第9章:スローモーションの崩壊
冷気抽出駅の裏手に広がる打ち捨てられた貨物ヤードは、深夜の闇の中で、まるで巨大な金属の墓場のように沈黙していた。
凍りついた土壌の中でねじ曲がったレールは、まるで巨獣が死に際に曝け出した残破な肋骨のようだった。 廃倉庫の隙間を吹き抜ける風が、まるで瀕死の者の喉から漏れる喘鳴のような細い音を立てている。 ここには街灯もなく、遠くの鉄錆街から届くわずかな紅い残光だけが、錆びついたコンテナの輪郭を不気味に描き出していた。
舞は飛の手首を軽く引きながら、錯綜する障害物の間をゆっくりと進んでいた。彼女の歩みはとても遅い。 先ほど冷庫から脱出したばかりの飛の顔色は依然として青白く、スーツの奥の身体はまだ微かに震えていた。
「この先のフェンスを越えれば、隠蔽された古い倉庫があるわ」舞は声を潜め、どこか死線を潜り抜けた安堵を含ませて言った。「そこなら誰も知らないから、まずは身体を――」
言いかけるよりも早く、飛の首の後ろの皮膚に、猛烈な悪寒が走った。 あの「危険を先読みする」本能が、彼の呼吸を瞬時に凍りつかせた。
ズゴォォォン――ッ!!
何の前触れもなく、不気味なエンジンの轟音が貨物ヤードの深部から爆発した。
原型を留めないほど無骨に改造された重型清障車が、闇の中から咆哮を上げて突進してきたのだ。 ヘッドライトすら点していない。まるで沈黙の鋼鉄怪獣だ。月光を浴びて鈍く光る巨大なフロントバンパーが、一直線に二人を目指して迫ってくる。
「避けてっ!!」
舞の反応は、飛の数倍は速かった。 彼女の小さな肉体から凄まじい推進力が爆発し、まだ呆然と立ち尽くしていた飛の身体を、側面の空地へと力任せに突き飛ばした。
――それと、ほぼ同時だった。 猛進してきた鉄の怪獣が、舞の身体を正面から撥ね飛ばした。
ドゴォッ!!
飛の視界の中で、時間が、そして世界が、残酷なまでのスローモーションへと引き延ばされた。 彼は見てしまった。自分の指先から離れていくあの緋色の影が、まるで暴風に引き裂かれた一枚の楓の葉のように、凄まじい衝撃を受けて宙へと垂直に打ち上げられる光景を。 彼女の身体は十数メートルも吹き飛び、生錆びたコンテナの側面に「ガシャァン!」と凄まじい衝撃音を立てて激突した。 厚いコンテナの鉄皮が、その衝撃の応力で大きく凹むのが見えた。
「舞――ッ!!」
飛の喉から、完全に裏返った悲鳴が迸った。彼は地面を這うようにして、なりふり構わず立ち上がった。
彼はコンテナの根元に崩れ落ちた舞を見つめた。心の中に、初めて、底の知れない絶望的な恐怖が湧き上がってきた。現代社会を生きる一人の凡人として、彼はこの規模の質量衝突が何を意味するかをあまりにもよく知っていた。骨折、内臓破裂、あるいは――即死。 それらの最悪なワードが脳内で狂ったように点滅する。
――しかし。 彼が駆け寄るよりも早く、その崩れ落ちていた緋色の影が、不意に動いた。
舞は片手を床につき、本当に、本当に何事もなかったかのように、ひらりとその場に立ち上がったのだ。 彼女は装束についた灰をぱんぱんと払い、髪が少し乱れているのを除けば、どこにも怪我をしている風すらなかった。それどころか、呆然としている飛に向かって、ペロッと少し悪戯っぽく舌を出して見せた。「平気よ」
飛はその場に硬直した。
大きく凹んだコンテナの鉄板を見つめ、それから涼しい顔をしている舞を見つめ、彼はこの世界の住人の身体構造の理不尽さに、恐怖を通り越して戦慄を覚えた。
(……今の一撃、もし俺がまともに喰らっていたら、確実にその場でミンチになってたぞ)
「余所見をしないで、本命のお出ましよ」舞の声が一瞬で冷徹な戦士のトーンへと切り替わり、その手の中で短杖が鋭く握り直された。
車の背後の陰から、三つの黒いシルエットが、音もなく闇から滲み出るように現れた。全身を漆黒の隠密服で包み、冷たいゴーグルを着用し、その手にする武器は微弱な光の中で幽藍の不気味な寒芒を放っている。 会話はない。警告もない。三人は人間の常識を超えた超高速度の連携で、三方向から同時に襲いかかってきた。
速い。視覚のフレームレートの限界を超えるほどの速度。
だが――まさにその刹那、飛の瞳の中で、世界は再び完全にその姿を変えた。
あの呪わしい、しかし絶対的な「四百ミリ秒の遅延」の感覚が、過去のどの瞬間よりも鮮明に、そして徹底的に全神経をジャックした。 猛進してくる黒衣の刺客たちの動作が、彼の視野の中で突然極端なスローモーションへと引き下げられ、まるで錆びついた古い映写機を見ているかのように変わった。
彼は見ることができた。 先頭の男が刃を振るう際の、前腕の筋肉一寸一寸の律動を。 ゴーグルの奥にある、冷酷で、いかなる感情の温度も宿していない瞳孔の動きを。
(――この遅さなら、俺の手の内でコントロールできる)
先頭の掃除屋が虚空へと跳ね上がり、飛の太陽穴を目がけて鋭いサイドキックを放ってきた。 だが飛の目には、その一突きはまるで秋風の中でゆらゆらと頼りなく落ちてくる枯葉のようにしか見えなかった。彼は心の中で冷静に評価する時間すらあった。(この技、踏み込みすぎだ。その後の重心のリカバリが最悪だし、左の脇腹が完全にエラー(隙)だらけだ)
飛は後退しなかった。恐怖もなかった。
彼はただ、相手の足尖が自分の皮膚に届くわずか三センチメートルの極限の断点で、身体をわずかに側面にスライドさせた。
それは極めて小さな位置の移動だったが、猛烈なキックは、彼のスーツのボタンをかすめるようにして虚空を掴んだ。 直後、飛はその流れるようなスローモーションの中で自然に右手を持ち上げ、人差し指と中指を揃えると、相手の完全に露出した腋下の特定の神経のノード(節)に向かって、ぽんと、極めて軽く触れるように押し当てた。
パシッ。
それは本当に、埃を払うかのような、かすかな接触に過ぎなかった。
だが、相手の感覚の中では、それはまるで数千ボルトの高圧電流が神経回路を一瞬で叩き割ったかのような凄まじい衝撃だった。その精鋭の刺客が誇る猛烈な攻勢は一瞬で瓦解し、男は極めて無様な、そして滑稽な姿勢のまま、横の廃鉄の山の中へと派手に突っ込んでいった。
残された二人の動きが、一瞬だけ止まった。 実戦において、確実な攻撃がこれほど唐突に霧散したことによる「失重感」は、彼らの完璧だった連携のプログラムに致命的な例外を発生させたのだ。
舞はその一瞬の隙を見逃さなかった。 短杖が空中を鮮やかな青の弧線で切り裂き、左側の男の胸元を強烈に弾き飛ばした。 しかし、右側の暗殺者はすでに飛の背後へと密着しており、短刀を逆手に握り直すと、骨を穿つような殺気を孕んで、飛の延髄目がけて一気に突き下ろしてきた。
飛は振り返ることすらしなかった。 あの引き延ばされた遅延の世界の中で、彼は背後の刃の風を完全にトレースしていた。
彼はただ、公園を散歩するかのような気楽さで、左後方へと半歩だけ斜めに下がった。 自分の肩を相手の肘の内側に滑り込ませ、その関節の特定のパラメータに、指先をぽんと押し当てる。
またしても、あの奇妙な、かすかな接触。
刺客の絶望に染まった瞳の中で、彼の右腕は一瞬にしてすべての感覚を失い、握られていた短刀がカチャランと床に虚しく落ちた。
最後の一人は、もはや完全に恐怖に呑まれていた。 彼は猛然と距離を離そうと後退を試みたが、飛の視点から見れば、その撤退のムーブは泥沼の中で足掻く亀の歩みと大差なかった。飛が静かに一歩を踏み出すと、二人の間の距離は極めてエレガントなテンポで一瞬にして抹消され、彼の手指が、男の頸椎のノードへと正確に落とされた。
戦闘は終了した。 黒衣の暗殺者たちが現れてから、三人が完全に床に転がるまで、現実の世界の時間軸では三十秒すら経過していなかった。
廃貨物ヤードに、再び静寂が戻ってきた。風が再び流れ始め、飛の破れたスーツの裾をパチパチと揺らす。
「飛の兄さん……あなた……」舞が短杖を収めながら歩み寄ってきた。彼女が飛を見る瞳には、もはや驚きを通り越し、何か未知の怪物を目撃したかのような深い震撼が宿っていた。
飛はその場に立ち尽くし、自分の呼吸を少しだけ荒くしていた。彼は自分の両手を見つめ、眉を実務的にひそめた。「……俺にも、よく分からないんだ。ただ、あいつらが次にどこを動かすのかが、あまりにもはっきりと見えてしまうんだ」
その時、地面に倒れていた暗殺者の一人が、震える指先を胸のポケットへと忍ばせた。飛の遅延感知が、その微かな筋肉の発力を正確に捉えた。
「危ないっ!!」
飛は舞の手首を掴み、力任せに自分の引き寄せた。
直後、男が最後の力を振り絞って金属製の通信機を押し下げると、一発の細い信号弾が夜空へと音を立てて跳ね上がった。それは漆黒の天幕の上で、刺すような血紅色の不気味な大輪を咲かせた。
「増援を呼んだわね!」舞の顔色が一気に険しくなった。
飛はもはや周囲の動向など目に入っていなかった。 彼は一歩で舞の前に進み出ると、その両手を彼女の緋色の肩へと強く押し当て、その瞳を覗き込んだ。その口調には、かつてないほどの激しい焦燥と、剥き出しの真剣さが満ちていた。「さっき車に撥ねられたところ、本当にどこも異常はないか!? 強がるな! 肋骨は折れてないか? 呼吸をしてみて、胸が痛むパラメータはないか!?」
彼の瞳には、言いようのない後悔と恐怖が激しく明滅していた。この脆い男が見せた、本気で自分の命を案じるその激しい熱量に、舞は準備していたいつものからかいの言葉を、すべて喉の奥に詰まらせてしまった。
「飛の兄さん……本当に、どこも何ともないわよ」舞の胸の奥に、不意に温かい、そして説明のつかない奇妙な違和感が静かに満ちていった。この男の掌が、緊張のためにじんわりと汗を握っているのが分かった。一人の男から、これほど真っ直ぐに、自分の存在そのものを庇われ、案じられるという経験は、彼女の廃土の生涯において、あまりにも初めての感覚だった。
「本当に、大丈夫なのか?」飛はなおも安心できず、その手は無意識に、彼女が衝撃を受けたはずの側腹部をチェックしようとした。だが、指先が緋色の薄い布地に触れる寸前、大人の男としての理性が彼の手をピタリとフリーズさせた。彼の顔が、一瞬にして赤くなる。
「本当に平気よ、ほら」舞は彼を安心させるために、その場でぴょんぴょんと二回ほど軽快に跳ねて見せた。その動作は相変わらず燕のようにしなやかだった。
飛はそこでようやく長い溜め息を吐き出したが、それでもなお、ブツブツと保護者じみた小言を漏らさずにはいられなかった。「君たちこちらの世界の住人の肉体スペックは、本当に仕様が不条理すぎるぞ……。あれは数トンの鉄の塊だ。もし俺があんなものを喰らっていたら、今頃君は俺のために盛大な葬式を開く準備をしなきゃならなかったんだからな」
舞はクスッと笑った。ポニーテールが夜風の中で軽快な弧を描く。「そしたら、お葬式のメニューに美味しいお肉があるかどうか、真っ先にチェックしなきゃね」
「行くぞ」飛は再び冷静さを取り戻した。「あの血紅色のシグナルは、すぐに次の群れを引き寄せる。一刻も早くここを離れるべきだ」
舞は飛の手首を掴んだ。今回のその力加減は、極めて確固としたものだった。 飛は後ろをついていきながら、前を行くあの鮮烈な緋色の背中を見つめていた。この鉄錆、機械油、そして常に死の例外が潜む荒涼とした世界において、この一団の赤は、彼の唯一の道標だった。
「舞」飛は低い声で、彼女の名前を呼んだ。
「ん?」舞は振り返り、その黒髪を風になびかせた。
「もし……もしもの話だ。さっき、君が本当に死んじまうようなことがあったら」飛の声はかすかに掠れ、大人の男としての重い響きを帯びていた。「俺はどんな方法を使ってでも、君をあそこから連れ出す。どこへ向かうことになってもな」
舞は一瞬だけ呆気に取られたが、次の瞬間、その口元を大きく横に広げ、これ以上ないほどにからりと、屈託のない笑顔を咲かせた。「分かったわ、飛の兄さん! あなたにそこまで言われちゃ、私、この命をそう簡単に手放すわけにはいかなくなったわね」
彼女は再び前を向いた。その声は夜風にかき消されそうになりながらも、確実に飛の耳元へと届けられた。
「これからは、私があなたの護衛よ、飛の兄さん」
飛は沈黙した。彼は自分のボロボロになったスーツを見つめ、足元の見知らぬレールを見つめた。
その時、貨物ヤードのさらに高所にあるクレーンタワーの頂点。 一枚の黒笠を深く被った漆黒のシルエットが、静かに佇んでいた。 あいつは手にしていた赤外線スコープをゆっくりと下ろすと、その隠された口元に、残忍でありながら、深い興味を孕んだ笑みを浮かべた。
「あの肉体スペックでありながら、あの反応速度……。本当に、面白い観測対象が現れたものだ」
あいつは身を翻すと、墨を流したような夜色の中へと静かに消失していった。
ヤードの深部、飛と舞の二人の影は、少しずつ小さくなっていく。 しかし、新しい嵐のプログラムは、すでにこの世界の最も深い底流のレイヤーにおいて、静かにその出力を上げつつあった。




