第21章:聖器
あの粗く、鼻を刺す黴の匂いを放つ黒布は、抗いようのない冷酷さで、舞の視界を完全に奪っていた。世界はこの一瞬、暗闇だけに圧縮された。暗闇は長く続き、時間の流れに対する感覚さえ、ほとんど麻痺に近い錯覚へと沈んでいった。
舞の両手は、粗悪な黒い束縛縄によって背中側で縛られていた。その縄の材質はひどく奇妙で、何らかの金属繊維が混ざっているようだった。きつく食い込み、歩かされるたびに、細い手首を容赦なく擦り、焼けるような、骨の奥を抉るような痛みを何度も走らせてくる。
だが、彼女は暴れなかった。指先の震えさえ、ほとんど完璧に抑え込んでいた。赤雀村の試練をくぐり抜けてきた准伝承者として、舞は誰よりも理解していた。完全に不利な状況で意味のない抵抗をしても、体力を浪費し、恐怖を晒すだけで、何の役にも立たない。
彼女はただわずかに頭を傾け、全神経を耳へと注ぎ、周囲の雑音を静かに、鋭く拾い集めていた。
金属階段を踏む足音が、未知の最深部へ向かって延びていく。
「ガン、ガン、ガン……」
鈍く空洞な反響が、狭苦しい空間の中で渦を巻いた。高度が下がるにつれ、周囲の空気は少しずつ冷たくなっていく。その冷たさは、自然の谷にある澄んだ冷気ではなかった。鼻を刺す、死んだような消毒液の匂いが混じっていた。
その匂いは舞をひどく不快にさせた。彼女の生存ロジックにおいて、鉄錆街は汚濁の匂いを持ち、赤雀村は薬草の清らかな香りを持っている。だが、目の前のこの匂いは、あまりにも清潔すぎた。人の気配が雑然と渦巻く鏡界にも、生命が足掻く廃土にも似ていない。汗の匂いも、古い機械油の粘つきも、廃墟の端にある、どこか馴染み深く安心できる湿った黴臭さもなかった。
過剰なまでの無菌と死寂。ここはまるで、「人」と「生命」の存在そのものを許さない、ルールの死角のようだった。
道中、彼女を護送している数名の掃除屋は、余計な音を一切立てなかった。成功後の罵声も、賞金についての会話もない。呼吸音さえ、意図的に周波数を落とされた機械モジュールのように薄かった。
あるのは、完全に揃った、ぎこちない足音だけだった。
舞は頭の中で、ルートとパラメータを静かに計算していた。下行、左折、異様に長い直線通路。歩みが深部へ向かうにつれて皮膚表面の湿度が微妙に変化していくことも、さらに奥のどこかから聞こえてくる、大型ファンの低く途切れないハミングも、彼女は鋭く感じ取っていた。
やがて、鈍い足音が止まった。
前方から、錆びついた重い機械部品が狂ったように擦れ合いながら回転する音が聞こえた。
「ギィ――ゴゴゴゴ――」
分厚い金属扉がゆっくりと左右へ開いていく。長年まともに潤滑されていないせいで、歯が浮くような鋭い軋みを引きずっていた。直後、先ほどより数倍も強烈で、低く密集したハミングが、実体を持った潮のように扉の向こうから一気に押し寄せた。舞の鼓膜がかすかに痺れ、胸腔の奥の心臓までもが微かに共鳴する。
「入れ」
貨物ヤードと旧倉庫街で聞いた、粗悪な変声器を通したあの声が再び響いた。粗いケーブルでねじ曲げられたような音。冷たく、ぼやけていて、生命の温度を一切持たない。男女の判別すらできなかった。
舞の背中が強く押された。力は大きく、彼女は少しよろめきながら前へ二歩ほど踏み出した。
まだ体勢を立て直す前に、目元を覆っていた黒布が、乱暴な手によって一気に剥ぎ取られた。
「シュッ!」
遮るもののない眩しい白光が、暴力的に瞳孔へ流れ込んだ。舞は無意識に両目を固く閉じ、生理的な涙が一瞬で滲み出た。彼女は冷たい空気を長く吸い込み、突然の明るさに視神経を強制的に適応させる。数秒後、ようやく震えながら、ゆっくりと目を開いた。
視界に飛び込んできた光景に、彼女の呼吸は思わず止まりかけた。
そこは、灰白色の無塗装の冷間圧延金属だけで構成された、完全に閉鎖された部屋だった。巨大で、空虚だった。頭上の冷白い灯りは刺すように明るく、部屋の隅々から人間味を一片残らず剥ぎ取っていた。四方には窓がなく、冷気があらゆる隙間から染み出し、ここを巨大な地下冷庫のように凍らせている。
部屋の奥では、数台の巨大な黒い未知の装置が影の中に静かに立ち、低く規則的な機械音を発していた。太く透明な特製パイプがそれらの機械を繋ぎ、内部には幽藍色の奇妙な光が細く流れている。半透明の浮遊スクリーンには、無数のデータと幾何学的な波形が目まぐるしく明滅し、高速で跳ね続けていた。
低いハミングは密閉された金属壁の間を何度も反射し、まるで眠りについている巨大な古代の獣が、均一で冷酷な呼吸を続けているかのように聞こえた。
舞が首を巡らせ、さらに詳しく周囲を観察しようとした瞬間だった。
「大人しくしろ!」
背後の二名の掃除屋が、稲妻のように距離を詰めた。冷たく、分厚いタコに覆われた二対の手が、彼女の肩を強く押さえ込む。同時に、冷たい金属支架が正確に彼女の背中へ押し当てられた。一人が乱暴に彼女の手首を引き寄せ、背中側で縛られていた縄を、力を入れにくい屈辱的な姿勢のまま、支架の両側へ何重にも固定していく。縄は一瞬で限界まで張り詰めた。
舞の身体は強制的に後方へ反らされ、胸が激しく上下した。彼女は歯を食いしばり、腹部に力を込めた。白い肌は縄との激しい摩擦によって、病的な赤みを帯びる。無意識に一度だけ全身の力で抗い、爆発的な発力で束縛を断ち切ろうとした。
しかし、失望だけが返ってきた。その黒い束縛縄は異様なほど強靭で、粘つくような伸縮性すら持っていた。彼女の力は接触した瞬間に分散され、吸収され、完全に殺されてしまう。この冷たい金属の牢獄では、純粋な蛮力はあまりにも無力だった。
そして彼女の正面、約三メートル先に、彼女を深淵へ引きずり込んだ影が静かに立っていた。
黒笠。
あいつは相変わらず、体の輪郭が一切読み取れない大きな破れた黒い長袍を纏っていた。裾は冷気に煽られてかすかに巻き上がっている。巨大な黒笠は深く下ろされ、顔の大部分を濃密な影へ沈めていた。ただ襟元のあたりに、冷たい光を反射する漆黒の工業用呼吸マスクだけが見える。
「スー――」 「スー――」
低く、かすれた、金属の震えを帯びた換気音が、死寂の部屋にゆっくりと反響した。毒蛇が舌を出す音のようだった。
だが、今の舞に恐怖へ意識を割く余裕はなかった。血走り、怒りと絶望を宿した澄んだ瞳は、相手の右手に釘付けになっていた。
正確には、その手に握られている短杖に。
全長およそ五十センチ。両端に淡い金色の円環を持ち、彼女と数えきれないほどの過酷な日々を共にしてきた短杖。舞の瞳孔は針の先ほどに収縮し、押さえ込めない名もなき怒火が胸の中で一気に炸裂した。
「あなた、一体何者なの!?」
彼女は黒笠を睨みつけた。極度の怒りと掠れのせいで、声はわずかに鋭くなり、冷たい壁にいくつもの硬い反響をぶつけた。
黒笠は何も答えなかった。身体は微かにも揺れない。
ただ、ゆっくりと、極めて緩慢に頭を下げ、冷たい黒紗と漆黒のマスク越しに、手中の短杖へ視線を落とした。
部屋の空気は、その一瞬で異様なほど重くなった。高空の気圧が突然落ちたかのように、息をすることすら難しい圧迫感が満ちる。
舞のまぶたが狂ったように跳ねた。獣の本能に近い危険の予感が、彼女の脳内で激しく警報を鳴らした。
次の瞬間。
黒笠は、黒い革手袋をはめたもう一方の左手をゆっくりと持ち上げた。二本の指が、短杖中央にある透明なカバーへそっと触れる。
舞の瞳孔は、一瞬で焦点を失った。
それまでまっすぐで硬く、廃土で何度も彼女の身を守ってきた暗銀色の短杖が、今、熱で柔らかくなった蝋燭のように、物理常識を冒涜する不気味な角度で、ゆっくりと内側へ曲がり始めたのだ。
それは黒笠が暴力で折り曲げているのではなかった。無数の紀元を眠っていた古い生命が、宿命の匂いを嗅ぎ取り、少しずつ目覚めていくようだった。
「ブゥゥゥン――」
短杖内部の、飛の消失以降すっかり沈黙し、均一に流れていた淡いブルーの液体が、突然激しく震え始めた。滑らかで鈍い銀色だった杖身の表面に、何の前触れもなく、蜘蛛の巣のように複雑な紋様が浮かび上がる。それらはすぐに、妖しく刺すような暗紅色の光を放ち始めた。
血のような赤い光が、複雑なトポロジーの紋様に沿ってゆっくりと流れ、広がっていく。再起動された神経のように。
暗紅色の覚醒に合わせて、金属部屋全体の低周波の振動が強くなっていった。周囲の灰白色の壁まで微かに共鳴を始める。頭上の刺すように白い蛍光灯さえ、磁場の干渉を受けたかのように、眩暈を誘う頻度で小さく明滅し始めた。
「あなた……それに何をしたの!?」
いつも氷のように冷静だった舞の顔から、初めて完全に血の気と余裕が失われた。
この短杖は村長が直々に彼女へ渡したものだった。赤雀村の古い伝承では、村に遺された、冒涜を許されない聖器とされている。彼女はそれを守り、体温で養い、十数年を共に過ごしてきた。
だが、こんな、生き物のような姿になるなど、見たことも、想像したこともなかった。
暗紅色の光に照らされ、黒笠がようやく口を開いた。粗悪な変声器を通した声は相変わらず感情の起伏を持たないほど冷たかったが、全身を冷やすような嘲りを帯びていた。
「それをこれほど長く守っていながら、お前は一度も、それが本当は何なのか知らなかった」
「聖器よ……村に伝わる聖器に決まっている!」
舞は奥歯を噛み締め、爪を掌へ深く食い込ませながら、乾ききった喉の奥から頑固で力のない低い声を絞り出した。
「聖器……」
黒笠は低く掠れた声で、その二文字を繰り返した。無知な凡人を嘲笑うような響きだった。
直後、あいつは一歩を踏み出した。黒い長袍が空気の中に重い影を引く。そして暗紅色の神経紋に完全に覆われた短杖は、距離が縮まったことに反応するかのように、再び低く暴烈な震動音を放った。
「ブゥン――!!」
次の瞬間、舞が恐怖に目を見開く中、曲がった短杖の中央に、何の前触れもなく極細の裂け目がいくつも走った。
「カチ、カチ、カチ……」
精密な金属鱗片状の構造が、まるで生きた甲虫の羽のように、ぞっとする律動を伴って一列に開いていく。その奥から、すでに沸騰しきった、眩く刺すような光が露出した。
舞の顔色は、その一万分の一秒で完全に変わった。未知に対する、かつて経験したことのない巨大な恐怖が、一瞬で理性を呑み込んだ。
「あなた――! 離れて! 私に触らないで!!」
彼女はなりふり構わず暴れ始めた。身体は金属支架の上で激しく捻じれ、手首の束縛縄は過剰な力で肉へ深く食い込み、いくつもの赤い血斑を滲ませた。
しかし黒笠は、感情を持たない鉄の彫像のように、彼女の怒号も抵抗も視界に入れていなかった。すでに舞の目の前まで歩み寄り、黒い手袋をはめた手で、その短杖をゆっくりと、冷酷に、無防備な後腰へ近づけていく。
「触らないで――! 放して――!!」
舞の唇は激しく震え、眼窩は一瞬で赤く染まった。彼女は初めて、本当の意味で無力で、絶望的な慌乱を露わにした。
だが、すでに遅すぎた。
妖しい血光を明滅させる短杖が、彼女の後腰の皮膚へ完全に触れた瞬間。
「ドン――!!」
言葉では形容できない、極低周波の狂暴な振動が、尾椎骨を伝って、一万分の一秒のうちに轟然と炸裂した。
舞の小柄な身体は刹那にまっすぐ強張り、金属支架の上で硬直した。十本の指が虚空を必死に掻きむしる。今この瞬間、短杖は生きた寄生体に変わったかのようだった。肉体に触れた途端、冷たく鋭い感触を伴って、彼女の後腰の脊椎骨へ、固く、深く吸着した。
「ジジ、ジジ、ジジ……」
暗紅色の血管状の紋様が、肉眼で追えるほどの恐ろしい速度で、後腰の皮膚に沿って上へ広がっていく。
それらは生命を持っているかのように、彼女の皮膚の下を素早く走り、拡散し、まっすぐな脊椎に沿って上昇し、最後には首筋と後頭部へ絡みついた。
「う……ぁ、あ……」
舞の呼吸は一瞬で完全に乱れた。それは単なる切り裂かれる痛みでも、焼かれる痛みでもなかった。もっと深い、魂そのものまで震わせるような恐怖の触感だった。彼女は自分の神経系が、巨大で冷酷な、人間に属さない未知の意志によって、強引に裂き開かれ、覚醒させられているように感じた。
それが痛みなのか、自分のものではない神経信号なのかさえ、判別できなくなっていく。
「う……ぅ……」
彼女の身体は、支架の上で制御不能に小さく震え始めた。いつも冷静で鋭かった澄んだ眼差しには、激しい衝撃によって初めて、大きく広がる混乱と散漫さが浮かんだ。
後腰から響く低周波の振動音はますます大きくなっていく。その周波数はあまりにも奇妙だった。舞は苦しげに首を反らせ、汗と涙が滑らかな額と頬を伝ってゆっくり落ちた。混濁する意識の中で、彼女は極めて荒唐無稽で、極度に恐ろしい感覚に襲われていた。
自分の心拍、血流速度、さらには一つひとつの細胞の震動周波数までもが、この冷たい機械の共鳴の中で、少しずつ、あの「聖器」と強制的に同期させられていく。
舞は惨白な下唇を強く噛み締めた。
黒笠はただ静かに傍らに立っていた。呼吸マスクの向こうには、低く規則的で、どこか麻痺した換気音だけがあり、すべてを冷淡に見下ろしている。
同時に、灰白色の金属部屋の奥で。
それまで安定して稼働し、幽藍色のデータを明滅させていた巨大な黒い装置群が、理解不能な巨大エネルギーの暴力的な衝撃を受けたかのように、狂ったように明滅し始めた。
「ピーッ! ピーッ! ピーッ!」
冷たいブルーだった半透明スクリーンは、一瞬ですべて刺すような不吉な血紅色へ変わった。凄まじく鋭い最高レベルの警告音が、この閉ざされた空間で狂ったように炸裂し、鼓膜を痛めつける。
部屋中の空気が、この瞬間、何らかの未知の律動に従って、高周波で激しく震え始めた。
「あああ――!!」
舞の身体から、凄惨な悲鳴が爆発した。全身が支架の上で激しく一度震える。
なぜならこの一秒、ぼやけていき、完全な暗闇へ沈みかける意識の果てで、彼女はあまりにも鮮明に感じ取ってしまったからだ。
遥か遠い未知の次元で。
想像もできないほど巨大な何かが。
果てしない虚無を越え、覚醒したこの「聖器」に、狂ったように応答している。
その応答はこの部屋から来たものではない。周囲の錆びついた装置からでも、この冷たい地下冷庫からでもない。
もっと遠く、もっと深い、普通の人間では触れることすらできない別次元の彼岸からだった。
次の瞬間。
灰白色の金属部屋の中央の虚空が、何の前触れもなく、激しく歪み、折り畳まれ始めた。
まっすぐだった冷白い蛍光灯の光は、その領域を通過する際、肉眼でも分かるほど不気味に折れ曲がり、砕けていく。
「ゴゴゴゴ――!!」
人間の聴覚限界を超え、世界の論理の外殻そのものを強引に粉砕するような耳障りな爆鳴が、閉ざされた部屋の中で轟然と炸裂した。
桶ほどの太さを持つ、破滅的な気配を放つ暗紅色の電弧が、虚空で次々に爆ぜる。密集した火花をまとったそれらは、目覚めた雷の狂蛇のように、周囲の空気を狂ったように引き裂き、呑み込んでいった。
狂暴で灼熱の気流が円環状に外へ荒れ狂い、瞬時に実験室全体を席巻した。重い鉄架や装置の外殻は風の中で倒れ、激しい金属音を立てる。硬い灰白色の金属床には、この虚空から現れた力によって、幅数寸ほどの、焦げて赤く焼けた恐ろしい痕が抉り出された。
舞は刺すような暴風に耐えながら、涙で滲んだ瞳を大きく見開いた。
部屋の中央で狂ったように炸裂し、跳ね続ける暗紅色の電弧の核。
そこに、本来なら存在しないはずの、ぼやけて歪んだ人影があった。ピクセル状に砕ける光点と雪花ノイズをまといながら、その影は一万分の一秒のうちに、常識を超えた速度で、虚無から実体へと変換されていく。
空間は絶望の悲鳴を上げ、空気は狂ったように震えていた。
次の瞬間。
刺すような電弧が一気に収縮し、湮滅した。人影はついに、重く、完全に両足で着地した。
「フウ――!!」
少し皺が寄っているのに、この場所とはあまりにも不釣り合いなほど清潔な濃い色の長袖運動服が、余波の残る暴風の中で激しくはためいた。男は頭を低く垂れ、大きく荒い呼吸を繰り返していた。
飛。
この世界へ、再び戻ってきた。




