表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/29

昨日の鍋底を、朝のごちそうに

 朝の七つ鐘が鳴った時、光麦はまだ水の中だった。


「あと半刻」とアキラ。


「客はもう入口」とルチア。


 井戸の滑車が夜明け前に壊れ、仕込み水が届かなかった。鶏骨の澄まし出汁だけは前夜から取ってある。だが朝飯の麦も、名物の照り焼きも、まだ出せない。


 扉の外には三人いた。


 ガラン、ミミナ、それに見知らぬ旅商人。


 旅商人は北門の《火角亭》で見かけた《酒後麺》の札を持っている。札についた麦印から料理人アキラの鶏料理を聞き、馬車の出発前に旧東門まで回ってきたらしい。


「名物の鶏を一皿」


「朝の仕込みが遅れています。今すぐは出せません」


 旅商人は壁の時計を見た。


「九つ鐘に北門を出る。なら、向こうで食べる」


 椅子へ触れる前に踵を返す。


「昨日の鍋底ならある」


 ミミナが言った。


 ガランも頷く。


「おこげだ」


 旅商人の足が止まる。


「残り物か」


 前夜の光麦鍋から、ルチアが薄いおこげを六枚だけ剥がしていた。湯気の残るうちに重ねれば傷むため、一枚ずつ清潔な網棚へ広げる。熱が抜けたあとは覆いを掛け、冷却石棚へ移してあった。


 大きくても掌ほど。鶏肉はない。


「残り物を、そのまま出しはしません」


「料理人は、そう言う」


「一杯だけ待ってください。気に入らなければ――」


「無料にはしない」とルチア。


「では半額で」


「味が悪ければ半額。時間に間に合わなければ無料」


 ルチアが条件を決めた。


 旅商人は時計、扉、おこげの順に見た。


「半鐘も待たん」


「一杯なら間に合わせます」


 アキラはおこげを炭火へ載せた。


 一度乾いた光麦は、最初ほとんど音を立てない。表面へ琥珀鶏脂を薄く塗る。


 脂が粒の隙間へ入り、縁が少し反ったところで返す。


 もう一度だけ脂を塗り、再び焼く。


 ぱち。


 少し遅れて、ぱち、ぱち、と粒が鳴った。


 焦がすための強火にはしない。表面を乾かし、鶏脂の香りを起こす。


 鶏骨出汁は、別鍋で沸く直前まで温める。骨や葱のかけらは濾してある。塩をひとつまみずつ加え、昨日の鍋底に残る味を濃くしすぎない。


 薬味は三つ。


 焦がし葱。青酸果の皮。森香草塩。


 深い椀へ、二度焼きしたおこげを斜めに立てる。


 客席へ運び、旅商人の目の前で熱い出汁を注いだ。


 じゅわあっ。


 乾いた粒の間から白い蒸気が噴き出す。椀の底では出汁を吸い、上半分はまだ乾いた音を立てている。


 扉へ向いていた旅商人の膝が、卓へ戻った。


「音まで料理代か」


「聞いた分は無料です」とルチア。


 旅商人は、まず上の縁を匙で割った。


 薄く砕けた表面の内側は、まだ硬い。噛むと焦がした鶏脂が香り、そのあと光麦の甘みが出た。


 二匙目は、出汁へ浸かった下側。


 粒は柔らかくほどけ、鶏肉がないのに、照り焼きを食べたあとのような香りを残した。


 旅商人は青酸果の皮を一片入れる。


 三匙目には、最初ぱりぱりだった上側まで汁を吸い始めた。


 同じ一枚の食感が、時計より早く変わっていく。


「鶏肉は入っていないな」


「出汁と脂だけです」


「残り物に、ずいぶん手を掛ける」


「昨日食べた人の残りではありません。鍋に残った、今日食べられる部分です」


 旅商人は返事をせず、最後の柔らかい粒まで匙ですくった。


 卓へ正価の銅貨を置く。


「半額では?」とミミナ。


「味が悪ければ、だ」


「時間は」


 北門の出発まで、まだ一鐘以上ある。


「早すぎたくらいだ」


 旅商人は、翌朝の照り焼き一人前を予約した。その横へ、帰りの馬車で食べる乾いたおこげも一包みと書かせる。


「出汁なしで?」とアキラ。


「宿で湯があれば注ぐ。なければ、そのまま噛む」


「では塩を少し――」


「先に試してから値を決める」とルチア。


 旅商人が出ていく。


 ガランは自分のおこげ椀へ豆蜜を足し、ミミナは青酸果を選んだ。


「名物の鶏を食べに来た客が、骨汁と鍋底を予約した」とミミナ。


「名物が増えた」とガラン。


 ルチアは網棚に残る五枚を数えた。


「売れるなら、今夜の鍋を少し厚く炊きます」


 アキラが言うと、ルチアはすぐ首を横に振った。


「朝の包みのために、今夜の客の麦を鍋へ残すの?」


「一人ぶん減らすほどでは」


「今日は六枚。明日十枚を期待した客には、どう説明する?」


 商品にするなら増やしたくなる。増やすために最初の料理を減らせば、それはもう偶然残った鍋底ではない。


「今夜の麦は、今夜の客が食べる量で炊きます」


「そのあと残った分だけ」


「売り切れたら?」とピコ。


「売り切れです」とルチア。


「人気なのに増やさないの?」


「客の椀をわざと減らしてまで、残り物を増やさない」


 ピコは唇を尖らせ、網棚に残った五枚をもう一度数えた。


「では、五枚を落とさず包む方法を考えてください」


 包み方を任されると、ピコはすぐに黒パン用の紙袋へ手を伸ばした。尖っていた唇が戻り、今度は袋の口とおこげの幅を見比べている。


 黒パン用の紙袋へ一枚入れる。逆さにすると、口の折り目から細かな粒が落ちた。


 ピコは袋の口を一度、二度と折る。両端を内側へ入れ、細い紐で中央を結んだ。


 もう一度、逆さに振る。


 一粒も落ちない。


 今度は、馬車の揺れをまねて上下へ十回振った。


 袋の中で、乾いた音が細かくなる。


 開けると、大きかったおこげが四つに割れていた。紐をきつく締めすぎて、折り目が中身を押したのだ。


「落ちてない」とピコ。


「割れています」とアキラ。


「どうせ口で割る」


「客が開ける前に割るのと、客が噛んで割るのは違います」


 紙袋の底へ、洗って乾かした香葉の軸を二本置いた。その上へ薄紙で包んだおこげを載せ、袋の折り目が直接押しつけないだけの空間を作る。紐は中央を締めず、左右の折り返しへ一本ずつ掛けた。


 もう十回振る。


 今度は、大きな一枚のまま残った。


「馬車の中で開いたら、全部膝だ」とピコ。


「その袋を明日使いましょう」


「袋を作った人の名前は?」


「ピコ」


「値札にも?」


「袋代の欄へ」とルチア。


「料理名の横がいい」


「一枚も売ってない人は、まず袋代」


 翌朝、網棚に残ったおこげは七枚だった。


 昨夜の客は麦をよく食べ、鍋底は前日より一枚多いだけ。アキラは、その量を変えなかった。


 六枚を携帯用に試し、一枚は店で湯を注いで確認する。


 外側だけを乾かしすぎず二度焼きする。中まで完全に硬くすれば、湯を注いでも戻らない。手で割った中心に、昨日の出汁の匂いが少し残るところで火を止めた。


 確認用に、小さな端を三つへ分けた。


 一つ目は、保存を優先して中まで乾かしたもの。


 熱い湯を注いで半刻待っても、外側が濡れるだけだった。中心は白く硬く、歯を当てると木片のように逃げる。


「馬車の車輪止め」とピコ。


「食べ物です」


「今は車輪止め」


 これは販売しない。さらに湯で十分煮て、厨房の朝粥へ回す。


 二つ目は、湯なしで食べることを考え、塩を強くしたもの。


 ひと噛み目はうまい。三口目で舌が乾き、水を飲みたくなった。


「馬車で水が少ない日に、これは困る」とルチア。


 塩を増やす案も捨てる。


 三つ目は、昨日と同じ薄い塩。代わりに琥珀鶏脂をごく薄く塗り、黒パンの小片を一つ添えた。麦だけを噛み続けて歯へ張りつく時に、別の硬さを挟むためだ。


 ピコが一口ずつ交互に食べる。


「水がないなら、鶏脂を薄く塗った三つ目」


「宿で湯を注いだら?」


 残り半分へ湯を掛ける。表面はほどけ、中心には薄い噛み応えが残った。出汁がなくても、鶏脂の香りが湯気へ移る。


「湯を掛けられる時も、三つ目がいい」


 販売する六枚は、三つ目の焼き方へ揃えた。


 旅商人は約束どおり戻った。


「先に、乾いた方を食べてください」


「照り焼きは?」


「焼いています」


「昨日は名物が遅く、今日は試作が先か」


 文句を言いながら、おこげを一角割った。


 ぱき、と乾いた音。


 鶏脂と塩が先に来る。中心には完全に乾ききらない麦の甘みがあり、黒パンを一口挟むと口の中の粒がまとまった。


「馬車では、これでいい」


「宿では湯を注げます」


「どちらも一包みに書け」


 旅商人は二包み買った。


 一つは自分用。もう一つは、北門で朝飯を抜いて帳簿をつけている若い書記へ渡すという。


 ルチアは売上から、紙と紐の分の銅貨一枚をピコへ置いた。


「給料?」


「六枚売れたら、袋の試作代」


「今は二枚」


「残り四枚」


 ピコは銅貨を返し、売れた数の横へ二本線を引いた。


 昼までに、残り四枚も売れた。


 最後の一包みを買ったのは、鼻の頭を煤で黒くした煙突掃除人だった。


「もう一つ」


「今日は終わりです」とピコ。


「焼けばできるだろ」


 ピコは鍋を見た。


 昼の客へ出す光麦が、ちょうど炊き上がったところだった。


「これは、今の客の飯」


 言ってから、六枚売れた印の横へ自分の名を書いた。ルチアから銅貨を一枚受け取り、今度は返さない。


 煙突掃除人は空の網棚を見上げた。


「じゃあ、底になる前のを一杯」


 アキラが炊きたての光麦を椀へ盛る。蜜玉葱と鶏出汁を掛けると、白い湯気が煤のついた鼻先へ上がった。


「明日の包みは?」


「今夜の客が、どれだけ食べるか次第です」


「予約できないのか」


「照り焼きなら」とガラン。


「おこげの話をしてる」


 空になった網棚の下で、煙突掃除人は鍋底になる前の麦を大盛りにした。


「上を大盛りにしたら、明日の底が減るな」


「今日の大盛りが先です」とピコ。


 煙突掃除人は納得し、煤のついた鼻を湯気の中へ入れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ