房から咳をした。
また説明で客の欲しい物を直そうとしている。
アキラは口を閉じた。
「次に大きい鱒が入ったら、記事の皿を二つだけ出します。皮は立てます」
「二つ?」
「七つとは言えません」
馬番は不満そうに鼻を鳴らしたが、代金の横へ銅貨を一枚余計に置いた。予約金ではない。
「大きいのが入った日に俺が馬糞を片づけてたら、誰かに食わせろ」
「取り置きしなくていいんですか」
「鱒は俺の勤務表を読まん」
女は笑った。眠っていた子どもが起き、母の手から皮の端を取った。もう湿っていたので、噛んでも音がしない。子はそれでも歯の間へ挟み、長いことしゃぶった。
客が帰ると、五枚の深皿と、使わなかった平皿が一枚残った。
ピコが平皿を重ねる。
「焼き鱒に使うはずだった皿?」
「料理を出していないから、違います」
「じゃあ、帰った二人の皿は?」
「最初から出していません」
アキラは答えず洗い桶へ入れた。皿同士が当たり、記事の挿絵よりずっと鈍い音がした。
その夜、彼は残った鱒出汁をまかないへ回した。ルチアは一口飲み、「うまい」と言ったあと、塩を足した。
「記事にはできない味ですね」
「記事にしなくていい物まで、記事向けにするから疲れるの」
アキラは皮のない汁を飲んだ。自分の舌には、昼より少し塩辛かった。
入口脇の記事では、銀の皮がまっすぐ立っている。
洗い桶には深皿が五枚。使わなかった平皿が一枚。料理を出さずに帰った二人の皿は、最初からない。
エリオの席も空いていた。
アキラは記事の下へ、その日の品書きを並べた。
――銀鱗鱒一尾。焼き鱒一皿、または鱒汁五皿。包丁を入れる前に決める。
ピコが読んだ。
「新聞より地味」
「新聞の皮は食べられませんから」
昼に鳴った本物の皮の音は、もう店に残っていなかった。




