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第12章:帰還の刹那

短杖がマイの手中に落ちたその瞬間、周囲の空気は何らかの無形の偉力によってグニャリと捻じ曲げられた。


刺すような光芒もなければ、地を揺るがすような爆音もない。 あるのは、ただ深海の底のような極度に変調した静寂だけだった。まるでこの空間に存在するすべての気圧が、全く同じ一秒の断点において、一つの中心へと向かって狂暴に崩壊していくかのような感覚。 安定していた光線は無秩序な断片となって砕け散り、その壊れた光影のレイヤーの中で、舞は自分の感応(知覚)が世界から一寸ずつ剥がれていくのを感じていた。


舞の手指がまだグリップを握り締めきる前、彼女の身体は依然として後方への失重のまま、床へと墜ちていく途中だった。 彼女は本能的に重心をリセットしようとしたが、足元のリズムはすでに完全に破壊されていた。 床が激しく揺れ、視界のすべてが回転する。彼女はまるで、暴風の中で今にも引き裂かれようとしている一枚の枯葉のようだった。


――まさに、その一瞬の断点だった。


彼女の背後の空間に、一条の影が剥離するように現れた。 近づいてきたのではない、そこに唐突に「出現」したのだ。


フェイの視野は、その出現の万分の一秒において、再び残酷なまでのスローモーションへと引き延ばされた。 すべての事象が静止へと向かい、音声は細い糸のようになって虚空へ引き伸ばされ、舞の吹き飛ばされた髪の毛の一筋一筋さえも、空気の中でゆっくりと展開していくのが見えた。


だが今回の遷移は、過去のどの瞬間とも決定的に異なっていた。 彼の身体には、強烈な錯位の遅延タイムラグが残っていたのだ。まるで別の世界から無理やり肉体をパッチワークされたかのように、全体のアライメント(整合)がまだ完全に噛み合っていない。足元にかかる荷重のパラメータは一拍ぶん軽く、全体の重心がわずかに斜めへと偏向していた。


――あと、ほんの数ミリメートル。


彼は、舞が後方へ倒れ込んでいく軌道を視界に捉えていた。


その瞬間、脳内のすべての雑念が、冷酷なプログラムによって一瞬で消去された。 理性よりも早く、恐怖よりも早く、彼の肉体が先んじて稼働した。


彼は一歩を踏み出した。そのステップは泥を弾き、強烈な風の渦を巻き起こした。彼は手を伸ばす。その掌が空中できれいな弧線を描いて突進していく。


その極めて短い錯位のタイムラグの中で、彼の腕の筋肉は拒絶の悲鳴を上げて激しく震えたが、彼は電光石火の刹那にその軌道を力任せに修正し、わずか一寸のブレをも許さずに、舞の今にも崩れ落ちようとしていた背中の中心を、真っ直ぐに、そして強固に受け止めた。


力加減は完璧だった。重すぎず、軽すぎず、まるで長年計算され尽くした構造補強のように的確だった。


舞の身体はしっかりとホールドされ、それ以上無様に床へ激突することはなかった。


――そして、まさにその刹那、世界を止めていた目に見えないスイッチが、再び暴力的に押し下げられた。


空気が戻り、音声が戻ってきた。 木製家具の破裂音、刺客たちの荒い呼吸、そしてあの凛冽な刃の風の音が、一瞬にしてこの狭い空間へと回流してきた。


飛は彼女の背後に立ち、先ほどの劇的な発力の代償として、その上半身を大きく前傾させ、激しく乱れた呼吸を繰り返していた。 胸腔の中で心臓が爆音を立てて暴れ狂っている。それは一度死にかけた肉体が、極度の酸欠状態において発した、生存のための哀鳴そのものだった。彼は、舞の決して厚くない華奢な背中が、自分の掌にぴったりと密着しているのを感じていた。その生々しい生身の人間の熱量は、この一瞬、彼の胸の奥に熱い塊を突き上げさせた。


舞はホールドされた姿勢のまま、まだ世界が正常に戻ったことを脳が処理しきれていないようだった。 彼女はただ本能的に、飛のスーツの衣襟をきつく握り締めていた。その指先には凄まじい力が込められ、関節が白くなるほどに、彼のあのボロボロのダークブルーの布地を強く、強くつむいでいた。


彼女はゆっくりと、こうべを持ち上げた。


彼女の瞳の中に、フェイの憔悴しきった顔が映り込んでいく。その眼差しの中には、あまりにも多くの、複雑なパラメータが明滅していた――最初の一瞬は真っ白な空白、まるで先ほどの消失の絶望からまだ心が帰還していないかのように。続いて、焦点がゆっくりと結ばれ、そこへじわじわと不安の色が混ざり合い、最終的には、**強い安堵の眼差しへと固定された。**


――本当に、彼だ。


その瞬間の感情の奔流は、あまりにも巨大だった。単なる驚きでもなければ、単なる安心でもない。それは、永遠に失われたと思っていた**確かな繋がり**が、再び力任せに自分の世界へと打ち込まれたことによる、激しい精神の震えだった。さっきの一秒間、彼女はすでに「あいつはもう二度と戻らない」という最悪の仕様を受け入れかけていたのだ。それなのに、彼は今、ここにいる。リアルすぎて、かえって触れるのが怖いほどの存在感を持って。


「……戻って、くれたのね」


彼女の声は極めて軽かった。まるで少しでも声を張れば、この目の前の蜃気楼が一瞬で霧散してしまうのを恐れているかのように。その震える尾音の奥には、彼女自身すら自覚していない、**かすかな震え**が滲んでいた。


だが飛には、その言葉にまともに答えている時間など一瞬も残されていなかった。次の**敵の攻撃**の刃が、すでに彼らの喉元へと肉薄していたからだ。


彼は振り返ることなく、身体をわずかに側面にスライドさせた。一記の拳が彼の肩をかすめて虚空へと突き抜けていく。引き延ばされた遅延の世界の中で、その軌道は最初から描かれていた線のようだった。彼は手を持ち上げ、指先を相手の手首の内側のノード(腱)へと、ぽんと押し当てた。力を込めたわけではない、ただポジショニングが完璧だった。刺客の腕の発力構造はその一打で完全に瓦解し、男は重心を失って無様によろよろと後退した。


飛はその隙に、舞を自分の安全な死角へと引き込み、声を低く落とした。「スタンドできるか?」


舞はすでに戦士の意識を完全にリセットしていた。呼吸はまだ乱れていたが、その瞳の光は完全にブレないものへと戻っていた。「平気よ」彼女は一言、短く頷いた。


次の瞬間、彼女はすでにステップを踏み出して前方へと突進していた。今度は、一ミリメートルの迷いもなかった。彼女のフレームレートが完全に出力を取り戻し、氷の上を蹴って跳ね上がると、その反撃の切れ味は流れる水のようだった。さっきの分神によるエラー(失策)を、この一瞬ですべて回収するかのように。


二人のリズムは、一切の音声のコミュニケーションなしに、完璧に同調リンクした。


飛は余計な指示を出す必要はなかった。彼が敵の攻撃の不可避の軌道を見つけ、そこをわずかに回避して隙を作れば、彼女の短杖が寸分の狂いもなくその空白を埋めて粉砕する。掃除屋クリーパーたちの動作は依然として迅速だった分、飛の遅延世界の前には、すべての破綻が拡大されて晒されていた。彼は決して正面から硬接せず、ただ「わずかに避ける」、そして「軽く触れる」だけ。それだけで、敵の連携プログラムは一寸ずつバラバラに解体されていった。対する舞の打撃は、ますます直接的で、容赦のないものへと研ぎ澄まされていった。


数度の交差の後、暗殺者たちは明らかに組織的なパフォーマンスを維持できなくなっていた。


その時、彼らの攻勢が突如として一瞬だけ停止した。技を遮断されたのではない。まるで何者かのコマンドによって、全員が全く同じ瞬間に撤退のジャッジを下したかのように。次の瞬間、残された者たちは一斉に後方へと跳んで距離を離した。その統率の取れた動作は、およそ臨時の判断とは思えないほど鮮やかだった。


入り口の近くに佇んでいた、あの最初から動くことのなかった一人の黒いシルエットも、同じ瞬間にその姿を消していた。


隠れ家の小部屋の中に、再び静寂が戻ってきた。残されたのは、ひっくり返った木製のテーブルと椅子、そしてまだ完全に空気中から消え去っていない、冷たい**硝煙**の匂いだけだった。


飛は追撃を選ばなかった。彼は何よりも先に、自分の目の前の舞へと視線を落とし、その声に隠せない焦燥を滲ませた。「どこかやられたか?」


その声に含まれた本気の心配の熱量は、決して大人の社交辞令などではなく、彼の胸の奥から文字通り溢れ出てきた、剥き出しの温度だった。


舞はまだ、先ほどの超高強度の激戦の残効から完全に身体を復帰させられていなかった。彼女はその場に立ち尽くし、激しい呼吸を繰り返す。汗が彼女の額から滑り落ち、あの濃い色の装束の襟元をじんわりと濡らしていた。彼女は無意識に自分の左の側腹部を手で押さえ、眉をわずかにひそめたが、大げさに痛みを訴えることはしなかった。


「ここが……少しズキズキするけれど、大したことないわ」


その口調は、やはりどこまでも廃土の住人らしく淡々としていた。彼女のこれまでの生涯において、この程度の打撲など、「負傷」というカテゴリの敷居を跨ぐことすらできない些細なパラメータに過ぎないのだ。


飛は眉をきつくひそめた。彼は彼女のその「気に留めない態度」を完全に無視し、手を伸ばして、彼女の側腹部から数センチメートルの距離でピタリと静止した。 ――そこでハッと気づいたのだ。そこが若い女性の身体において、極めてデリケートで不可侵の領域であることに。彼の手指は宙に浮いたまま、まるでロックされたプログラムのようにガチガチに硬直してしまい、どうしても直接触れる勇気が出なかった。


「……動くな」


彼は声を低く落とした。その眼差しは真剣そのものであり、まるで精密なサーバーのメンテナンスを行っているチーフエンジニアのようだった。


舞は呆気にとられたように、その彼の強張った顔を見つめていた。彼女の身体もわずかに硬直したが、無意識に回避しようとしていたステップは、その場でピタリと止まった。彼女は飛のその瞳を見つめた。そこには下劣な下心など微塵も存在せず、ただ一人の同伴者を本気で案じるがゆえの、極めて実直な、そして不器用な焦燥だけが満ちていた。


飛の手が、最終的にゆっくりと下ろされた。彼の力加減は極めて克制されたものであり、その装束の布地越しに、周囲の筋肉組織をそっと、本当に軽く確かめるように按じた。


「っ……、痛いってば、もっと優しくしてよ」舞は思わず冷たい空気を吸い込み、小さくブツブツと文句を言った。


飛は彼女の小言に耳を貸さず、全神経をその筋肉の弾性のフィードバックへと集中させていた。彼は角度を変え、一寸ずつ、極めて慎重に触診を繰り返した。


やがて、彼は手を離した。


「骨には異常ない」彼は低く言い、まるで最も重要なアセット(資産)の安全を確認したかのように、ようやく胸をなでおろした。「内臓へのダメージもない、ただの筋肉の挫傷だ。数日もすれば完全に元に戻る」


彼は上体を起こし、長くて重い溜め息を深く吐き出した。


舞は彼を見つめていた。その視線は、まるで何らかの不可視のピンでそこに釘付けにされたかのように動かなかった。彼女はこの男を見つめ、その額に浮かんだ細かな汗を見つめ、その憔悴していながらもどこまでもブレない大人の男の顔を見つめていた。胸の奥の、あの名前のつかないパラメータが、急速にその出力を上げているのが分かった。


さっきの激戦の最中、彼女は考える余裕すらなかった――なぜこの男が、自分の命すら危ういというのに、これほどまでに必死に自分を庇おうとしたのか。


彼が目の前で完全に消滅したあの瞬間、彼女は考える余裕すらなかった――この男が一体どこの誰で、なぜこの鉄錆街にこれほど不条理な嵐を巻き起こしたのか。


そして今、この自分の前でオロオロと、しかし必死に怪我を心配している彼の冴えない姿を見て、彼女の脳内は、ついに一つの決定的なエラー(真実)を検出したようだった。


二人の間の物理的な距離は、依然として少し不自然なほどに近かった。


先ほどの高強度の共闘は、彼らの肉体を本能的に密着させていた。その残熱はまだ空気中に漂っており、互いの呼吸のテンポさえもがはっきりと鼓膜に届くほどだった。


空気の中にはまだ**硝煙**の焦げ臭さが残っており、そして、言いようのない、胸が締め付けられるような静けさが満ちていた。


舞は彼を見つめ、その瞳の光が、ゆっくりと、ゆっくりと固定された。何かを深く確かめるように。


「あなた、さっき……」彼女は口を開いた。声はいつもより明らかに低く、かすかな探求の色を帯びていた。「一体、どこへ行っていたの?」


飛の身体が、微かに止まった。


彼は身を巡らせ、テーブルの近くへと歩み寄り、ひっくり返っていたあの木製の椅子を元に戻そうとした。 だが、彼は椅子を半分持ち上げたところで、再び動きを止めた。


飛は一呼吸置いた。彼はすぐに答えをジェネレートせず、どう説明すべきか言葉をサーチしているようだった。「戻っていたんだ」彼は言った。口調は極めてシンプルだった。


舞はわずかに呆気にとられた。「戻って……た?」


飛は頷いた。**考え込むように眉をひそめ**、声のボリュームをさらに低く落とす。「俺のいた、元の世界へな」彼はそれだけを短く陳述したが、その「シンプルさ」こそが、かえってこの事件の不条理さを際立たせていた。


舞は二秒間、じっと彼を見つめ、眉を少しずつ中央へ寄せていった。彼女は唇を動かしたが、何から問い詰めるべきか完全に迷子になっているようだった。さっきの瞬間、彼女は確かに目撃したのだ。この男が自分の目の前で、何の一触も残さず、ただ虚空へと消滅していく姿を。システムから直接消去されたかのように。そして今、彼は再びここに立っている。


「あなた……」彼女は言葉を一度切った。「本当に、あっちの世界へ帰っていたの?」


飛はただ「あぁ」とだけ応じた。彼はいくつかの向こうの世界の日常の景色を短く言葉にした。まるですべてがいつも通り正常であるかのように。だが、それがかえって異質だった。


正常であればあるほど、この錯位は恐ろしい。


舞は静かに聞いていた。言葉を挟むことはしなかった。彼女の表情は困惑から、やがてより繊細な、静かな色へと一歩ずつシフトしていった。それは理解したからではない。むしろ、この事態が、先ほどの掃除屋たちとの命の削り合いなどよりも、はるかに根深い「世界のバグ」であることに気づき始めたからだ。


彼女はうつむき、手の中のあの暗銀色の短杖を見つめた。さっき、あのグリップを強く握り締めたまさにその瞬間――飛が、この世界へと強制リロードされたのだ。


これは、何らかの不可視の契約プロトコルなのだろうか? それとも、彼をこの世界に繋ぎ止めるための絶対的なアンカー(錨)なのだろうか? あるいは、この短杖そのものが、あっちの世界とここを繋ぐ唯一のアクセスキー(鍵)なのか?


飛もまた、彼女の視線を追って短杖へと目を向けた。そのオブジェクトは今、何の発力も見せず、まるでどこにでもあるただの冷たい死物としてそこに転がっている。だが、さっきのあの肉体が離散していく戦慄は、まだ彼の全神経にリアルに残っていた。まるで何者かに「引き抜かれ」、そして何者かに「受け止められた」かのような。


彼は手を伸ばし、空中で止めた。触れはしなかった。「さっきの現象……」彼は声を潜めた。「やっぱり、これが原因なのか?」


舞はすぐには答えなかった。彼女はただ短杖を見つめ、その眉を実務的にひそめ、さっきのあの引き絞られるような瞬間の感触を脳内でリプレイしていた。「私はただ……これをきつく握り締めただけよ」彼女はゆっくりと言った。「そしたら、あなたが戻ってきた」


その口調には確信がなかった。説明しているというよりは、ただ自分でも処理しきれていないログをそのまま復述しているかのようだった。


周囲の空気が、完全に静止した。


隠れ家の中に、再びあの張り詰めた死寂が戻ってきた。


残されたのは、倒れたままの木製の椅子と、そして二人の間に静かに横たわる、何の発光も温かみも見せないあの冷たい短杖だけだった。


飛はそのオブジェクトを見つめ、その瞳の奥に、前代未聞の深い迷妄を過らせた。


二人の間で、それ以上の言葉はジェネレートされなかった。 答えはすぐ目の前のレイヤーにあるように見えて、しかし全体の協調性は、あと一歩のところで宙に浮いたまま。


飛の手はまだ空中に浮いたままだった。短杖の実体まで、あとわずか一指の距離。彼はそれを見つめ、しかし、二度と触れようとはしなかった。


空気は静かに淀み、部屋の中には、ただひっくり返ったままの家具と、そして二人の間に横たわる、物言わぬ冷たい聖器アーティファクトだけが残されていた。

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