第3章:鉄錆街のパラメータと最初の紅
飛が未知の暗闇へ向かって歩みを進めると、心の中で静かに祈った。 (この世界の『運営』とやら、もし親切心があるなら、俺の妻に『今日は夕飯に少し遅れる』とメッセージの一本でも飛ばしてくれないか)
数歩も歩かないうちに、背後から突然、急を告げる重い足音が響いた。 金属が擦れ合う耳障りな音が混じっている。
「だ……旦那! 待ってくれ!」
やってきたのは、さっきの片目の大男だった。 二メートルはある巨躯を今は犯罪者のように縮こまらせ、左腕が不自然な角度に曲がっている。明らかに脱臼していた。 男は痛みに耐えながら、右手にパンパンに膨らんだ布袋を必死に握り締め、小走りで飛の前に突っ込むと、深く頭を垂れた。
「さっきは俺の目が腐ってやがった、旦那を怒らせちまって……。これは詫びの品だ、受け取ってくれ。頼む、恨まないでくれ」
大男の声は震えていた。布袋をこれ以上ないほど恭しく差し出してくる。
飛はすぐには受け取らず、ただ静かに相手を見つめた。 その底の見えない静かな眼差しが、周囲の空気をじわじわと圧迫していく。大男の額から冷や汗が吹き出し、差し出した手がガタガタと震え始めた。
そこでようやく、飛は手を伸ばして布袋を受け取った。 ずっしりと重い。中からは、硬質で均一な金属の擦れ合う音が聞こえた。この世界の通貨――源晶だ。
彼は袋を軽く手の中で転がし、拒否はしなかった。 見知らぬ土地において、資源とは最も直接的な安心感そのものだ。
「次に手を出す時は」飛は淡々と言った。「まず相手の……『スペック』を確かめるんだな」
大男は当然、その言葉の真意(IT用語)を理解できなかったが、ただ必死に、ニンニクを潰すかのように頭を激しく縦に振った。
飛は二度と彼を見ることなく、身を翻して立ち去った。ダークブルーの背中が、すぐに路地の角へと消えていく。
その姿が完全に消えて初めて、大男は糸の切れた人形のように地面にへたり込み、激しく喘いだ。まるで抗うことのできない絶対的な天災から、奇跡的に生き延びたかのように。
飛は重みのある源晶の袋を弄びながら、通りを進んだ。 布袋の中で金属が鳴る音は、まるでサーバールームの筐体の中でハードディスクのインジケータが激しく点滅しているリズムのようで、彼を妙に安心させた。少なくともこのおかしな場所で、一時的な「購買力」を手に入れたのだ。
遠くの歪んだ鋼鉄の巨塔が、暗紫色の空の下でいっそう冷酷にそびえ立っている。 彼は無意識にその巨塔へ方向を定め、まずは飢えた腹を満たせる場所を探し、それからここがゲームなのか並行時空なのかを突き詰めようと考えた。
通りの角から、不意に焼き肉と機械油の混じった香ばしい匂いが漂ってきた。 大勢の人々の喧騒が聞こえる。 飛が顔を上げると、チカチカと明滅するネオン看板が目に飛び込んできた。看板には切断された回路のマークが描かれ、『ブレーカー(断路器)・酒場』と書かれている。 しかし、その酒場の隣にある石造りの建物の前には、黒山の人だかりができていた。
「どけ! どけ! 緊急医療ルートを確保しろ!」
白い防護服を着て、胸に赤い十字の紋章をつけた数人の医師たちが、無骨な医療機器を押してその建物へと突入していく。 野次馬たちが口々に囁き合っていた。
「酒場のマスターの『老鉄』がやられたらしい。寝室で死んでたってよ、相当ひどい死に様だったらしいぜ」 「嘘だろ、老鉄の体だけは頑丈そのものだったじゃないか。昨晩だってあんなに浴びるほど酒を飲んでたのに、なんで急に逝っちまうんだ?」
飛は職業的な好奇心から、人混みに紛れてその入り口へと移動した。 彼のボロボロではあるが仕立ての良いスーツ姿は、粗暴な格闘家や流浪汉たちの間で異様に目立っていた。周囲の者たちは彼を上層部から派遣されてきた高官か調査官だと勘違いし、無意識に道を譲ったほどだ。
寝室の中では、医師たちが横たわる死体に最後の検視を行っていた。 飛の視線は、稼働しているその医療機器の画面へと向いた。 レイアウト、プローブの接続方式、ディスプレイの波形曲線のスタイルは、彼の記憶にある現代の医療機器と大差ない。だが、画面に表示されているパラメータは完全に未知のものだった。
【神経振幅(Neural Amplitude):12%】 【意識同期率(Consciousness Sync):11%】 【生物波周波数(Bio-Wave Frequency):0.2 Hz】
飛は微かに眉をひそめた。脳裏に一つの念頭が閃く。 (この指標……俺たちがAIを調整する時の『損失関数(loss)のカーブ』より歪んでるな。俺がデバッグするなら、こんなエラーの塊、もっと早く収束させてやるんだが……) 文字の並びは奇妙だが、データが変動する規則性には、言いようのない既視感を覚えた。だが、彼はそれ以上深くは考えなかった。今は世界観を研究している場合ではない。
彼が機器を観察していた、まさにその時。 人混みの片隅に、息を呑むような「鮮烈な緋色」が佇んでいるのに気づいた。
それは、彼が目覚めたばかりの時に微かにすれ違った、あの少女だった。 当時は大男の絡みを処理するのに必死で、脳の目眩も完全に回復していなかったため、「赤い影」としてしか記憶に残っていなかった。だが今、この圧迫感のある、灰暗い背景の中で、彼は初めて真の意味でその少女を視界に捉えた。
彼女の纏う緋色は、まるで燃え盛る烈火のごとく、周囲の鉄錆と灰黒の中で異常なほどに刺すような輝きを放っていた。 タイトな忍者装束は、彼女の玲瓏たる美しい曲線を余すところなく描き出し、かすかな呼吸のたびに、今にも爆発しそうな張力を孕んでいる。 その腰つきは細くもしなやかで、高く結ばれたポニーテールが動くたびに、英気と柔美さを周囲に振りまいた。 何よりも飛の目を釘付けにしたのは、彼女の清らかでありながら、焦燥に駆られた瞳だった。 その眼差しはこの汚れた鉄錆街には到底そぐわないほどに綺麗で、しかし侵しがたい野性と強情さを秘めている。
ドクン、と飛の心臓が激しく跳ねた。
長い間忘れていた、いや、味わったことのないような見知らぬ熱が胸の奥から耳の根元へと一気に駆け上がり、毎日コードとサーバーだけを相手にしてきたこの中年男性の喉を、妙にカラカラに乾かせ、掌に汗を握らせた。 彼は無意識に視線を逸らしたが、どうしても目端の余光で、その横顔を盗み見ずにはいられない。
(落ち着け……俺は一体どうしちまったんだ。ただの野次馬の通りすがりだろ……)
飛は心の中で念仏のように唱えたが、耳の根の火照りは強まる一方だった。 今、彼女は明らかに焦りを押し殺しながら、部屋の中を必死に覗き込んでいた。それは単なる野次馬の視線ではない。明らかな「大切な人への心配」の情が宿っていた。
その時、黒い制服を着て、重厚な金属製のバッジを胸につけた二人の警察官が、大股で中庭へと踏み込んできた。周囲の喧騒が一瞬で静まり返る。 先頭の警察官は陰険な顔つきをしており、その眼光はまるで鷹のように人混みをスキャンし、最後に酒場のバーテンダーの男に定格した。
「被害者と最後に会ったのは誰だ?」警察官がドスの効いた声で尋ねる。
バーテンダーは首を縮め、明らかに怯えていた。彼は左右を見回し、最後に震える指先をコーナーに立つ紅い衣の少女へ向けた。 「け、警察の旦那……あの女です。昨晩、店を閉めようとした時、あの女がマスターの部屋に入っていくのを見ました。マスターは偏屈な性格で、そんな時間に客を呼ぶなんて珍しかったから、よく覚えてるんです」
空気が一瞬で凍りついた。全員の視線が、一斉に少女へと集中する。 彼女の身体が微かに強張ったが、後退はしなかった。
一人の警察官が、証拠品袋に入ったガラスのコップを寝室から持ち出してきた。厳しい表情で、先頭の警察官に耳打ちする。 「コップから、被害者本人のものとは違う、別の新しい指紋が出ました。照合をかけましたが、バーテンダーや常連のものではありません」
先頭の警察官はそれを聞くと、ゆっくりと紅い衣の少女に向かって歩き出した。 その視線が彼女の肉体を品定めするように這い回り、公務的な冷酷さを含んだ声を発した。 「お嬢さん。昨晩、マスターの部屋へ何をしにいった?」
少女の顔が微かに青ざめたが、声だけは冷静さを保とうと張った。 「私は昨晩、村からの預かりもので、薬草を届けにきただけです。マスターは最近、酷い咳をしていたから……」
「それで?」警察官が追及する。
「マスターが辛そうにしていたので、手元にあったコップに水を一杯汲んで置いていきました。それからすぐに立ち去りました」
先頭の警察官は目を細め、二秒ほど沈黙した。不意に寝室の中へ入り、しばらくして戻ってきた。 彼は死体を見下ろした。死者の爪は、薄暗い灯火の下で、均一な青紫色に染まっていた。
彼は少女に向き直ると、その口調をさらに陰険なものへと変えた。 「薬草……水……あるいは爪の変色か。お嬢さん、これだけの条件が揃って、ただの偶然で済むと思うか? お前が持ってきたその薬草、本当は『毒薬』なんじゃないのか?」
周囲の野次馬たちが一斉にざわめき出し、疑念の波が水のように広がっていく。
少女は呆然とした。警察官の容赦ない詰問に、彼女は腰の短杖をきつく握り締め、激しく息を乱した。 「毒? そんなわけありません……私はただマスターの咳を治すために薬草を届けただけです! 私が来た時、マスターはまだピンピンしていて、帳簿をめくっていました!」
警察官は冷笑を漏らした。その視線は、少女の装束に包まれた引き締まった肉体の曲線の上をゆっくりと流れ、口元に卑俗な笑みを浮かべた。 彼はさらに一歩距離を詰め、声を潜めながらも、明らかな『意図』を含んだ言葉を吐き出した。 「問題があるかどうかは、お前が決めることじゃない。お前は今や動機のある重要参考人だ。――捜査の安全のため、まずは『身体検査』が必要だな」
警察官はそう言い放つと、連行して取り調べるという名目を盾に一歩一歩近づき、その頑丈な肩と胸を、故意に、そして高圧的に、少女の気高く突き出された胸元へと押し付けようとした。
「っ……!」
少女は息を呑み、激しい怒りと屈辱に目を燃え上がらせて一歩後退した。その汚らわしい手が触れようとした瞬間、彼女の手の中で短杖がかすかな摩擦音を立てた。 一撃でこの下劣な男を叩きのめしてやりたい。だが、彼女の理智が脳内で狂ったように警報を鳴らしていた。 (駄目よ、ここは鏡界の街。どんなに混沌としていても、警察は絶対的なルール。ここで公務員に手を上げれば、罪の有無に関わらず即座に弁護権を剥奪され、指名手配犯になる……。その代償は、村の試練を背負う私には大きすぎる!)
その卑劣な圧迫が、緋色の薄い布地に届こうとしたまさにその刹那。
力強く、分厚い活人の手が、男の胸と少女の身体の間に、毅然と割り込んだ。
飛はいつの間にか、二人の間に立っていた。 彼は背後の少女を振り返ることはせず、ただ重大なシステムのエラー(バグ)を発見したアーキテクトのような、極めて厳格で冷徹な眼差しで、眼の前の警察官を凝視した。
「警官。捜査は捜査だ。だが、その過剰な身体接触は、一線を越えているんじゃないか?」
飛の声は平穏で低かったが、そこには長年管理職として大局をコントロールしてきた者だけが持つ、絶対的な威厳が宿っていた。
警察官はその突然の圧倒的な威圧感に一瞬気圧され、目を細めて飛を睨みつけた。 「あぁん? なんだお前は。ボロスーツを着た**流れ者**が、警察の捜査に口を出そうってか?」
男は飛の冷徹な眼差しの奥にあるプレッシャーに、なぜか自分のすべてが見透かされているかのような悪寒を覚えた。まるで自分が今、システムの脆弱性を突いて不正を働いているところを、絶対的なデバッガーに冷たく見下ろされているかのような感覚。
飛は背後から、少女の微かに乱れた呼吸の気配を感じていた。
一瞬だけ、息を呑んだ。
だが、彼は決して振り返らず、ただ大きな山のように彼女の前に立ち塞がったまま、**妙な居心地の悪さを覚えつつも**、寝室の鍵がかかった窓と、固く閉ざされたドアへと視線を走らせた。
彼の頭脳の中では、すでにこの事件の初期のパラメータが弾き出されつつあった。 本当のデバッグ(捜査)は、ここから始まる。




