主人公は誰のもの
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常に自分は矛盾と共存している。わざわざ意識するまでもないことだが、表面上自分を繕うものと、心の奥底に沈む自我は、いつだって反対方向を向いている。恐らく双方が重なり合うことはないだろうし、お互いの存在を見て見ぬふりといったところが妥当だろうか。
俺――西崎圭には、前世の記憶がある。前世とはいえ具体的に何処の誰かというのがわかれば信憑性もあるものの、話はそう単純ではない。心象を通して伝わるイメージが記憶の全てであり、俺は俺でない人間の夢を見ているに過ぎない。そう、最初はただの夢だった。潜在意識の上映するフィルム。だけれど俺はいつしか観客ではなくなっていた。だからといって、夢のキャストになれたわけでもない。役名は与えられず、俺は、俺の存在しない世界で俺でない誰かの目を通して生を全うする。しかし生を全うするのは俺自身ではないのだ。
このような夢を幾度となく見ていると、段々に自分の存在意義が薄れてくるものだ。だから俺は常に女と付き合うことにした。友達付き合いでも一向に構わないのだが、俺の周りでは誰一人として長続きはしない。掴みどころのない奴として、避けられることもなければ触れられることもない。当たり障りのないといえば聞こえがいいのかもしれないが、端的に言えば無関心というものだ。勿論女だってそう長くは続かない。何しろ俺は恋に酔いしれたいわけではなく、俺という人間を誰かに解析してもらいたい。ただそれだけなのだ。
正直なところ、この曖昧な記憶群を前世のそれと決めてしまっていいものかどうかは定かではない。ただ、繰り返すのだ。同じ場所でも同じ時間でもないはずなのに、俺は「俺でない誰か」を認識し、そいつはすぐに死んでしまう。生まれてから死ぬまでを共有しているわけではないため、すぐにというのはいささか安直かもしれない。若くして死ぬ、というべきだろうか。死に様は様々だが、どの生も俺には区別がつかない。かろうじて前世の記憶にのまれることなく俺が踏みとどまっていられるのは、俺でない誰かと俺自身とを区別できているからだ。俺は、この感覚を失ったときが死ぬときなのだろうということを薄々感じている。
夢とはいっても、前世のフラッシュバックは何も眠っている時だけにとどまらない。ふとしたときに、思いがけず既視感に襲われることも少なくなく、この頃特に顕著なのがあの女に言った台詞だ。無性に口ずさみたくなるその台詞は気が付けば日常に溶け込んでいて、俺は時折空を眺めて呟いてみる。何故その台詞なのかは俺にはわからないし、意味すらわかっていないのが現状だ。昼の空は黒く、夜の空は青い。さながら外国語の直訳のようで、他にもっと言いようがあるのではないかと思うほどだが、言っているうちに真実になりはしないか――そんな遊び心もほんのわずかだが持ち合わせている。
俺は知りたい。純粋に知りたい。俺が何者であるか、俺という人間に名前があるのは何故か、どうして夢の中では俺が俺として存在する世界が一切現れないのか。あの女、星城澪は言った。生まれ変わるための決断として、前世の記憶は忘れられるのではないか、と。その言い分が真っ当とされるならば、俺は生まれ変わり損なった人間ということになる。例えば俺はこんな仮定を考えてみるわけだ。もし一人一人が生まれ変わることなく、時期こそ違えど同じ人間が生死を繰り返すだけの世であったら。環境が変わる限りエピジェネティクスを考慮せざるを得ない。細胞に宿る記憶は随時更新され、過去の人間を形作るものは生まれて当初にはあったとしても消えゆくのが自然な定めだ。やはり同じ人間が来世に引き継がれるというのは難しい話なのだ。それならば。俺は一体何に引きずられているというのだろう。深淵とまではいかずとも、暗い淵を覗き込むことになりそうな気がして、俺は隣に腰掛けてくる孤独に身を任せるほかない。




