十脚目の椅子は、料理人不在の日に埋まった
アキラが市場へ出た日に、十人目の客が来た。
「転生した料理人は?」
旅装の書記は、空いていた十脚目へ座る前に訊いた。
王都へ向かう途中、《火角亭》の朝飯札と雪桃農園の送り箱で店名を見たという。靴は乾いている。昼鐘の馬車へ乗るため、寄り道できるのは一刻だけだった。
「仕入れ」とルチア。
「いつ戻りますか」
「昼鐘のあと」
まだ朝鐘を少し過ぎたところだ。
書記は椅子の背へ手を置いたまま、扉を見た。
「待つには長いですね」
店内には九人いた。
ガランは入口で酸果煮込み。ニアは窓際で雲芋コロッケ。メルは煮込みの酸味を記録し、ヘスは黒パンへ花蜜バターを塗っている。門番のミミナ。親子のエナとラド。パン屋夫婦のベルンとサラ。
全員が名物照り焼きを食べているわけではない。
今日の品書きは三つだけだった。
ルチアの酸果栗豚煮。ピコの雲芋コロッケ。ベルンとサラが焼いたばかりの黒パン。
「アキラの料理はありません」とルチア。
「なら、紹介された店と違う」
書記は立ち上がりかけた。
「今日はこっちの日だ」
ガランが言った。
「こっち?」
「酸っぱい方と、揚げる方と、パンの方」
「説明が雑」とニア。
「腹には通じる」
ガランは酸果煮をもう一皿注文した。
「大盛りがないから二つ食う」
「酸果煮をもう一皿頼んだのは、ルチアが作った料理だから?」とピコ。
「肉だからだ」
褒められなかったピコより、ルチアの方が先に肩を落とした。
書記は座り直した。
「では、三つとも少量で」
「小皿売りはしていません」
「味を比べたいだけです」
「一人前を作る人へ、記事のためだから半額で働けとは言わないで」
ルチアは酸果煮一皿、コロッケ一個、黒パン一切れの値を別々に示す。食べ切れなければ持帰り包み。馬車までの時間も聞いた。
「あと四十分」
「煮込みは出せる。コロッケは二つ後。黒パンは今」
「では全部」
書記は正価を置いた。
厨房で、ピコがコロッケを油へ入れる。
安全加熱済みの雲芋を粗く潰し、炒めた栗豚の粒と蜜玉葱を混ぜた種。冷ましてから薄い小判形へまとめ、中心をわずかにくぼませる。厚い球では中が温まる前に衣が焦げる。
光麦粉、月卵液、粗く砕いた黒パン衣の順。油へ落とすと、衣の隙間から明るい泡が立った。
「右の一個、早い」
ピコは自分で言い、油の中央から端へ移した。火に近い右側だけ、衣の色が濃い。
「左と替えればいい?」とラド。
「替えすぎると衣が剥がれる。今は一回」
ラドへ答えながら、網杓子を止める。いつもならアキラへ確認するところだった。
ルチアは酸果煮を一人分だけ小鍋へ移す。汁が一度ふつふつ動くまで温め、栗豚の厚い一片を割った。中心まで湯気が上がる。花蜜バターパンは別皿。酸味を鍋ごと甘くはしない。
ベルンは黒パンの切り口を炭火へ向ける。表面だけを乾かし、中は硬くしすぎない。サラが書記の前へ皿を置いた。
「これは誰の料理ですか」
書記が訊く。
「黒パンは私たち」とサラ。「麦を育てたのは東畑の三軒。店まで運んだのは朝便」
「長いですね」
「一人にしたいなら、食べる人の名前にすれば?」
サラは空いた籠を持って戻った。
書記はまず煮込みを食べた。
青酸果の酸味に眉を寄せる。次に花蜜パン。甘い脂が舌へ残ったところで、もう一度煮込み。栗豚の脂が重くならず、生姜のない酸味が頬の内側を引き締める。
「この順番が決まりですか」
「好きな順で」とルチア。
「転生料理人なら、もっと食べやすく直すのでは」
「料理人が作っています。私が」
書記の筆が止まった。
「店主では?」
「今日は両方」
「毎日?」
「今日は今日。明日の肩書きを今決めると、給金まで増やしたくなる」
書記はそれを記録し、コロッケへ移った。
粗い黒パン衣が、さく、と割れる。雲芋の白い湯気。栗豚の粒と蜜玉葱が、粘る中心から出た。端は衣が厚く、中央のくぼみは芋が薄いので、二口の歯触りが違う。
半分を食べ、残りを持帰り包みへ入れた。
「気に入りませんでしたか」とピコ。
「昼の馬車で食べます。冷めた時の記録も要る」
「冷めたら衣は今より柔らかくなります。芋は甘くなる。今日中に食べて。暑い馬車へ夕方まで置かないで」
ピコは包みへ時刻を書き、油染みを受ける紙をもう一枚重ねた。書記は説明を聞き終えるまで、鞄へ入れなかった。
「転生料理人の店を見に来たのですが」
男は十脚を見回した。
「本人がいない朝に九人いた方が、記事になるかもしれない」
「記事にするなら、不在と書いて」とルチア。
「不利では?」
「嘘より安い」
「不在の日も名物が食べられる、と書くのは」
「今日は照り焼きもプリンもない」
「では、別の料理がある」
「それなら本当」
書記は品書きへ目を戻した。
「三品の作り手名を、もう一度」
ルチア。ピコ。ベルンとサラ。
食材の産地と運び手まで書くと、紙の一行には収まらない。書記は新しい頁を開いた。
その頃、アキラは市場で栗豚の肩を持ち上げていた。
値段と重さを確認し、脂の色を見る。次に雲芋。皮の張り、芽、持った時の硬さ。黒パン屋では焼き上がった棚の前で足を止めた。
「今日はずいぶん音を聞くね」と肉屋。
「音?」
「包み紙を何度も曲げてる」
アキラは手元を見た。脂を包む紙の擦れる音。雲芋を籠へ置く鈍い音。焼き上がった黒パンの底を指で叩く乾いた音。
ピコが前に言った、売れ残りの音を思い出した。
店にいない朝も、耳は厨房へ戻ろうとする。アキラは予定より一袋多く買いそうになった雲芋を棚へ戻した。今朝の残数は、ピコが自分で決める。
店では、十脚目の書記が最後の黒パンを食べていた。
昼馬車まで二十分。
「追加は?」とルチア。
「時間がない」
「急いで食べる物を増やさなくていい」
書記は会計を確かめ、包みを鞄の一番上へ入れた。立ち上がると、外套の袖から白い糸が一本、椅子の背へ引っかかった。
「帰りにも寄ります」と言う。
「次は転生料理人の料理を」と続けかけ、品書きの三つを見た。
「次は、その日にいる人の料理を」
「その日の品書きから選んで」とルチア。
「予約は?」
「帰る日が決まってから」
来るか分からない客の席で、十脚目を塞がない。
書記は店名の下へ、作り手四人の名を書いた紙をしまった。記事になるか、王都で誰かへ見せるかは言わない。
扉が閉まる。
書記は旧東門の馬車溜まりまで歩き、出発札を御者へ見せた。鐘まで五分。座席へ荷を置き、鞄の一番上からコロッケの包みを取り出す。
紙には油染みが丸く広がっていたが、二枚目までは抜けていない。包みを開くと、揚げたての音はもうしなかった。
半分の断面を噛む。
黒パン衣は柔らかくなり、歯へ強く鳴らない。代わりに、冷めた雲芋の甘さが舌へ長く残る。栗豚の脂は薄い小判形の中で大きな塊にならず、蜜玉葱の甘辛さだけが少し濃く感じられた。
書記は旅行帳の《雲芋コロッケ》の横へ、二行書いた。
――熱い時は衣。冷めると芋。別の食べ物にはならないが、同じ順でも来ない。
次に作り手欄へ《ピコ》と書く。転生料理人の名を書きかけた空白は、そのまま残した。
「食べるなら乗ってからにしろ」と御者。
「匂いが座席へ残ります」
「では外で食べ切れ」
書記は残り二口を急がず噛んだ。最後の一口を飲み込むまで、御者は出発鐘の綱へ手をかけたまま待っている。
「記事を書く人間は、飯まで遅いな」
「冷めた記録を取っていました」
「馬車はもっと冷めるぞ」
書記が乗り込むと、昼鐘が鳴った。旅行帳の頁には四人の作り手名があり、まだ記事の題名はなかった。
十脚目が空いた直後、外で子どもが泣いた。エナが立ち、席を譲ろうとする。母親は持帰りだけでよいと言った。
「急ぎ?」とルチア。
「昼鐘までに薬草院へ」
「コロッケは次の二つが揚がる。黒パンなら今。酸果煮は五分」
母親は黒パンと酸果煮の持帰りを選んだ。十脚目へ座らない。空席があることと、座る時間があることは同じではなかった。
ピコは油から次の二個を上げた。一個は母子へ勧めず、予約どおりニアの追加分。早く渡せるからと、注文順を勝手に替えない。
昼鐘のあと、アキラが市場籠を抱えて戻った。
「何人来ました?」
「十人」
「何が売れました?」
「酸果煮九、コロッケ十五、黒パン二籠」
「私がいないのに?」
ピコが洗い場から顔を出す。
「いないから帰りかけた人はいた」
「帰りました?」
「コロッケ半分を持って、王都へ」
アキラは十脚目を見る。
背もたれに、旅人の外套から落ちた白い糸が一本残っていた。
「記事を書く人でした」とピコ。「俺のコロッケも書いた」
「何と?」
「冷めたら確かめるって」
「それは感想ではありません」
「食べ切ったら感想になる」
ピコは自信があるのかないのか分からない顔で、油鍋を濾している。売れた数より、持ち帰られた半分の方を気にしていた。
アキラは白い糸をつまみ、捨て桶へ向かう。
「待って」とルチア。
「残しますか」
「糸くずは捨てる。椅子は拭く」
思い出の品にする前に、次の客が座る場所を清潔にする。ピコが布を絞り、背もたれを上から下へ拭いた。
「今日は客として酸果煮を」
「売り切れ」
「コロッケは」
「残り二個。買う?」とピコ。
「作り手価格は」
「正価です」
アキラは銅貨を払い、十脚目へ座った。
揚げたての衣を割る。黒パンの粗い角が鳴り、雲芋の湯気が鼻へ上がった。右側の衣だけ、ほんの少し色が濃い。
「油の位置を替えました?」
「一回だけ」
「正解です」
「客は、先に食べて」
アキラは二口目を黙って噛んだ。
十脚目は転生料理人を待つ席ではなく、その日いちばん遅く昼を食べた料理人の席になった。
ピコは向かいで、持ち帰られた半分の形を紙へ描いている。ルチアは九杯売れた酸果煮の鍋を洗い、ベルン夫妻は空の黒パン籠を重ねた。
椅子の背はもう乾いていた。窓から入る昼の光が、拭いた木目を一本だけ明るくしていた。




