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11/29

栗を食べた豚は、脂まで甘い

 翌朝、昨日の少女は森茸の椀から先に茸を数えた。


「六枚」


「お母さんのも六枚です」


 アキラが答えると、少女は母親の椀を覗き、七枚目がないことを確かめてから食べ始めた。


 安全札のついた森茸を薄く焼き、鶏出汁と月卵でとじた朝椀だった。約束どおり親子は戻り、予約した二人分を同じ卓で食べた。


「次は三つのたれの鍋の日に来ます」


 母親はそう言い、空の椀を重ねた。


 昨日置いた銅貨が、今日の朝食になった。


 ルチアは帳面の予約欄へ、初めて小さな丸をつけた。


 親子と入れ替わるように、猟師の兄妹が入ってきた。


 兄は獣皮の外套を着た大柄な青年。背中には短弓。妹は十五、六歳ほどで、外套の肩が余っている。歩いただけで疲れたのか、入口から一番近い空席へ座った。


 ガランの席だった。


「そこは――」


 ピコが言いかける。


 ちょうど扉を開けたガランが、妹の白い顔を見た。


 何も言わず、隣の椅子を下ろした。


「ラドです。妹はエナ」


 兄が先に名乗った。


「ひと月、熱を出していた。薬草院から、もう普通の物を食べていいと言われたんだが、肉を噛むと疲れるらしい」


「兄さん」


 エナが小さく止める。


「何でも話さなくていい」


「食べられない物は言わないと料理人が困る」


「食べたい物なら、自分で言える」


 兄妹の視線がぶつかった。


 アキラは注文を待った。


 ラドが口を開きかけ、エナの方を見る。今度は何も言わなかった。


「柔らかい肉」


 エナは言った。


「煮込んで崩れる物と、薄く焼いた物なら、どちらが食べたいですか」


「焼いた匂いがする方」


「味は濃くても?」


「一口目は」


「二口目は?」


「食べてから決める」


 声は細いが、注文ははっきりしていた。


 ラドが布包みを調理台へ置く。


「栗豚の肩だ。森で仕留めた。代金の足しに」


 包みを開く。


 赤身の間に、淡い金色の脂が細く入っている。匂いは豚肉に近いが、脂から茹でた栗のような甘い香りがした。


「野生ですか」


「半野生だ。秋に栗林へ放し、冬だけ森を歩かせる。これは若い雌。今朝、解体所で検査済み」


 青い検査印と日付札がある。


 ルチアが肉の重量と相場を確認し、料理代との差額を帳面へ書いた。


「薄く切ります」


 肩肉を筋に直角へ、包丁で薄く引く。赤身と脂を一緒に切り、一枚ずつ広げた。厚い筋には刃先を数か所入れる。


「焼けば硬くならないか」とラド。


「長く焼けば。薄いので、縁を強火で焼き、たれは最後にします」


 塩を薄く振り、光麦の粉を両面へほんの少しはたく。粉は肉汁を閉じ込める壁ではない。表面に薄い膜を作り、たれを留めるためだ。


 鉄板を熱し、栗豚を一枚ずつ広げた。


 じゅっ、と縁が縮む。


 金色の脂が透明になり、栗に似た香りが強くなった。赤い面が半分ほど変わったところで返す。裏は短く。中心に赤みが残らず、押せばまだ柔らかく戻るところで一度取り出す。


「生姜根、あります」とピコ。


 市場から戻ったばかりの籠に、土つきの小さな根がある。生姜に似た辛い香りだ。


 すりおろし、豆蜜、蜜玉葱の汁、鶏出汁少量と合わせる。鉄板へ注ぐと泡が立ち、肉の焼き跡を溶かした。


 栗豚を戻し、一度だけ返してたれを絡める。


 皿には千切りの冬葉。キャベツに似た葉だが、寒さに当たった芯は甘い。青酸果を半分添えた。


「酸っぱいの、要る?」


 エナが訊く。


「脂が重ければ。最初はそのままで」


 兄妹へ一皿ずつ出した。


 エナは肉を一枚、箸で半分に折った。薄いのに、折り目から汁がにじむ。


 一口目は、青酸果を使わない。


 粉の薄い膜へ生姜だれが絡み、噛むと脂の甘みがほどけた。赤身は歯へ強く戻らず、二度、三度で切れる。


 エナは残り半分も食べた。


「どうだ」


 ラドが訊く。


「まだ一枚目」


「柔らかいか」


「兄さんの肉より」


「俺は食べ物じゃない」


「話が硬いってこと」


 入口隣で、ガランが照り焼きを噛みながら鼻を鳴らした。


 二枚目。


 エナの箸が、少し遅くなった。栗豚の脂は甘いぶん、続けて食べると舌へ厚く残る。


 アキラがたれを薄くしようと小鍋へ手を伸ばすと、エナが青酸果を持った。


 自分で絞る。


 透明な汁が冬葉と肉へ落ちた。


 酸味が生姜だれの甘さを切り、脂のあとを洗う。冬葉の細い歯触りも加わった。


 三枚目から、エナの箸はもう速くも遅くもならなかった。一枚食べては冬葉を噛み、また肉へ戻る。急いで皿を空にするのではなく、途中で箸を置くのでもない。自分で決めた速さだった。


 ラドは先に食べ終え、妹の皿へ手を出さなかった。代わりに黒パンの追加を頼んだ。


 エナは最後の一枚を半分残した。


「無理しなくていい」とラド。


「無理してない」


「なら食べれば」


「朝に食べる」


 エナはアキラへ小さな包みを求めた。


「たれと青酸果は別にしてください。冬葉も少し」


「明日の朝なら、冷たいままですか」


「冷たいのを食べてから決める。次は焼きたてを頼むか」


 兄ではなく、本人の次の注文だった。


 ルチアは保存時間を短くするため、今日中に冷所へ置き、翌朝に十分温め直すよう伝えた。包みには日付札と温め方を書く。


 ラドが代金を払おうとする。


 エナは兄の手より先に、銅貨を一枚置いた。


「足りない分だけお願い」


「病み上がりが財布を気にするな」


「元気になったら返す方が面倒」


「今も面倒だ」


 ラドは残りを払い、妹の外套を持った。着せようとはしない。エナが自分で腕を通すのを待った。


「帰ったら、弓を出して」


 外套へ通しかけたエナの腕が止まった。


 ラドはすぐ答えなかった。肉の代金を数えた指が、空の銅貨袋を握る。


「売った」


「誰のを」


「お前のを。薬草院の三週分にした」


 エナは立ったまま、しばらく兄を見た。声より先に、余っていた外套の肩が震えた。


「熱が下がったら戻るって言った」


「あの時は、水も飲めなかった」


「だから、私の返事も飲み込んだの?」


「死ぬかもしれなかった妹へ、弓と薬のどっちを選ぶか聞けるか」


「生きた後に、何へ戻るかは聞けた」


 包みの生姜湯気が細くなった。薬草院の銅貨袋は空で、エナの背には弓紐の跡だけが残っている。


 アキラは包んだ肉を差し出した。温め方なら説明できる。売った弓を、料理で戻すことはできない。


 エナは包みを自分で受け取り、兄より先に扉を出た。ラドは追ったが、外套の襟へ手を伸ばさなかった。


 立ち上がると、入口席からガランも腰を上げた。


「そこ、座りやすかったか」


 エナへ訊く。


「扉が近くて寒い」


「そうか」


 ガランはその場で自分の椅子を持ち上げ、半歩だけ厨房側へずらした。


「何をしてるの」とピコ。


「寒いらしい」


「ガランが?」


「俺ではない」


 入口に、もう一脚置けるだけの隙間ができた。ガランは新しい椅子を下ろさない。空けただけだった。


 外では、エナが軒下まで歩いて止まっていた。ラドは追いついたが、隣へ並ばない。妹の半歩後ろに立つ。


「弓を買った人は誰」


「北門の道具屋」


「まだある?」


「分からない」


「値段は」


「薬草院へ払った分より高い」


 ラドはそこで「買い戻す」と言わなかった。今すぐ約束しても、空の銅貨袋から弓は出てこない。


 エナも「許さない」とは言わなかった。包みから上がる生姜の匂いを一度嗅ぎ、日付札を確かめた。


 ルチアが軒下まで来て、栗豚の代金から二人の料理代を引いた差額を示した。


「残りは誰へ渡す?」


「ラドへ」とエナが先に言った。「獲ったのは兄さん」


「弓代に回す」とラド。


「勝手に決めないで」


「お前の弓だ」


「だから私へ訊いて」


 ラドは銅貨を受け取った。弓代の袋を店へ作らず、自分の袋へ入れる。薬を買った時と同じように善意で先回りすれば、また妹の返事を置いていく。


「使い道は、家で訊く」


「家で答えるかも、私が決める」


 差額は解決金にならなかった。肉を持ち込んだ人へ、肉の代金として戻っただけだった。


「この肉、明日の朝まで?」


「冷所へ置けば」とアキラが入口から答えた。「十分に温め直して、匂いがおかしければ食べないでください」


「明日の朝、私が決める」


「肉のことか」とラド。


「肉も。弓も、いつ話すかも」


 エナは兄の外套を返そうとした。自分の外套ではなく、薬草院へ通う間に兄が掛けていた大きな方だった。


「着ていろ。寒い」


「寒いって決めないで」


 そう言った直後、風が吹き込み、エナは襟を閉じた。


「寒いのは合ってた」とラド。


「今のは私が決めた」


 ピコが店の中で吹き出した。エナにも聞こえたらしく、扉の外から睨まれた。


 ラドは笑わなかった。それでも妹の襟へ手を伸ばさず、荷物も奪わず、歩き出すまで待った。


 二人が去ったあと、調理台には栗豚の切れ端と、肉代から引いた料理代の計算が残った。兄が持ち込んだ肉で妹の薬代は戻らない。妹が三枚食べたからと、売った弓が正しいことにもならない。


「柔らかく焼けたのに」とアキラ。


「料理の話?」とルチア。


「それしか直せませんでした」


「今日は、それを頼まれたの」


 入口の隙間から冷たい風が入った。空いた場所へ椅子を一脚置けば、次の客は座れる。エナが戻るかは分からない。


 ガランは自分の大盛りを食べ終え、空いた床を見た。


「寒い席だぞ」


「さっき移したでしょう」とピコ。


「だから分かる」


 エナの名札も、翌週の予約もない。床には、椅子一脚ぶんの風だけが残った。

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