第4章:消えゆく酸素と論理の死角
警察官の荒々しい態度に対しても、飛はそれ以上、力で引き剥がそうとはしなかった。 彼は一歩引き、その鋭い視線を、推し開けられた寝室のドアの向こうへと向けた。
「警官」飛は口を開いた。声は低かったが、奇妙なほどに通りが良かった。「ここで彼女の動機を詮索するより、彼女を連れて一緒に現場に入り、指差し確認(指認)をさせた方がいい。何と言っても、彼女が最後に部屋へ入った人間だ。多くのディテールは彼女にしか確認できない。今の証拠だけで結論を急ぎ、万が一、誤認逮捕にでもなれば、お互いに都合が悪いだろう?」
警察官は片手を腰の警棒に伸ばし、怒鳴り散らした。「ボロスーツの分際でどこから湧いて出やがった! 警察に捜査の指図をする気か? 連行妨害で貴様も一緒にぶち込むぞ!」
だが、飛は退かなかった。 その冷徹で、深く澄んだ瞳で相手を直視し、平然とした口調のまま、逃げ場のない正論を突きつけた。
「警官、捜査において最も重要なのは『論理の完全閉鎖』だ。彼女を中に入れれば、身の潔白を証明する機会にもなるし、現場の目撃者が一人増えることになる。野次馬たちも見てるんだ、いきなり毒殺だと決めつけるのは筋が通らない」
この鉄錆街のような場所では、住民たちはもとから警察に対してまともな好意を持っていない。ましてや、捜査にかこつけて若い女に嫌がらせをするような真似は、誰もが不愉快に思っていた。 人混みの中から、誰かが鋭い口笛を鳴らしたのを皮切りに、警察を冷やかす声が次々と上がった。
「おいおい警官、あのスーツの兄ちゃんの言う通りだぜ。お前は捜査をしてるのか、それとも姉ちゃんの体をもみ揉みしたいだけなのか?」 「そうだ。さっきの手つきじゃ、もう少しで太ももに届きそうだったぞ。それが例行検査だってのか? 俺も警察官に転職してえよ!」 「二人を中に入れろよ! もしそこの兄ちゃんがまともな説明をできなきゃ、二人まとめて連行すればいい。俺たちは誰も止めねえからよ!」
地鳴りのような野次馬の煽り文句に、警察官の顔は極めて醜く歪んだ。 彼は周囲を見回し、何人かの荒くれ者が不穏な笑みを浮かべながら拳を鳴らして近づいてくるのに気づいた。この無法地帯で本当に民衆の暴動を引き起こせば、自分の制服だけでは身を守りきれない。
警察官は地面にペッと唾を吐き捨てた。
「いいだろう、お前ら。そこまで言うなら機会をやってやる」 警察官は少女の手を離したが、警棒の先端を飛の鼻先に突きつけ、声を潜めて忌々しげに脅しをかけた。「だがな、この部屋の中でまともな説明が見つからなきゃ、公務執行妨害と犯人蔵匿の罪で、二度とこの鉄錆街のブタ箱から出られねえようにしてやるからな!」
飛は無言のまま、わずかに歪んだネクタイの位置を正し、横に一歩ずれて少女に先へ入るよう促した。
「おい! どけ! 全員どけ!」 警察官は手荒に周囲の人間を押し退け、二度と少女の体に触れようとはせず、自ら先頭に立ってあのドアの向こうへと足を踏み入れた。
少女の胸が、ドクンと激しく脈打った。 (あの人……どうして、ここまでして私を助けてくれるの? ただの通りすがりの他人なのに、何度も私の前に立って……。彼が前に立ってくれた瞬間、どうしてかしら……酷く、安心してしまう)
部屋の敷居を跨ぐ刹那、飛は無意識に振り返り、少し戸惑ったように立ち尽くしている紅い衣の少女を見た。 二人の視線が、濁った空気の中で再び衝突する。 その一瞬、周囲の耳障りな喧騒が、まるで完全にミュートされたかのように静まり返った。 間近で見る彼女の瞳はとても眩しく、まだ引き切っていない驚きを宿しながらも、侵しがたい強情さと警戒を湛えていた。危険の縁で足掻きながらも、決して頭を垂れようとしないその表情に、飛の胸がわずかに締め付けられた。
少女も同時に、飛の視線を感じていた。心臓の鼓動が、一瞬だけ不規則に跳ねる。 (この人の目……なんて静かなんだろう。なのに、どうしてこんなに安心するの?)
彼女の瞳に映っていたのは、少しだけ狼狽した中年男性の姿だった。スーツは汚れ、ネクタイは曲がり、顔には埃がついている。少女の呼吸はまだ少し乱れており、胸元が小さく上下していた。その緋色のシルエットは、薄暗い通路の中で、どこか孤高で、痛々しいほどに鮮やかだった。
飛の心臓が不意に小さく収縮した。 デジャブのような、何かに一瞬で撃ち抜かれたような奇妙な感覚。
飛は条件反射のように視線を逸らした。彼はわざとらしくコホコホと咳払いをし、ドアの枠の剥がれかけたペンキを見つめる振りをしながら、心の中で苦笑した。 (落ち着け……俺はただ、東野圭吾やシャーロック・ホームズを読みすぎて、にわか探偵の真似事をしてるだけだ。本当に今から謎解きなんて、完全にぶっつけ本番じゃないか……)
ドアは大きく開かれ、一同が次々と中へ入っていった。
部屋は狭く、せいぜい十平米ほどしかなかった。
一歩足を踏み入れた瞬間、空気が重く圧迫感のあるものへと変わった。 鼻を刺すような悪臭や、腐敗臭があるわけではない。ただ、本能的に深呼吸をしたくなるのに、吸えば吸うほど胸が詰まるような、奇妙な窒息感(閉塞感)だった。
飛の足が、微かに止まった。
彼の視線は迅速に周囲をスキャンしていく。 窓は固く閉ざされ、内側からかんぬき(クレセント錠)が厳重に下ろされている。部屋の隅に換気口はない。机の上は散らかっているが、争ったような形跡(乱れ)は一切なかった。
そして、彼はベッドの上の遺体に目を向けた。
マスターの『老鉄』は、極めて不自然な姿勢でベッドに横たわっていた。身体をわずかに丸め、眠っている途中で突然目覚めることができなくなったかのような姿だ。両目は見開かれ、顔には臨死の驚愕と苦痛が焼き付いていたが、もがいたような跡はどこにもない。
飛の喉が、きゅっと収縮した。 死体を見るのが初めてというわけではない。先月、義母(シュウの母親)が他界したばかりだった。あの葬儀の間、彼は終始妻と娘に寄り添い、老人が病床の上でゆっくりと静かになっていくのをこの目で看取った。 だが、眼の前の死体は完全に異質だった。病院の消毒液の匂いはなく、あるのは冷たい鉄錆と機械油が混ざり合った、この世界特有の不気味な臭気だけだ。彼は無意識につばを飲み込み、掌の汗をズボンでそっと拭うと、自分を強制的にコントロールして死体の傍らにしゃがみ込んだ。
(慌てるな……今は家族のことを考えている場合じゃない)
「警官」飛の声は極めて平穏だった。彼は遺体を指さした。「さっき外で、被害者の爪が青紫色に変色していると言いましたね。これを見てください」
警察官が不機嫌そうに顔を近づける。
爪は、均一な青紫色に染まっていた。まるで全体が丁寧に塗装されたかのように。
「もし『毒』によるものなら」飛は冷静に語りかけた。「爪の色は往々にして斑点状になり、これほど均一にはなり得ません。この色は、毒というよりは……極端な『酸素欠乏』に近い」
警察官は上体を起こし、冷笑した。「酸素欠乏? じゃあ、枕か何かで顔を覆われて窒息死したってことか」
飛はすぐには反論せず、ただ静かに問いかけた。「では、警官――彼は『暴れた』ように見えますか?」
二人は同時に遺体を見つめた。
ベッドの毛布はわずかにめくれているだけで、ひっくり返った家具もなく、壁に引っかき傷もない。枕の位置さえほとんど動いていなかった。被害者はまるで、深い眠りの中でゆっくりと呼吸を奪われ、反抗する力さえ湧かないまま息絶えたかのようだった。
傍らに立つ少女の、心臓の鼓動がさらに速くなっていく。 (この人……なんて冷静に死体を分析しているの。さっき外にいた時はただの流れ者だと思ったのに、今はまるで私を守るように、すべての矛先を自分に引き受けて……。**なんて、不思議な人なんだろう**)
飛は立ち上がり、その声に初めて一筋の鋭さを込めた。 「生きたまま窒息させられた人間が、これほど静かに死ねるはずがありません」
「じゃあ、お前の言いたいのは『事故』だってことか?」警察官が聞き返す。
「酸素欠乏(窒息)だからといって、犯人がいないことにはなりませんよ」飛の声は低かった。
少女は思わず小さな声で尋ねた。「それじゃあ……一体何が起きたの?」
飛は彼女に安心させるような視線を一瞬だけ送ると、再びロジックを展開した。 「まずはタイムライン(時間軸)を確認しましょう」 彼は振り返り、部屋の隅で縮こまっているバーテンダーを見つめた。 「昨晩、君は彼女がここに入るのを見た。彼女がこの部屋にいた時間はどれくらいだ?」
バーテンダーは名指しされ、明らかに狼狽した。「ほん……ほんの一瞬です。三分から五分くらい。彼女は薬草を届けにきて、マスターも普通に言葉を返していました。その後、俺が厨房に用事があって離れて、戻ってきた時には、もう彼女はいませんでした」
「その時、マスターはまだ生きていたんだな?」飛が確認する。
「生きてました! 『次はもっと新鮮なやつを持ってこい』って、彼女に向かって怒鳴ってましたから!」
紅い衣の少女がすぐに言葉を繋いだ。その声には焦燥が混じっている。「私が部屋を出る時、マスターは確かに立ち上がってドアを閉めました! 内側から鍵がかかる音も、はっきりと聞きました!」
飛は頷いた。何かのパラメータを確認したかのようだった。
そして、彼は警察官に向き直った。 「つまり、彼女が部屋に入る時も、立ち去る時も、明確な目撃者がいる。そして彼女が去った瞬間、被害者は確実に生存していた」
警察官は眉をひそめた。「それがどうした? 時間が短くても、何か細工をすることは可能だろ」
飛は小さくため息をついた。その口調が、初めて明確な「刃」を帯びる。 「分かりました。では、仮に彼女が『犯人』だと仮定しましょう」
少女の心が、一瞬で凍りついた。 (あの人……今、何て言ったの? まさか、彼まで私を疑っているの? ――いや、違う。彼はさっき外で私を庇ってくれた。きっと、この方法で私の無実を完全に証明しようとしているんだ……) 彼女は唇をきつく噛み締め、じっと飛を見つめた。その瞳には、彼への信頼と、名前のつかない微かな感情が同時に湧き上がっていた。
飛は片手を挙げ、指を一本ずつ折り曲げながら数え上げた。
「彼女はわずか数分の間に、以下のすべてのタスクを完了しなければならない」
「一、水をコップに注ぐ」 「二、毒を混入する。しかも相手に気づかれない方法で」 「三、立ち去る際、マスターは平然と立ち上がってドアを閉め、その後に静かに死亡する」
「では、警官。遺体が発見されたのはいつですか?」
警察官はぶっきらぼうに説明した。「一時間前だ。この酒場は夕方の16時に開店するが、バーテンダーがドアを叩いても返事がなかった。マスターがどこかへ出かけたと思い、18時になっても戻らないので、不審に思って通報したんだ」
飛はその時、壁に掛けられた時計を見上げた。針は20時07分を指している。 彼は下を向き、自分の機械式腕時計を確認した。針は3時07分。ここで初めて、時間の進み方がおかしいことに気づいた。
(俺がこちらの世界に目覚めた時が1時ちょうどだった。あれから二時間以上が経過している……。だが、この部屋の時計と俺の時計、**JST(日本標準時)から逆算しても、ちょうど7時間のズレがある**。これは時差なのか、それとも時間の流れるパラメータそのものが歪んでいるのか……?) 飛は心の中で呟いた。日本時間よりちょうど七時間遅れている…… これは地球上のどの経度に相当するんだ?
「俺たちがドアを壊して入った時、確かにここの空気は酷く淀んでいた」警察官が話を戻した。「だが、バーテンダーの話じゃ、マスターは普段から窓もドアも閉め切って寝る習慣だったそうだ」
「だからこそ――」 飛の眼光が、再び部屋全体を鋭く射抜いた。 「この部屋は、彼女が立ち去ってから、警察が突入するまでの間、完全に『密閉空間』だった。そうですね?」
室内の空気が、さらに一段と重くなった。
「そうだ。俺たちが鍵を解錠した時以外、ドアにも窓にも破壊された形跡はない」警察官が答える。
飛の声は高くはなかったが、まるで釘を打ち込むかのように、一字一字が全員の鼓膜に突き刺さった。
「では、最大の矛盾がここにあります」
「完全に密閉された空間において――『酸素』は、一体どこへ消えたのですか? 被害者を窒息死させるほどの規模で」
警察官は鼻で笑った。「御託はいい。この部屋に閉じこもっていて、外傷もなく、中毒でもない。あの小娘の薬草が原因じゃないなら、他に何があるってんだ? 空気が勝手に逃げ出したとでも言う気か?」
飛は彼を一瞥し、意外にも深く頷いた。
「その通りです。空気(酸素)は、確かに『強制的に書き換えられた』」
「毒でもなければ、薬でもない」飛はゆっくりと言い放った。「別の『気体』が、この部屋の全領域を占有したのです」
紅い衣の少女は無意識に腰の短杖をきつく握り締めた。だが、その胸の奥には温かい電流が流れていた。 (あの人は……やっぱり私を助けてくれている。一歩一歩、すべての容疑を私から引き離していく……。この男、一体何者なの?)
飛は突如、地面にしゃがみ込んだ。ハンカチを取り出し、ゴミ箱の中にあった短いローソクの残骸を丁寧に挟み上げ、軽く回して見せた。
「警官、これに気づきませんか? このローソクの側面に、明らかな『締め付けられた痕跡(締め痕)』がある」
警察官が怪訝そうに覗き込む。
「それと、これです」飛はゴミ箱の底を指さした。「焼け焦げた、細い綿糸の切れ端だ」
彼の指先は、ゆっくりと机の角に置かれた、バネ式のラッチ(留め具)がついた空の金属ボックスへと移動した。
「さらに、この金属箱。これら三つのオブジェクトが、ただの偶然で同じ場所にあると思いますか?」
飛は立ち上がり、その口調は極めて冷徹で明晰なものへと変調した。 「何者かがこの部屋に、事前に『タイマー装置(遅延トリガー)』を仕掛けていたのです」
警察官の表情にようやく明らかな動揺が走ったが、まだ強がっていた。「仮にそんな仕掛けがあったとして、それがどうした? ローソクと糸で火でも点けて紙を燃やしたところで、人間を窒息死させられるわけねえだろ!」
飛は答えず、逆に問いを返した。
「あなたはさっき――『毒ガス』の可能性を疑いましたね?」
警察官は虚を突かれた。「あ、あぁ、そうだ」
「もし毒ガスなら」飛は平然と言った。「人間は生存本能のままにもがき苦しみ、ここから逃げ出そうとするはずだ。だが、彼の姿勢を見てください」
全員の視線が、再びベッドの遺体へと向く。
硬直。痛苦。しかし、争った形跡は皆無。
「彼は『攻撃』されたのではない」飛は声を潜めた。「自分でも気づかないほどの緩やかな環境の変化に、一歩ずつ、完全に飲み込まれた(パッチを当てられた)のです」
彼は言葉を切り、全員にロジックを消化する時間を与えた。
そして、顔を上げる。
「その気体なら、私たち全員がよく知っている」
「無色。無臭」
「だが、一定の濃度を超えた瞬間――」
飛の声が低く沈み込む。
「人間は、何の防備もないまま、完全に意識を失う(シャットダウンする)」
彼は警察官を見つめ、一字一字を叩きつけた。
「二酸化炭素(CO2)です」
室内から、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。
紅い衣の少女は大きく目を見開き、息を呑んで飛を見つめた。まるで、初めて真の意味でこの男という存在を「視界に捉えた」かのように。
「お前、まさか……」警察官の喉が固くなった。「そんな玩具で人が殺せると言うのか?」
「『使う』のではありません」飛は出力を修正した。「物質の『状態変化(相転移)』を利用したのです」
彼は金属ボックスの傍らに歩み寄り、そのエッジにあるラッチを軽く叩いた。
「ドライアイス」 その単語が落ちた瞬間、部屋の中は文字通り、完全な静寂に包まれた。
「ドライアイスだと?」警察官が眉をひそめる。
「固形化した二酸化炭素です」飛は続けた。「常温においては融解(液体化)せず、直接気体へと昇華する。もし、十分な量のドライアイスをこのボックスの中に封じ込め――」
彼は手を持ち上げ、ボックスが「開く」動作を模した。
「ローソクと綿糸を使って、時間差の起爆装置(遅延トリガー)を組んだとしたら?」
「ローソクが燃え進み、結ばれた綿糸を焼き切る」
パチン。
飛は静かに指を鳴らした。その軽い音が、静寂の中で不気味に響く。
「ボックスが解放される」
その一打は、目に見えないスイッチのようだった。
「直後、大量の二酸化炭素が瞬時に室内に放出される。この気体は空気よりも重いため、地面のレイヤーから堆積を始め、水のように、ゆっくりと部屋全体を満たしていく」
室内の空気が、本当に物理的に重くなったかのような錯覚が全員を襲った。
「そして彼は――」飛は死者を見つめた。「何一つ異変に気づかないまま、最初は軽い目眩を覚え、続いて全身の脱力感に襲われ、最終的にはドアを開けて逃げる力さえ奪われた」
「窒息のパラメータが100%に達するまで」
警察官の顔色は、すでに土色に変わっていた。
「ドアは、彼自身が内側から施錠した。窓も、彼自身がかんぬきを下ろした」飛は淡々と言った。「犯人は最初から、現場にいる必要などなかったのです」
少女は大きく目を見開き、じっと飛を見つめていた。その瞳の中に、一筋の強い好奇心の光が灯る。 (この人……信じられない。これほど短い時間で、すべての手がかりを一本の線に繋げてしまうなんて……。**本当に、変わった人。このスペック、底が見えないわ……**)
室内に死のような静寂が広がる中、飛は手を止めず、警察官に最後の論理チェックを突きつけた。
「さて、あなたの最初の判断に戻りましょう」
「こちらの女性が部屋に滞在していた時間は、わずか三分から五分。そうですね?」
部屋の隅でバーテンダーが狂ったように首を縦に振った。「そうです! 本当に一瞬でした!」
飛は頷き、だがその口調を突如としてブレードのように鋭く研ぎ澄ました。
「では教えてください――被害者(老鉄)に至近距離で凝視されている環境下で、彼女はどうやって以下のすべてのオペレーションを完遂したと言うのですか?」
彼は指を一本立てた。 「一、ローソクに火を点ける」
二本目。 「綿糸を固定し、ミリ単位で高さを調整する」
三本目。 「冷気を放出し続けている金属ボックスを完全に隠蔽し、相手に一切の違和感を抱かせない」
四本目。 「同時に、毒を盛り、水を注ぎ、何の疑いも持たせない」
彼は警察官を見つめ、静かに尋ねた。 「これらのオペレーションは、単独で数分あれば可能かもしれない。だが、被害者の『眼の前』で実行するのは、システムの仕様上、絶対に不可能です」
警察官は口を大きく開けたまま、言葉を失った。
少女は唇をきつく噛み締め、必死に感情を堪えていたが、どうしても視線が飛へと向いてしまう。胸の奥に、**「この人なら、あるいは――」という、今までにない確かな感覚**が、もはや無視できない大きさに膨れ上がっていた。
飛の声が、ふっと柔らかくなった。
「実のところ、このトリック自体は極めて美しい(エレガントだ)。だが、一つだけ致命的な例外がある――これほどの量のドライアイスは、通りすがりの人間がポケットに入れて持ち込めるような代物じゃない。そしてこの鉄錆街において、毎日大量のドライアイスを保管・使用している場所は、決して多くはないはずだ。何よりも、この装置を仕込むには時間がかかる。マスターが一人でいて、完全に無防備な時間帯でなければならない。それが可能なのは――突如やってきた外部の客ではなく、この場所に日常的に自由に出入りできる権限を持った人間だけだ」
その瞬間、室内にいた全員の視線が、極めて自然な『偏向』を起こした。
飛はそれ以上何も言わず、ただ静かに、その視線の集まる先を見つめた。
論理の完全閉鎖は、完了した。
圧迫感のある空気の中、紅い衣の少女が突然、一歩前に踏み出した。
「ちょっと! おじさん!」
彼女の鈴を転がすような清らかな声が響き、飛の手がビクッと震えた。危うく、そこにはない眼鏡のブリッジを押し上げそうになる。
「あなた……」少女は彼の目の前に立ち、その瞳をキラキラと輝かせた。「本当に、凄いのね!」
彼女との距離が、あまりにも近かった。
近すぎて、飛は彼女の瞳の中に映る自分の姿をはっきりと視認できた――ボロボロで、スーツにはシワが寄り、少しだけ狼狽を隠しきれていない、冴えない中年男の姿。
彼は無意識に半歩後退し、耳の根が再びじわじわと熱くなるのを感じた。
「……ただのただの論理だ」彼は小さく咳払いをし、大人の冷静さを維持しようと努めた。「それと、俺はまだ三十代前半だ。おじさんじゃない」
少女は一瞬呆気に取られたが、次の瞬間、プッと吹き出すように笑った。
張り詰めていた室内の淀んだ空気が、その少女の笑顔によって、軽やかに切り裂かれていく。
彼女は首を少し傾げ、その瞳に悪戯っぽい光を浮かべた。
「分かったわよ、おじさん……ううん、スーツのお兄さん」
飛は「……」と言葉を失い、あえて前半のフレーズを脳内でミュートすることにした。




