飲んだあとの一杯は、誰の味か
夜の九つ鐘、《火角亭》から酔客が五人流れてきた。
「温かい汁」
「麺は少し」
「肉はいらない」
「でも脂はほしい」
「注文が酔ってる」とピコ。
店を閉めかけていたルチアは、五人の後ろを見た。ザックが腕を組み、酒場の戸を背中で閉めている。
「うちで飲ませた客だ。帰りに温かい物がほしいと言うから連れてきた」
「自分の店で出せば」とルチア。
「酒場で締めの汁を出すと、もう一杯頼む」
「売上でしょう」
「帰らなくなる」
五人のうち三人が、まだ帰る気のない顔でうなずいた。
一人は椅子へ座る前に水を二杯飲んだ。荷馬車の御者で、明朝は北門から荷を出すという。最後の一人は卓へ額をつけ、麺より先に眠りそうだった。
「細麺なら五人分あります」
「短くしてくれ」と赤い鼻の客。
「長いと何か問題が?」
「箸から逃げる」
「それは麺ではなく手の問題です」とルチア。
それでもアキラは麺を少し短くした。
鶏骨の澄まし出汁を火へ戻す。朝から弱い火で取り、濁る前に骨を引き上げたものだ。冷えた表面から分けておいた琥珀鶏脂を別鍋で熱し、刻み葱へ注ぐ。
じゅっ、と音がした。
青い葱の匂いが一度引っ込み、代わりに甘い焦げ香が立つ。卓へ伏していた客が、鼻だけを厨房へ向けた。
「起きてる」とピコ。
「鼻はな」
ザックは勝手に厨房口まで入ってきた。
アキラは基礎出汁へ塩と豆蜜を控えめに入れ、青酸果の皮を一片だけ落とす。細麺は表面の粉を洗い、湯切りしてから椀へ。焦がし鶏油を匙半分ずつ載せた。
五人へ出す。
椀は普段より小さくした。酔った手で深椀を持ち上げれば、熱い汁を胸へこぼす。低い椀を卓へ置き、取っ手代わりの乾いた布を横へ添える。ピコが眠い客の前から塩壺を下げた。
「勝手に入れるよ」と囁く。
「見ていたんですか」
「もう蓋を二回開けた」
眠い客の手は、何も入っていない卓を探っていた。ピコが代わりに水杯を握らせる。客は一口飲み、今度は麺の椀を鼻の近くへ寄せた。焦がし葱の匂いだけで目が半分開く。
短く切った細麺は、箸で高く持ち上げなくていい。二度すすれば一口分が切れ、熱い汁も跳ねにくかった。赤鼻の客だけは三本まとめて吸い込み、むせてザックに背中を叩かれた。
「短くしても逃げたぞ」とルチア。
「麺じゃなく俺が追った」
「認めるところが違う」
最初の客が汁を飲み、眉を寄せた。
「薄い」
二人目も塩壺へ手を伸ばす。
「匂いは来た。でも舌まで来ない」
御者は二口すすったが、返事をしなかった。眠りかけていた客は、椀を両手で持ったまま目を閉じている。
アキラも味見した。
澄んだ鶏出汁、焦がし葱、青酸果。昼ならまとまりがいい。だが黒麦酒と火香辛料を重ねた舌には、塩も鶏も遠い。
「出汁を濃くします」
「今から骨を煮るのか」とザック。
「塩だけ増やしても、鶏は強くなりません」
「強くするのは鶏じゃない。舌へ入口を開ける」
ザックは自分の指で塩をつまみ、小皿へ落とした。黒胡椒を半つまみ。火香辛料は油へ触れさせるだけ。青酸果を一滴増やす。
「五椀とも同じですか」とアキラ。
「飲んだ杯を聞け」
赤鼻の客が指を三本立てる。
「三杯」
「四杯目を床へこぼした」とザック。
「飲んでない」
「代金は取った」
隣は五杯。御者は二杯と水二杯。眠い客は自分で数えられず、ザックが「六杯半」と答えた。
「半は?」とピコ。
「隣のを奪った」
アキラは五つの小皿へ量を変えて調味料を置いた。酔いの深い三人にはザックの塩と胡椒。御者には塩を半分、胡椒は香りだけ。眠い客には、まず熱い基礎出汁を一口飲ませる。
卓で混ぜると、同じ五椀から違う湯気が上がった。
赤鼻の客が一口飲む。
今度は何も言わず、麺をすすった。
「塩が多い」とアキラ。
「昼ならな」
「毎日これでは体に重い」
「毎日、酒を五杯飲ませるな」
「俺は三杯だ」
「床の一杯も仕込みに入る」
最初の三人は、椀の半分まで一気に食べた。焦がし鶏油が唇へ薄く残り、黒胡椒が鼻へ抜ける。酒でぼやけていた舌へ塩が先に当たり、そのあとで鶏出汁の甘みが戻ってくる。
ザックが腕を組み直した。
「勝負は俺だな」
「一口目は」とアキラ。
「負け惜しみが遅い」
だが、御者は三口目で匙を置いた。
「濃いか?」とザック。
「水を飲んだら、酒が引いてきた。さっきより塩が近い」
酔いは椀を食べる間にも変わっていた。眠りかけた客も目を開け、基礎出汁だけをもう一口ほしがる。
アキラは大鍋へ戻さなかった。熱い薄出汁を小さな注ぎ壺へ入れ、御者の椀の縁から少しずつ足す。
黒胡椒の角がほどける。焦がし鶏油は残り、塩気だけが一歩下がった。麺を持ち上げると、最初より薄い汁が間へ入り、口の中の酒臭さを流した。
「もう一口、飲めますか」
御者はすすった。
「帰れる味だ」
「褒めています?」
「妻に怒鳴られず帰れる」
ザックは笑ったが、すぐに御者の椀を取って味見した。
「俺の塩を薄めたな」
「途中から、客の舌が変わったので」
「最初から薄く出したのは、お前の負けだ」
「途中で濃いままにしたら、ザックさんの負けです」
二人は同じ椀を挟んで黙った。
赤鼻の客も、残り三分の一で水を飲んだ。御者を真似て薄出汁を足す。五杯の客は「まだ濃い方がいい」と注ぎ壺を遠ざけた。六杯半の客は、麺を食べ終えてから薄出汁だけを一杯飲んだ。
一杯の最初と最後で、欲しい味が変わる。
アキラは注ぎ壺の量を確かめた。濃い汁を半椀食べたあと、薄出汁を四分の一椀。これ以上足せば、麺が汁を吸いすぎて柔らかくなる。少なければ塩の角が残る。
「追い出汁も熱くないと、最後がぬるくなる」とザック。
「煮立てると鶏の匂いが平らになります」
「酒の鼻に、そこまで分かるか?」
「御者さん、分かります?」
御者は二つの小匙を飲み比べた。煮立てた方、湯気だけ立つところで止めた方。
「熱い方」
アキラが悔しそうな顔をすると、御者は続けた。
「味じゃない。外が寒い。帰るまでに冷える」
料理人二人が同時に黙った。酔った舌ばかり見て、扉の外の夜気を数えていなかった。
追い出汁は小鍋で一度だけしっかり沸かし、蓋つきの厚い陶器へ移すことにした。卓で煮立て続けず、最後の一注ぎまで熱を残す。
ルチアは二枚の木札を卓へ置いた。
一枚には《酒後》。塩、黒胡椒、焦がし鶏油を先に効かせる。
もう一枚には《帰り》。薄い追い出汁の注ぎ壺をつける。
赤鼻の客が《酒後》の字を見て、札を裏返した。
「これを家で見られたら、何杯飲んだか聞かれる」
「何杯飲んだんです?」とピコ。
「三杯」
「四杯目を床へ――」
「それはもういい」
ザックは《酒後》を消すなと言った。火角亭の酒を飲んだ客へ売る札なのだから、名前を隠す気はない。赤鼻の客は、それなら買わないと言う。
「《夜麺》なら?」とアキラ。
「うちの酒が消える」とザック。
「《火角亭帰り》」とルチア。
「お前の店の名がない」
「札を持って来る先が、この店」
「字が小さい」
ルチアは木札の表へ《酒後麺》、裏へ《帰り出汁つき》と書いた。下端に火角亭の炎印と、麦と灯の麦印を同じ大きさで押す。
「炎を一分、大きく」とザック。
「版代を一分、多く払うなら」
「同じでいい」
赤鼻の客は表を見て渋ったが、裏の《帰り》を上にして財布へ入れた。
「酒の前は?」とピコ。
「普通に注文を聞く。札を増やしすぎない」とルチア。
「俺の店で酒後札を売る」とザック。「客はこっちで麺を食って帰る」
「うちの客を取るなよ」と、今度はザックがアキラへ言った。
「連れてきたのはザックさんです」
「明日の夜も飲みに来てもらう。そのために今夜は帰す」
「だったら、もう一杯を勧めないでください」と御者。
「客が商売へ口を出すな」
「帰すんでしょう」
ザックは返事の代わりに、御者の背中を扉の方へ押した。残る四人も一人ずつ立たせる。六杯半の客は自分の足で歩けず、赤鼻と五杯の客が両脇を持った。
「明日の荷車は?」とルチアが御者へ訊く。
「七つ鐘。今から帰れば寝られる」
「次の酒後札は、七つ鐘の荷がない日に」
「そこまで書くのか」
「帰れない客の代金は取りません」
御者は酒後札を一枚買い、裏へ自分で《荷なし》と書いた。
五人が外へ出る。いつもなら火角亭へ戻ろうとする角で、今夜は御者が先に右へ曲がった。他の四人も引かれていく。
店に残ったザックは、空いた椀を二つ並べた。
「飲んでいないのに?」とピコ。
「作った味を確認する」
アキラは一椀をザック配合、もう一椀を薄い基礎出汁で出した。ザックは濃い方を半分食べ、薄い方を一口。濃い椀へ追い出汁を足して、最後まで飲む。
「二杯食べないと分からない?」
「二杯じゃない。腹八分を二回だ」
「半分ずつ二回なら一杯。薄い方の一口まで入れたら、一杯ちょっとだよ」
ピコが数え直す横で、ザックは酒後札と帰り札へ一枚ずつ代金を置いた。
「どっちが勝ち?」
「一口目は俺だ」
「最後は?」とアキラ。
ザックは空になった二椀を重ねた。
「次の夜に決める」
「次は六杯半まで飲ませないで」とルチア。
「勝負へ条件を足すな」
「歩いて帰れない客は数えない」とピコ。
ザックは反論しかけ、六杯半の客が置いていった水杯を見た。残りを自分で飲み、酒後札の炎印を親指で一度こすった。




