料理人の休日、店主の酸っぱい煮込み
ルチアは、アキラを店から追い出した。
「今日一日、戻らないで」
「何かしましたか」
「十六日、休んでない」
「転生する前はもっと」
「前の世界の悪い働き方を、こっちの美談にしないで」
身元登録、服の買い足し、浴場。用事を書いた木札と銅貨を持たせ、旧東門の外へ出す。
「昼だけ戻って食べるのは」
「駄目」
「何を作るんですか」
「何を作るか気になって、休まず厨房へ戻るでしょう。だから駄目」
扉を閉めた。
静かになった厨房で、ルチアは前掛けを締め直した。
料理人が休んでも、家賃と薪代は休まない。客が来る理由まで消えるのかは、今日の鍋を開けなければ分からない。
「本当に開けるの?」
皿洗い中のピコが訊く。
「閉めたら、アキラが休んだ分だけ店の借りが増える」
「俺が料理する?」
「今日は皿を割らない係」
「昨日から昇進してない」
ルチアは隊商時代の酸果煮込みを作ることにした。
栗豚の肩肉を、匙へ一切れ載る大きさに切る。塩を振り、冷たい鉄鍋へ少量の脂。鍋が熱くなってから肉を入れ、動かさず表面へ焼き色をつける。
蜜玉葱は薄切り。肉を一度取り出し、鍋底の焦げを玉葱の水分でこそげる。冬葉の太い芯も刻んだ。甘い香りが立ったところへ黒麦酒を注ぐ。
じゅう、と鍋底が鳴った。
青酸果の果汁を、ためらわず一杯。
酸っぱい湯気が上がり、ピコが二歩下がった。
「多くない?」
「隊商では、脂の多い肉と硬いパンを食べる日にこれくらい入れた」
「ここ、隊商じゃない」
「分かってる」
花蜜を少しだけ。鶏出汁を加え、肉を戻して蓋をする。強く沸かせば肩肉が締まる。鍋の縁だけが動く火へ落とし、木匙が肉へ半分入るまで煮た。
一方、店を出されたアキラは、身元登録所で自分の名前を二度書き間違えた。
職業欄へ《料理人》と書き、勤務先へ《麦と灯》。休業理由の欄はない。それでも係員へ「今日は休みです」と説明した。
「聞いていません」と係員。
「そうですよね」
服屋では前掛けを見始め、店員に普段着売場へ戻された。浴場では湯へ肩まで浸かったあと、十まで数える前に立ち上がる。
「もう上がるのか」と隣の老人。
「仕込みが」
「休み札を首から下げてるぞ」
ルチアの木札は、アキラが外さないよう紐つきだった。
店では最初の客が扉を開けた。
ニアは窓際へまっすぐ進む。
「細長い朝飯」
「今日はない」
「じゃあ雪桃プリン」
「ない」
「アキラは?」
「休み」
ニアは扉の外を見た。
「また来る」
「煮込みならある」
戻しかけた足が止まる。
「ルチアの?」
「嫌ならいい」
「半分」
次にガラン。照り焼きがないと聞き、入口席へ座ったまま考えた。
「肉はあるか」
「煮込みに」
「大盛り」
「普通盛りだけ」
「ではパンを二枚」
メルも来た。料理人不在と知っても帰らず、酸味の保存効果について訊き始める。
「保存用ですか」
「今日は店で熱いうちに食べる。隊商では酸味を強くしたけど、この鍋を常温で持ち歩いてよいとは言わない」
「記録します」
「食べてからにして」
三人分をよそう。
栗豚は匙の縁で切れる。脂の甘みは残っているが、青酸果の酸味が強く、最初の一口で頬の内側がきゅっと縮む。黒麦酒の苦みと冬葉の芯が、その後へ来た。
ニアはすぐ水を飲んだ。
ガランは肉を食べ、黙っている。
メルが言った。
「アキラさんなら、花蜜を足すと思います」
ルチアの手が蜜壺へ伸びた。
止まる。
「そうでしょうね」
「直さないの?」とニア。
「これは、酸っぱい煮込みだから」
ただし、酸っぱいと告げて終わりにはしない。黒パンを厚く切り、花蜜バターを塗って焼いた。表面はかりっと、内側は煮汁を吸える厚さ。甘いパンを煮込みの横へ置く。
「煮込み、パン、煮込みの順で試して。酸味を消すんじゃなく、次の一口を選べるようにする」
ニアは言われた順に食べた。
ガランはパンの半分を煮汁へ沈める。
メルは花蜜バターの量を見てから、同じ食べ方をした。
「酸っぱい」とニア。
「品書きにも書きます」
「でも、次に甘いパンを食べたくなる」
ガランが空の皿を出した。
「二杯目」
「普通盛りだけ」
「普通盛りを、もう一つ」
「パンは?」
「二枚追加」
ルチアは値を読み上げる。ガランは聞き終える前に銅貨を置いたが、一枚足りない。
「酸っぱい分、安くならんか」
「酸果も仕入れています」
ガランは不足の一枚を追加した。
昼前、酸っぱい匂いに引かれて客が三人入った。一人は入口で帰り、一人は半椀、一人はパンだけを買う。
空いた席を見て、ルチアは鍋の蓋を一度閉めた。
ガランもニアもメルも、アキラの料理を食べに来た客だ。今日残ったのは、知っている店だから一度試しただけかもしれない。来週も作ると口にしたが、酸果の残りをもう一鍋分買うかは、まだ帳面へ書けなかった。
そこへ、泥のついた御者靴が入ってきた。
灰色の髭を短く切った男で、荷主用の革札を腰へ三枚下げている。アキラを探さず、鍋の匂いを嗅いだ。
「南廻り隊商の、車輪止めの晩飯か」
ルチアは男の顔を見直した。
「ケス。まだ御者をしてるの」
「荷車が俺を辞めてくれない。お前こそ、帳面の後ろで鍋を混ぜてるとはな」
隊商時代、車軸が折れて夜営した日に、ルチアの酸果煮込みを食べた御者だった。あの頃は栗豚でなく硬い干し山羊、花蜜パンもなく、黒パンを鍋底へ沈めていた。
「一椀。昔の量で」
「今の普通盛りしかありません」
「昔は御者の椀だけ肉が一つ多かった」
「荷車を直した人の夜番手当。今日は直してないでしょう」
ケスは普通盛りを受け取り、最初に汁を飲んだ。次に肉。花蜜パンは別々に食べる。
「甘くなった」
ルチアの肩が少し固くなる。
「酸果は昔と同じ量です」
「肉が柔らかい。玉葱も多い。このパンも甘い。隊商の夜より、客へ帰ってこいと言う味だ」
「悪い?」
「俺は野営へ戻るから、もう少し酸っぱくていい」
ケスは卓の青酸果を指した。ルチアは鍋へ追加せず、小さな匙へ果汁を取る。
「自分の椀だけ。入れすぎたら自分で食べて」
「帳面屋の出し方だ」
「料理人が休みだから」
果汁を半匙落とすと、ケスは一口飲み、残り半匙は戻さなかった。
「これで車輪止めの味だ」
食べ終えて、代金と一緒に次の南廻り日を書いた荷札を置く。予約ではない。その日に王都へいるかもしれないし、別の街道かもしれない。
「日が合えば来る」
「席は取っておかない」
「それでいい。荷車の時刻は、鍋に待ってもらわん」
ルチアは荷札を予約帳へ挟まず、酸果の仕入れ頁へ置いた。来ると決まっていない客一人のために、十椀を十二椀へは増やさない。
それでも鍋の蓋を、今度は閉めなかった。
ピコが黒パンを焼く。最初の一枚は花蜜バターを塗りすぎ、鉄板へ落ちた蜜が黒く焦げた。
「甘い方まで苦い」とニア。
「俺の新作です」
「まかないです」とルチア。
焦げた一枚は販売せず、ピコが自分で食べる。二枚目からは刷毛を小皿でしごき、表面へ薄く一往復だけ塗った。
浴場を出たアキラは、市場を一周した。
魚屋では虹殻海老の値を見た。パン屋では焼き上がり時刻を訊いた。乾物屋では茸の戻し方を聞きかける。
「今日は何を仕入れるんだい」と店主。
「何も」
「では、なぜ全部見る」
答えられず、市場の端にある古本屋へ入った。
料理書を探していると、店主が東大陸の街道記を出した。黄金平原の麦、北の港の塩、翠冠森の薬草。料理の作り方は一つも書かれていない。代わりに、荷車が何日かかり、どの季節に道が沈み、どの宿で車輪を直すかが載っている。
アキラは古本を一冊買った。
「休みの日まで食材か」と店主。
「道の本です」
「麦と塩の頁へ指を挟んで言われてもな」
昼過ぎ、アキラは店の前まで戻ってしまった。
窓から酸果の尖った匂いが出ている。中には見慣れた客。十脚のうち八脚が埋まり、ピコがパンを運んでいた。
扉へ手をかける前に、木札が胸へ当たった。
――今日一日、戻らないで。
向かいの石段へ座り、街道記を開く。上下が逆だった。
窓越しに見つけたニアが笑い、指で本を回す仕草をする。アキラは持ち直した。
店内では、客が花蜜パンを煮汁へ浸している。ルチアは鍋へ蜜を足していない。ピコの動きは遅い。それでも皿は割れず、空椀が厨房へ戻っていく。
アキラは少し寂しかった。
街道記の同じ行を三度読んだ。三度目で、黄金平原へ続く橋が春先に流れやすいと、ようやく頭へ入った。
夕方、最後の一椀が売れた。
ルチアは自分の昼をまだ食べていない。鍋底には、焦げた栗豚の端が一切れと、崩れた玉葱が残っている。
「その鍋底まで客に売る?」とピコ。
「売らない。私の分」
黒パンの端で鍋底を拭い、立ったまま食べる。酸味は煮詰まり、最初の椀より強い。花蜜パンの焦げていない端を一口かじると、ようやく頬の力が抜けた。
閉店札を出したあと、アキラが入ってきた。
「何が売れましたか」
「酸っぱい煮込み」
「味見を」
「売り切れ」
アキラは洗い場の鍋へ近づく。
「匂いだけでも」
木匙の柄が、手の甲へ飛んできた。
「来週、同じ曜日に十椀だけ作る。その時、客として来て」
「厨房には」
「入れない」
「予約できますか」
「一席、前払い」
アキラは今日使わなかった銅貨を一枚置いた。ルチアは予約帳の客欄へ《アキラ》、料理人欄へ自分の名を書く。
「大盛りは」
「普通盛りだけ」
「パンを二枚」
ガランと同じ注文になった。
ピコが笑い、洗った木匙を二本並べる。一つは料理人用。一つは来週の客用。
アキラは買ってきた街道記を卓へ置いた。
「休めましたか」とルチア。
「浴場と、服屋と、古本屋へ行きました」
「店の前には?」
「道の向こう側です」
「戻ってる」
「入りませんでした」
ルチアは休み札の裏へ、小さく《店の前も含む》と書き足した。
鍋から酸果の匂いはもう上がらない。洗い終えた鉄鍋は、逆さにして水を切っている。代わりに、古本の乾いた紙から、まだ行ったことのない街道の埃がした。




