初満席の夜、謎の食材箱が届く
十二脚すべてに客が座ると、《麦と灯》は急に小さくなった。
ガランの肩が通路へ出る。ニアの翼がベルンのパン籠へ触れる。ザックが椅子を引くたび、後ろのヘスが腹をへこませた。
「満席」
ルチアは入口札を初めて裏返した。
《空席あり》の反対側には、《少し待って》と書いてある。
「少しって、どれくらい?」とピコ。
「最初の客が食べ終わるまで」
「ぜんぜん少しじゃない」
今夜の十二人は、ガラン、ニア、メル、ザック、ヘス、ミミナ、エナ、ラド、ベルン、サラ。それに、以前、雪桃プリンを食べた子どもが二人。
開店祝いをする余裕などなかった店が、ようやく十二席を一度に埋めた。そこで今夜は、これまで出してきた十品を一口ずつ食べる《十味膳》にした。豪華な新作ではない。店の二十日を、小皿へ載る大きさにした料理だ。
最初は、焦がし葱の澄まし汁。
鶏骨の出汁は濁らせず、椀へ注ぐ直前に熱した鶏油を葱へ落とす。じゅっと縮んだ青い葉から、甘い焦げ香が立った。
「鼻で飲んでから、口で飲む」とベルンが隣の子どもへ教えた。
「鼻には入れないよね?」
「入れるな。匂いだけだ」
次は、黒パンの飴色玉葱スープ。匙の先ほどの乳酪が表面で薄い膜になっている。
「そこを割る。その下のパンを汁ごと」とベルン。
「さっきから店の人みたい」とサラが笑う。
「パンのことだけなら、店の人より詳しい」
アキラは厨房から、そのやり取りを聞いた。自分が説明しに出なくても、食べ方が客から客へ渡っている。
雲芋の格子焼きは、切れ目へ鶏油が染み、角だけが薄く砕ける。ピコの小判コロッケは、半分に割ると湯気の中から挽き肉と炒め玉葱が現れた。
「俺の照り焼きは大きくしろ」とガラン。
「まだコロッケです」とルチア。
「先に言っておく」
「全員、同じ一口です」
「俺の一口は大きい」
隣の子どもが、まだ来ていない照り焼きを守るように、自分の空皿へ両手を置いた。
「取らん」
「見たもの」
「皿しかない」
「もう見てる」
栗豚の生姜焼きには、すり下ろした根生姜を最後に足した。熱で甘くなった生姜の奥に、生の辛い香りが一本残る。エナは青酸果を一滴だけ絞り、隣のミミナへ渡した。
「最初はそのまま。次の一口で酸果」
「一口しかないよ」
「じゃあ半分までそのまま」
「小さすぎて、半分にしたら消えそう」
アキラが月卵の二層蒸しを火から下ろした時、入口の鈴が鳴った。
扉の外に、青い長靴が三足並んでいた。
ボルク、シア、レンが、大きな木箱を三人で抱えている。箱の角には乾いた赤土がつき、縄には見慣れない金色の麦穂印が結ばれていた。
「席は?」
ボルクが十二人を見回す。
「満席」とルチア。
「俺たちが来る日だぞ」
「予約していないでしょう」
「食材を持ってきた」
「食材は椅子にならない」
青靴隊は、箱をごとりと入口の受取板へ置いた。泥のついた荷を客席や調理台へ直置きしないため、ルチアが普段から空けている板だ。
その音で、アキラの手が止まった。
蓋の隙間から、知らない匂いがする。乾いた栗に似た香りと、青い柑橘の匂い。箱の底からは、触れなくても分かるほどの冷気が漏れていた。
蓋の隙間を覗くと、その向こうに細い色輪が幾本も重なって見えた。金、白、青、赤。今まで一つの食材で見た輪より多い。しかも、別々の食材の輪が箱の中で交差している。
アキラは月卵蒸しを持ったまま、厨房口へ一歩出た。
「開けてもいいですか」
「こっちが冷める」とガラン。
ガランは自分の料理でなく、子どもの前に置かれた月卵蒸しを指した。
表面はまだ、息をかけるほど細く揺れている。だが二層の境目は、冷めると締まり、上の柔らかさと下の濃い卵の差が消える。
「箱は逃げる?」とピコ。
「逃げません」
「卵は?」
「冷めます」
「じゃあ卵が先」
アキラは木箱から手を離した。
箱を開ければ、新しい料理が見える。だが、そのために今ある十皿の一番うまい時を逃したら、食べ頃の輪が見える意味がない。
「お待たせしました」
月卵蒸しを十二人へ運ぶ。メルの小椀にだけ安全札つきの森茸を一枚沈めた。匙を入れると、上の淡い層がふるえ、下から濃い黄身色がのぞく。
青靴隊には椅子が空くまで、厨房脇で待ってもらった。ピコが小判コロッケを一個ずつ紙へ載せる。
「待ち代」
「肉は?」とボルク。
「中」
「少ない」
「待つ人は一個」
ボルクが割ると、薄い衣がぱりっと鳴った。雲芋は舌でほどけ、挽き肉の脂が遅れて広がる。シアとレンは息を吹きかけて食べたが、ボルクだけは熱いまま口へ入れた。
「熱くない?」とピコ。
「熱い」
「どうして平気な顔してるの」
「二個目をもらう顔だ」
「一個」
琥珀鶏のつくねは、黄身だれを卓で割って絡める。皮ぱり照り焼きは、皮目をもう一度だけ鉄板へ押し当て、乾いた音が戻ってから運んだ。ガランの照り焼きも、子どもの照り焼きも、同じ幅に切ってある。
ガランは自分の一切れを持ち上げた。
「見てないから、ゆっくり食べていいよ」と子ども。
「見られていた方が食いにくい」
春豆の炊き込み光麦は、硬い豆を先、柔らかい豆を蒸らし際に入れている。一口の中でも、豆の歯ごたえが二度変わる。
最後は雪桃プリン。冷たい芯を細かく砕き、常温に近い果肉へ混ぜ込んだ。匙を入れた場所からだけ白い冷気がほどけ、乳の甘さのあとを桃の酸味が洗う。
「飛行用卵巻きは?」とニア。
「十品に入っていません」
「私の料理なのに」
「あなたが持ち逃げした料理でしょう」とルチア。
「空で食べただけ」
「代金を払う前に」
「あとで戻った」
「料理は戻っていません」
十二人分の空皿が厨房へ返ってきた。
ルチアは小さな木札を一枚ずつ配った。
――もう一口、食べたい物を一つだけ。
ガランは照り焼き。ニアは雪桃。メルは月卵蒸し。ザックは黒パンスープ。子ども二人は雲芋とコロッケで分かれた。
「一番が決まりませんね」とアキラ。
「決めなくていい。明日も食べに来た人の札から、仕入れを考える」
「照り焼きへ二枚目を書いてやる」とザック。
「一人一枚です」
「客の意見を減らすな」
「ザックさんの意見を増やさないだけです」
子ども二人とベルン、サラが席を立った。四脚が空き、青靴隊がようやく座る。
「箱」とボルクが言う。
「先に注文です」とルチア。
「箱を開けたら、中身を食わせてくれるだろ」
「安全を確かめていない食材は出しません」
「では、照り焼き三つ」
「二個目のコロッケじゃないんだ」とピコ。
「一個しかくれないからだ」
三人の照り焼きを焼いてから、全員で箱を囲んだ。
蓋を開ける。
最初に見えたのは、淡金色の光麦だった。町の物より一回り大きい。乾いた粒を指で転がすだけで、栗の渋皮に似た香りが立つ。
その下には、虹色の殻を持つ海老が冷却藻に包まれていた。殻の青、黄、赤は光の反射ではない。見る角度を変えなくても、細い縞が腹から尾へ流れている。青い柑橘に似た匂いは、海老ではなく冷却藻から出ていた。
白布の中には雪桃が三つ。以前使った物より大きく、果皮に触れなくても、中心の冷気で布がしっとり濡れている。
「一つの箱に、料理が多すぎる」
アキラはしゃがみ込んだ。
光麦には、炊いた時の金輪と、乾煎りしてから煮た時の琥珀輪。虹殻海老は身と殻で食べ頃が違う。雪桃は外側の金輪と、冷たい芯の白輪。六本を超える色が、開いた箱の上で細い道のように重なっていた。
「見すぎて寄り目になってる」とピコ。
「どれから作ろう」
「まだ一皿も作れない」とメル。
彼女は海老についた札を裏返した。
「産地はある。採った日もある。毒性検査と加熱条件がない」
アキラの指が、海老の殻へ届く前に止まる。
「雲芋で学んだでしょう」
「はい。海老は、確認が取れるまで調理しません」
メルが札へ赤い紐を結び、海老を冷却藻ごと蓋つきの箱へ戻した。光麦は乾いた袋へ、雪桃は冷却布を敷いた籠へ移し、汁や匂いが混ざらないように離す。
三つの食材には、それぞれ産地札がついていた。
光麦――黄金平原・南畑。
虹殻海老――第三用水路。
雪桃――白丘農園。
札の裏には、同じ一文がある。
――旧東門で売れる料理を求む。
箱の底から、掌ほどの木板が出てきた。旧東街道の形へ細長く削られ、五か所だけ丸い窪みがある。
添え状をメルが読んだ。
――王都百味市は、翌年も食べられる東の料理を求む。黄金平原、翠冠森、鉄背山、霧の水郷、青潮海岸。それぞれの土地が「外へ持って行ってよい」と認めた料理には、《旬印》を一つ預ける。五印を王都へ運んだ者へ、百味市の中央火口を貸す。
「中央火口って大きい?」とピコ。
「千人鍋を二つ並べられる」とルチア。
「行こう」
アキラより先に、ピコが言った。
「すぐ平原へ?」とニア。
「まだ行かない」
ルチアは光麦、海老、雪桃の名を帳面へ一行ずつ書いた。
「この町で一皿も売っていない食材を持って、産地へ仕入れの話には行けない。まず三品。誰が買うか、いくらならもう一度食べるか確かめる。その答えを持って、こちらから会いに行く」
「三つとも明日?」とアキラ。
「海老の安全確認は?」とメル。
「三つとも、確認できた日からです」
アキラは木板の五つの窪みを見た。前世では、厨房の壁に産地の地図を貼っていた。行きたい場所へ丸をつけても、休みが取れず、地図の端が油で黄ばんだ。
今は、空の窪みが向こうから店へ届いた。
「地図は腹にたまらん」とボルク。
目の前の照り焼きが、まだ一切れ残っている。
「冷めますよ」とアキラ。
「箱を先に開けたのは誰だ」
「料理を出してから開けました」
「なら、見ているだけだ」
「さっきのガランさんと同じことを言ってる」とピコ。
ボルクは照り焼きを食べた。薄い皮が歯の下で割れ、甘辛いたれの奥から、焼き直した鶏脂の香りが出る。シアとレンも自分の皿へ戻った。
三人の皿が空になるまで、アキラは木板へ触らなかった。
食べ終えたボルクが、皿を箱の隣へ置く。
「照り焼き、もう一つ」
「一人一枚の札です」とルチア。
「札ではない。注文だ。代金も払う」
ルチアは入口の《少し待って》を見てから、照り焼き用の鶏を数えた。
「一皿だけなら」
「三人いる」
「一皿を三つに切ります」
「俺の一口は大きい」
「その『俺の一口は大きい』、ガランの台詞だよ」と子どものいなくなった席で、ピコが言った。
五つの窪みは、一つも埋まっていない。
その夜、先に空になったのは、青靴隊の三枚の皿だった。




