閉店予定日の、五人前おかわり
閉店予定日の朝、ルチアは椅子を全部下ろした。
昨日の雨宿り客が、そのまま来るとは限らない。
それでも十二脚を床へ並べ、布で一脚ずつ拭いた。ガランの入口席。ニアが翼を畳みやすい窓際。メルが帳面を置く二人卓。ピコが皿洗いの合間に座る厨房脇。
残る椅子には、まだ誰の癖もついていない。
「今日の売上で決めるんですね」
アキラが訊く。
「決めてあるの」
ルチアは帳面を開いた。
赤い線の引かれた日付。アキラがこの店へ来た日から、ずっと横線だけで消されずに残っていた閉店予定日だ。
「今日、仕入れと薪と屋根の分割払いを引いて、銅貨二十枚残らなければ終わり。皿を売って、パン屋に鍵を預ける」
「二十枚なら、二十人来れば」
「昨日は雨が連れてきた客。今日は晴れ」
窓から朝日が差している。
「それに一杯一枚の鍋だけ売っても、材料を引けば残らない」
「もっと高い料理を」
「高い食材を買うお金は?」
アキラは黙った。
料理人として、良い皿を作れば何とかなると思っていた。
ルチアの帳面では、良い皿にも薪代がかかる。
「ある物で作ります」
「それしかない」
食材棚には、琥珀鶏一羽、春豆、蜜玉葱、光麦。昨日の鍋で使い切らなかった鶏骨出汁。月卵は二つ。
春豆は、鞘も実も空豆より一回り小さい。濃い緑の実は硬く、青い香りが強い。淡い緑まで育った実は柔らかく、噛むと若い豆の甘さが出る。二つを同じ時刻に鍋へ入れれば、片方は硬いままか、もう片方は色も歯触りも失う。
派手ではない。
だが、この店で何度も使ってきた物ばかりだ。
アキラは琥珀鶏を部位へ分けた。骨は出汁へ戻す。腿と胸は小さな角切り。皮は別にする。
鶏脂で蜜玉葱を炒める。白い角が透け、縁に色がつくまで待つ。光麦を加え、粒の表面へ脂をまとわせた。生の光麦は米より少し細長く、暗い棚の中では粒の芯がかすかに光る。炊けば光は消える代わりに、麦の香ばしさと米に似た弾力が残る。
「今日は何?」
ピコが春豆の筋を取りながら訊く。
「炊き込みご飯」
「いつもの鶏と、いつもの麦?」
「そうです」
「閉店の日なのに?」
ルチアの手が止まった。
「誰から聞いたの」
「市場。皿を売るって話が出てた」
「市場は料理より話が早いわね」
「それで、最後なら手伝い代を先にもらおうかと思った」
「働いてから言いなさい」
いつも通りの会話だった。
光麦へ鶏骨出汁を注ぐ。角切り肉、炒め玉葱、塩、豆蜜をほんの少し。蓋をして、最初だけ強い火。沸く音が変わったら弱火へ落とす。
皮は別の鉄板へ広げ、上から重しを載せた。
「混ぜて炊かないの?」
「皮が柔らかくなるから、最後に」
ピコは春豆を二つに分けた。
「こっちは色が濃い。先に入れる?」
「春豆は最後です。色の濃い方は少し硬いから、蒸らしの最初。薄い方は火を止めてから」
《旬眼》の輪は、同じ豆でも違って見えた。
店を開ける七つ鐘が鳴った。
最初に入ったのはガランだった。
「照り焼き大盛り」
「今日は炊き込み麦だけです」とアキラ。
「大盛り」
「料理名を聞いてください」
「鶏が入っているなら同じだ」
入口席へ座る。
次にニア。今日は扉から入り、細長い朝飯を頼みかけ、鍋の匂いに止まった。
「飛びながら食べられる?」
「飛ばなければ」
「今日は午前便ない。大盛り」
「あなたまで?」とルチア。
メルは月卵蒸しを希望したが、今日の品書きを見て一人前を注文した。青靴隊は三人で来たのに、ボルクだけ二人前を主張する。
「今日は一人一膳」とルチア。
「閉店の日だぞ。最後くらい腹いっぱいに」
「市場の噂は本当に早いわね」
「だから来た」とシア。
彼女は厨房へ、薬草院の札がついた森茸を一籠置いた。
「赤いのは捨てた。これは安全。代金ではなく、使えるなら使って」
「今日の料理には入れません」
アキラが答える。
「香りは合います」とメル。
「入れれば豪華になりますよ」とレン。
アキラも一瞬、考えた。
最後の営業なら、茸を加えた方が見栄えはする。月卵も載せたい。たれを三種類用意してもいい。
だが、鍋から立っているのは、鶏と蜜玉葱の匂いだった。
雨の開店夜から、この店で何度も使った匂いだ。
「明日の料理に使います」
「明日があればね」
ルチアは言った。
「だから、明日の分です」
蓋の中で、光麦が出汁を吸った。
火を止め、色の濃い春豆を散らす。短く蒸らしてから薄い豆。最後に別焼きした琥珀鶏の皮を、手で大きく割って混ぜた。
蓋を開ける。
淡い金色に炊き上がった麦の間に、鶏肉、飴色玉葱、二色の春豆。皮は汁を吸い切らず、ところどころ立っている。
「五人前」
ルチアが椀を並べた。
「客は七人います」
「一鍋で五人前。最初からその量しか炊いてない」
ガラン、ニア、メル、青靴隊三人。六人だった。ピコまで客に数えれば七人。
「俺は二人分」とボルク。
「あなたを二人に分ければ足りる?」とメル。
「研究員が怖いことを言うな」
そのとき、扉の鈴が鳴った。
見知らぬ親子が立っていた。
母親の外套は雨染みが白く残り、少女は母親の後ろから鍋を見ている。
「昨日、雨宿りした荷運び人から聞きました。三つの味を選べる鍋の店だって」
「今日は鍋ではなく、炊き込み麦です」とルチア。
「二人分、ありますか」
五人前しかない。
客は八人になった。
ルチアは帳面を見た。今日必要な銅貨二十枚。五人前を正価で売っても、足りない。
「申し訳ないけど――」
「俺のを出せ」
ガランが言った。
全員が入口席を見る。
「門番は夜まで食わなくても倒れん。子どもは昼まで待てん」
「隊長が空腹だと、門が危ない」とニア。
「東門は暇だ」
「自分で言った」
シアが自分の一膳を母親へ。レンが少女へ差し出した。
「私たちは黒パンのスープを頼みます」
「俺は?」とボルク。
「あなたは雲芋を三個食べた貯金がある」
「腹に貯金はできない」
結局、炊き込み麦はガラン、ニア、メル、親子へ出た。青靴隊は黒パンの飴色スープを三つ頼む。
売上は増えたが、材料費も増える。
ルチアの帳面の数字は、まだ二十枚に届かない。
少女が匙を入れる。
光麦の粒は鶏出汁を吸っているが、表面はべたつかない。春豆が薄く弾け、噛んだところへ青い甘みを出す。大きく割った鶏皮は、柔らかい端とぱりっと残る中央が一緒に口へ入る。
少女は最初の一匙を飲み込むと、母親の椀を見た。
「同じ量?」
「同じです」とアキラ。
「よかった」
母親の方が少なければ、自分の椀から分けるつもりだったらしい。
次の一匙は、自分のために大きくすくった。
ニアは翼の付け根へ椀を挟もうとし、ルチアに止められる。メルは春豆の火入れ時間を記録したあと、鶏皮だけを最後に残した。ガランは大盛りではない一椀を、いつもより遅く食べている。
最後の一口を、椀の端へ寄せたままにした。
「残しますか」
アキラが訊く。
「残していない。最後に食う」
「冷めます」
「今日くらい、急かすな」
ガランは親子が食べ終えるまで、その一口へ手をつけなかった。
皿を下げ、代金を受け取る。
ルチアが銅貨を数えた。
十六枚。
必要なのは二十枚。
四枚足りない。
客たちも、帳面の数字を見ていた。
アキラは何か作れないか食材棚を開けた。もう売れる量はない。茸はあるが、出汁も薪も必要になる。
「終わり」
ルチアが帳面を閉じた。
「約束は約束。今日で――」
「明日の分を二人前」
親子の母親が言った。
銅貨を二枚、卓へ置く。
「明日は茸料理なんですよね」
少女がシアの籠を指さした。
「まだ決めていません」とアキラ。
「じゃあ、決まってない料理を二人分」
母親が笑った。
ルチアは銅貨を返そうとした。
「食べてない物の代金は取れない」
「予約金なら取れるでしょう?」
ニアが銅貨を一枚置く。
「細長い朝飯、明日の一本」
「あなたは借金を先に払いなさい」
「朝飯と借金は別って言ったの、ルチアだよ」
メルも一枚。
「月卵蒸し。一杯。研究ではなく普通に」
ガランは銅貨を二枚置いた。
「照り焼き大盛り」
「二枚では足りない」
「今日は一膳しか食っていない。その差額だ」
「計算が合わない」
「大事なのは四枚を超えたことだ」
卓には六枚あった。ルチアは一枚ずつ、今日の売上箱を避けて並べた。
ルチアは一枚ずつ、名前と料理を帳面へ書いた。それから六枚を売上箱へ入れず、別の布袋へ移した。袋の口に《明日》と書いた木片を結ぶ。
「足りたんじゃないの?」とニア。
「明日の料理を出すまで、これは店の金じゃない」
帳面の今日の欄には、十六枚と残ったままだった。
ルチアは腰の鍵を外し、棚の下から平たい木箱を出した。蓋の裏に、街道を走る小さな荷車が彫ってある。中には銅貨が十二枚。彼女はそのうち四枚を、今日の売上箱へ置いた。
「その木箱の十二枚は、何のお金ですか」とアキラ。
「私の隊商を持つための金」
「店に入れていいんですか」
「よくない。だから貸すの」
ルチアは帳面の余白へ、《麦と灯からルチアへ、銅貨四枚》と書いた。少し考え、《利息なし》を足す。
「予約の六枚は明日の分。私の四枚は、一か月だけの貸し。十枚まとめて、あなたの手柄にしないで」
アキラは礼を言いかけ、やめた。代わりに布袋の六枚を数え直した。明日、料理にして返す金だった。
ルチアは赤い線の閉店予定日を見つめた。
線を消しはしなかった。
頁を一枚めくり、一か月後の日付へ同じ赤線を引いた。
「一か月」
ルチアが言う。
「それまでに、屋根代の残りと、安定して一日二十枚。できなければ本当に終わり」
「明日は開けるんですね」
アキラは訊いた。
「予約を取ったから。四枚を返してもらうまでは、閉められない」
入口の閉店札を外し、裏返す。
反対側には、薄く消えかけた文字で《仕込み中》とあった。
ピコが皿洗い場から顔を出す。
「おかわりは?」
「鍋は空です」
「五人前、もう一回作れば五人前おかわり」
「今から?」
「明日の予約でしょ」
ルチアは空の鍋をアキラへ渡した。
「まず洗って。明日の五人前は、それから」
アキラは鍋を洗った。炊き込み麦の粒が一つ、底の縁に張りついている。木べらで剥がし、口へ入れた。
「味見?」とピコ。
「洗い残しです」
「俺にも洗い残して」
「残したら洗えていません」
鍋底がきれいになると、ルチアは伏せた鍋の上へ《明日》の布袋を置いた。六枚の銅貨が中で触れ合う。
今日の十六枚へは足さない。
その横に、ルチアが貸した四枚の借用行だけが残っていた。




