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第8章:凛冬の深淵

鉄錆街アイアン・ラスト・ストリートは奥へ進むほどに、あの安価な喧騒が遠ざかり、代わりに骨の髄まで凍りつかせそうな死寂が支配する世界へと変貌していった。


空気には不自然なほどの寒気が混じり、まるで金属の鋭い味がする霧が、皮膚の毛穴から容赦なく侵入してくるかのようだった。 街灯はますます疎らになり、たまに点っている一両のランプも、惨白な光を放って周囲の闇をいっそう引き立てているだけだった。


マイは先頭を歩いていた。その足取りは驚くほど軽快で、足音ひとつ立てない。 彼女はまるでこの異常な低温など一切感知していないかのように、緋色の忍者装束を冷風にパチパチと揺らせていた。 一方、その後ろをついていくフェイは、そう簡単にいくはずもなかった。 彼は破れたスーツをこれ以上ないほどきつく身体に巻き付け、冷え切った布地をまるで鉄板のように感じながら、必死に歯の根を鳴らさないよう耐えていた。


「ここか?」


飛が口を開いた。吐き出した息は、瞬時に真っ白な霜の塊となって空気中に霧散した。


舞は足を止め、前方の巨大な陰を指さした。 そこにあったのは、打ち捨てられた工業用プラントの廃墟だった。 円柱形の巨大なガス貯蔵タンクが半分泥に埋もれ、その外壁は分厚い、かすかに青みを帯びた硬い霜で覆われている。 正面には重厚な合金製の大型ハッチが据え付けられ、その隙間から、音もなく白い霧がさらさらと溢れ出ていた。


「冷気抽出駅よ」舞は振り返り、飛の寒さで青ざめた顔を見ると、その瞳に明らかな心配の光を過らせた。「本当にあの黒笠クロガサが、こんな化け物じみた場所に現れると思う?」


「ドライアイスの保存には極限の低温環境が必要だ。普通の場所じゃ一晩ともたない」 飛はドアの前に歩み寄り、そのハッチに触れようとしたが、数センチメートル手前で手を止めた。 皮膚の水分が一瞬で凍りついて引き裂かれそうなほどの、狂気じみた冷気が放射されている。「この寒さは不自然だ。内部で何らかのシステムが、今も稼働を続けている証拠だ。中に入ってドライアイスの供給源を確かめよう。運が良ければ、黒笠に繋がる実在のログ(痕跡)が手に入るはずだ」


舞は頷くと、特に無駄口を叩くこともなく、右脚を高く持ち上げてドアロックの部位へと力任せに蹴り込もうとした。


「待て、待て!」飛は慌てて彼女の細い手首を掴んで引き留めた。「そんな厚さの冷延合金のハッチだ。今の一撃じゃドアは壊れないどころか、君の脚の骨が先に衝撃の応力でやられちまう」


舞はわずかに眉をひそめ、少し不服そうに脚を下ろした。「……私の身体の耐久度をバカにしないでよね。それに、このドア、どこにもノブ(ハンドル)なんてないじゃない」


飛はしゃがみ込み、ハッチのフレームのエッジを細かく観察した。「物理の法則は誰に対しても平等だ。ここは長年、内部からの極低温に晒されて、金属の分子構造が極めてもろくなっている。――あそこを見てくれ、あの構造の歪んでいる一点を。全力で叩く必要はない。君の正確なピンポイントの打撃であの部位に衝撃インパクトを与えれば、内部の応力が勝手にロックの構造を破断させてくれる」


舞は半信半信のまま半歩退き、身体をわずかに沈み込ませた。 次の瞬間、彼女の身体はまるで一筋の紅い閃光と化し、その肩が、飛の指示したまさにその一点へと正確無比に衝突した。 ズゥン――という鈍い金属の破裂音とともに、ハッチが激しく震えた。 内部の噛み合わせの構造が断裂の悲鳴を上げ、重い合金のドアが、ゆっくりと内側に向かって一枚の隙間を開いた。


ハッチが開いた瞬間、濃密な白い霧が、まるで実体を持った激流のように二人の頭上から噴き出してきて、一瞬にして周囲の視界を真っ白に飲み込んだ。 飛は猛烈な悪寒に身体を震わせ、肺の中の空気までがパキパキと凍りついていくかのような錯覚に襲われた。


内部のレイアウトは、外よりもはるかに過酷だった。 肌を刺すというよりは、文字通り――細胞の奥深くまで冷気が浸透してくるような、そんな静かな寒さだった。


二人は静かにその巨大な空間の奥へと歩みを進めた。 巨大なコンデンサーの管線が低く単調なブーンというハミングを鳴らし、床の上の厚い氷の層が、彼らの靴底の下でパリ、パリと硬い破裂音を立てていた。 数歩進むごとに、飛の吐き出す息はますます濃くなり、視界を遮るほどの白さになっていった。


「ここ、ずっと稼働してるの?」飛が尋ねた。声が寒さでかすかに震える。


「いいえ、とっくに放棄された廃駅よ」舞が言った。彼女は前を歩いていたが、その足取りは相変わらず信じられないほど軽く、氷の上であっても滑る素振りすら見せない。


飛は頷いたが、もう言葉を返す余裕はなかった。彼は傍らの金属ラックに手を触れたが、冷たさが指先から一気に腕へと這い上がってきた。 さらに数歩進むと、彼は自分の指先の感覚が完全に消失し、呼吸のテンポが一段と遅くなっていくのを感じた。


舞は不意に足を止め、振り返って彼を見つめた。「……あなた、本当に寒いのね」


飛は無理に笑みを作った。「……まぁ、正常な人間のスペックだからな」 彼がその言葉を口にした時、声のボリュームは明らかに先ほどよりも小さくなり、吐き出す霧だけが異常に重くなっていた。


舞はその場から動かなかった。彼女は生錆びた鉄格子の前に佇み、じっと彼を見つめていた。「本当に不思議。あなたは、本当に『凍える』んだ」彼女は言った。


「君は……寒くないのか?」飛は尋ねた。


舞は首を横に振った。その口調は極めて淡々としていた。「慣れてるもの」彼女は一側の金属スタンドに身体を預け、彼が息を整えるのを待つかのように佇んだ。「私たちは子供の頃から、こういう訓練をさせられるの。極寒、酷暑、重量負荷、酸素欠乏……すべてに適応できなきゃ、最初の選別で死ぬわ」


彼女は少し考え、さらに言葉を付け足した。「高いところから落ちたり、何かに激しく衝突したりしても、まぁ、少し痛いって感じるくらいね」


「さっき君が言った『落ちる』ってのは、具体的にどれくらいの高度レイヤーの話だ?」飛が尋ねた。


舞は真面目に考え込んだ。「場所によるけれど。建物の十数階の屋根くらいなら、べつにどうってことないわ」 一呼吸置き、彼女は言った。「もう少し高くても、まぁ、なんとかなるわね」


飛は一秒間、沈黙した。「……じゃあ、さっき市場で、俺が君の代わりに大男の突きを受け止めていたら?」


「あなた、普通に死んでたわよ」舞は極めてあっさりと、直球で言った。


空気が一瞬だけ凍りついたようになり、それから彼女は飛を見つめ、不意にクスッと笑った。「でも安心して。私、さっきはちゃんと力をコントロールしたから」


飛は「……」と言葉を失った。


彼は自分の頼りない太ももを一瞥し、無意識に半歩後退した。舞はその彼の情けないリアクションを見て、明らかに面白いおもちゃを見つけたかのように瞳を輝かせた。


「大丈夫よ」彼女は言った。「今はあなたを蹴ったりしないから」 彼女がその言葉を口にした時、トーンはとても軽かった。だが、どうしてか、先ほどの真面目な説明よりもはるかに飛を不安にさせる響きがあった。


飛は深く、ゆっくりと息を吐き出した。「……じゃあ、君の体温のパラメータは、こういう場所でも低下しないのか?」


舞は首を振った。「多少は下がるわよ」彼女は言った。「でも、筋肉のパフォーマンスや動作のフレームレートには影響しないわ」 そして、再び飛をまじまじと見つめた。「でも、あなたは完全に違うのね」


飛は苦笑した。「あっちの世界じゃ、これを『恒温動物としての正常な仕様』って呼ぶんだよ。24時間のエアコンディショナーと床暖房が基本の文明だからな」


フェイはさらに奥へと進んだ時、ついに、一台の、かろうじて微弱な蛍光スクリーンを点滅させている古びた記録デバイスの前で足を止めた。 彼は床にひざまずき、凍えて**感覚の消失**した指先を必死に動かしながら、デバイスの外殻のボルトを一本ずつ取り外していった。 マイはすぐ傍らに立ち、その彼の「手作業」を、興味深そうな眼差しで見つめていた。


彼がいくつかの剥き出しになった配線を力任せに繋ぎ直すと、機械が不意に小さな震えを返した。漆黒の画面がパチパチと瞬き、おぼろげな映像が出力される。


「ログが出たわね」舞が言った。


画面の中、あの不気味な黒笠クロガサのシルエットが、極めて手慣れた動作で封印されたドライアイスのケースを回収していく姿が映し出された。 そして身を翻して立ち去るまさにその刹那、あいつは何かを察知したかのように、わずかにこうべを上向かせ、カメラのレンズの方向を真っ直ぐに凝視したのだ。映像は激しくノイズが混ざり、解像度は最悪だった。だが、飛はその黒笠の隙間から露出した、あいつのあごのラインを確実に視界に捉えた。 ――それは、彼の予想通り、あまりにも繊細で、細すぎる輪郭だった。


(やはり……あの高台の足跡のパラメータは正しかったな。あいつは……)


飛の胸の奥が冷たく沈み込んだが、彼はそれを口には出さなかった。彼は迅速にポケットからスマートフォンを取り出し、その画面のいくつかのフレームを、カメラのシャッター音を消したまま的確に撮影レコードした。


舞は不思議そうに顔を近づけてきた。「それは何? 何のために使う装置なの?」


「スマホだ……。電波は死んでるが、こうして映像をデジタルデータとして保存することはできる」 飛は簡潔に説明した。だが、それ以上の言葉を続けることはできなかった。 長時間の極限の冷気に晒されたことで、彼の脆弱な肉体は、すでに限界の境界線を完全に越えていたのだ。


ガクガクと膝の筋肉が痙攣を起こし、視界が急激にブラックアウトしていく。 飛の身体は完全にバランスを失い、そのまま前方の凍りついた鉄の床へと、無様に倒れ込んでいった。


「飛の兄さん!?」


舞の驚愕の声が、白い霧を引き裂いた。


彼女の手が閃光のような速度で伸び、倒れかける飛の分厚い腕をガシリと、しかし驚くほど正確に掴み取った。 二人の皮膚が接触したまさにその瞬間。 ドォン――と、飛の凍りつきかけていた神経回路に、凄まじい熱量がダイレクトに流れ込んできた。 それは舞の掌から溢れ出てくる、まるで沸騰したスープのような、圧倒的な生身の人間の温度だった。熱は瞬く間に彼の腕を駆け上がり、指先の**感覚の消失**と脳内の目眩を暴力的に吹き飛ばしていった。


飛は完全に呆気にとられ、無意識に二人の繋がった手を見つめた。


舞もまた、動きを止めていた。彼女は自分の掌から、生命の熱が津波のように眼の前の男へと吸い上げられていくのを、驚きと、奇妙な感覚とともにリアルタイムで感じていた。冷え切った男の肉体が、貪欲に彼女の体温を求めている。彼女は無意識のうちに、その掴んだ手をさらにきつく、指の骨が鳴るほどの力で握り締めた。


「……強がらないで」舞は声を低く落とした。そこには、いつもの悪戯っぽい響きは微塵もなかった。ただ、本気でこの「脆い男」を案じる、ひどく剥き出しの感情が宿っていた。「あなたの手……まるで死人の骨みたいに冷たくなってるわよ」


彼女は腕の筋肉に力を込め、飛の身体を、自分の方へと力任せに引き寄せた。 二人の衣服が擦れ合い、熱の交換のパラメータが異常な速度で上昇していく。飛の肉体はまだ寒さでガタガタと震えていたが、彼女のアイボリー色の皮膚から放射される温度が、一寸ずつ、彼のスーツの繊維を透過して浸透してくるのが分かった。


――次の瞬間だった。


舞は躊躇することなく一歩前に踏み出すと、その両腕を飛の腰の後ろへと回し、**そのまま背後から、彼を締めるように力任せに抱きしめた。**


それは「支える」といった生ぬるい動作ではなかった。 文字通り、「抱きしめる(ホールドする)」だった。


飛の思考回路が、その瞬間に完全にフリーズした。


二人の物理的な距離は、完全にゼロになった。 飛の耳元には、彼女の結んだポニーテールの黒髪が触れ、そこから微かな薬草の清香が立ち上っていた。 かつて経験したことのないような巨大な衝撃が、彼の中年男性としての理性を直撃した。それは、鏡界ミラーレルムの人間が持つ、千々に鍛え上げられた圧倒的な生命の熱量そのものだった。 薄い装束の向こう側から、彼女の肉体の引き締まった曲線、豊かな張力、そしてドクドクと力強く脈打つ心臓のビートが、ダイレクトに彼の背中に押し付けられてくる。それは単に柔らかいという次元の話ではなかった。力強く、しなやかで、あまりにも「生きている」という自己主張に満ちた温度だった。


飛の脳は真っ白になり、彼は本能的に彼女を押し離そうとした。だが、身体の動作が全く追いつかない。


いや、追いつかないのではない。身体の全細胞が、この圧倒的な熱源を手放すことを拒否していたのだ。


心臓の鼓動が、狂ったようにうるさく鳴り響く。


「……じっとしてて」舞の声が耳元に落ちてきた。彼女の吐き出す熱い息が、彼の頸椎の皮膚をかすめていく。「今のあなた、私が手を離した瞬間にそのまま凍って死んじゃうわよ」


彼女の口調は極めて自然だった。この世界において、凍死しかけている同伴者を体温で救うのは、生存のためのごく当たり前のロジックに過ぎないのだろう。彼女は、自分のこの行動が、眼の前の三十代の男にとってどれほど「致命的なバグ」を引き起こしているか、全く無自覚だった。


飛は喉の奥を激しく上下させた。彼の手は宙に浮いたまま、どこに置くべきか完全に迷子になっていた。


彼の内側にある、エンジニアとしての、そして一人の夫としての倫理のプログラムが、脳内で警告の赤文字を狂ったように明滅させる。


(――駄目だ)


(この距離は、絶対にエラーだ)


(この状態は、俺の人生の仕様書にあってはならない)


(俺には、海港城ハイガンシティのあの温かいリビングで、俺の帰りを待っているシュウが、ユエンユエンがいるんだ……!)


彼は必死に力を振り起こし、彼女のホールドを拒絶しようとした。 だが次の瞬間、床の上の分厚い氷の層で彼の靴底がツルリと滑り、身体の重心が完全に崩壊した。


舞の両腕が瞬時に鉄のクランプのように締め上げられ、飛の身体はさらに深く、彼女の胸元へと力任せに密着させられた。彼女が走る際の凄まじい体幹の爆発力が、その小さな肉体からダイレクトに伝わってくる。彼女は飛を半ば引きずるようにして、氷の上を確実に、一歩ずつ出口へと向かって進み始めた。


彼女の皮膚から溢れ出てくる、尽きることのない熱の奔流が、飛の肺胞の中に溜まっていた死の寒気を、一寸ずつ、確実に駆逐していく。その圧倒的な安心感の前に、飛の頑なだった拒絶の意志は、徐々にその接続を失っていった。


彼は、最終的に抗うのをやめた。


浮いていた彼の手がゆっくりと下ろされ、本当に、本当に申し訳程度の力加減で、彼女の緋色の肩の上にそっと置かれた。力を入れるわけでもなく、しかし、二度と引き剥がそうともしなかった。


舞はそれ以上何も言わなかった。ただ、移動する途中で、わずかに首を巡らせて彼の横顔を一瞬だけ見つめた。その瞳の中に、極めて短い、言葉にならないパラメータが明滅した。それは、自分の保護下にあるこの「脆い男」に対する、奇妙な優越感と――そして確かな、**今まで感じたことのない言葉にできない感情の芽生えだった。**


寒さは確実に退いていった。


だが、もう一つの、皮膚を焦がすような温度が、彼の胸の奥で激しくパラメータを上昇させ続けていた。


ようやくハッチの外へ抜け出し、夜の冷風が再び顔に吹き付けた時、舞はゆっくりと歩みを止めた。 彼女はすぐに腕をほどくことはせず、まる一秒の間を置いて、飛が自分の足で確実にスタンドできるのを確認してから、ゆっくりと、その腕のクランプを解除した。


熱源が不意に離脱したその瞬間、飛の胸の中に、一瞬だけ、言葉にできない強烈な「空虚ロス」が走った。彼は自分自身のその本能的なリアクションに、一瞬で背筋が凍りつくような自己嫌悪を覚えた。


舞はすでに一歩前に進み、振り返って彼を見つめていた。


「……少しは、暖まった?」彼女が尋ねた。 その口調はいつもの快活さを装っていたが、夜色の中でキラキラと輝く彼女の瞳、そして運動と発熱のためにほんのりとピンク色に染まった彼女の頬が、その奥にあるパラメータの変動を雄べんに物語っていた。


飛は視線を下に落とし、低く、かすれた声で応じた。


「……あぁ、助かった」


彼は二度と彼女の瞳を見ようとはせず、ただ静かに、冷たい空気を肺の中に吸い込んだ。


さっきの数分間のログ。


寒さを凌いだのは事実だ。だが、それ以上に致命的だったのは――。


**生存本能が理性を上回ってしまった**という、取り返しのつかないバグの存在だった。

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