存在のない場所④
きっかけというのは実に些細なことだ。思いもよらない未来を夢見て、今ある現実にそれらしい意味をつける。所詮この世は不条理なのが常じゃないかと祐は薄く笑う。星城澪というのは、恐らく話し出したら周りが見えなくなるのだろう、此方の態度など気にもかけずに推論を一方的に流し込んでくるばかりだ。勿論それを拒絶するのは「得策」ではないし、下手な態度をとって悪評がたってはかなわないと考えた彼は、今の今は何も考えずに表面上の同意を返事に代えることを決めた。さて今日はどんな「用事」を作ってこの場から離れようかと、そんなことも同時に考えていた。
「私、ずっと話してみたいと思っていたんです。篠原さんの、あの小説の主人公と。勿論創作の中のキャラクターだから、現実的にはあり得ないことはわかっているんです。でも、少しでも彼に近づけるんじゃないかって」
「いっそ澪ちゃんはその西久保くんとやらと付き合うといいじゃないか」
「西崎、です! もう……自分には関係ないと思って早く話を終わらせようとしてるでしょう、篠崎さん」
篠原だよ、と形ばかりの愛想笑いを浮かべて篠原祐は店の時計に目を向ける。時の流れが一方向なのは常識とはいえ、砂時計のようにさらさらと揺すっているうちに、戻りたい時刻へ帰れたらいいのにと呑気な願望が頭をよぎった。澪の話ついでに久々に思い出すことになった、灯台で出会った少年が脳裏で微笑する。もしかすると彼も似たような思いから「戻れなくなる」というようなことを言ったのではないだろうかと、即座に少年の残像を打ち消して祐は現実の空間を見つめた。
祐が少年の名前を聞かなかったのは、実は意図的になされたことであった。元々彼が人の名前を覚えるのが苦手であったというのも多少寄与はするのだが、それ以前に、少年を一目見たときに祐はかつてない衝動に突き動かされた。その衝動には、名前があってはいけなかった。自分だけが知る、そうして周りの誰一人として知ることのない快感――それに名前を付けるようなことはしたくないと考えたのだった。したがって少年には名前があってはいけないし、少年の語った話の一言一句を覚えるわけにもいかなかった。意識的に忘却し、もはや少年の面影も失せつつあるかという段階で、初めて祐は「小説の主人公」という役職を少年に与えた。そうして出来上がったのが主人公なのである。彼を小説の中で動かすためには名を付けることを余儀なくされたものの、祐にとって彼はときに思念であり、記憶であり、時間そのものであった。少年に出会って感じた矛盾をありのままに組み入れた結果である。
「ところで篠原さん。主人公のクレインは、昼と夜を逆に呼ぶじゃないですか。あれってモデルの人が言っていたことなんですか?」
「いや、直接そんなことは言ってないよ。ただ、昼にすべきことを夜にするのが好きだとか、そんな感じのことをアレンジしただけかな」
「あとですね、昼の空は黒く、夜の空は青い。朝の空は……っていうセリフがあったじゃないですか。あのセリフも、篠原さんのアレンジですか?」
「ああ、それね。うん、アレンジといえばアレンジかな。僕もよく覚えてない」
「覚えてない!?」
「そりゃああれだけの文字数で、モデルの子に会ったのも随分と前の話だよ? 僕はそんなに物覚えは良くないからさぁ……」
「そうですよね……。西崎くんが同じセリフを言ったんです。だから気になって」
「澪ちゃん、僕は2、3回の偶然を運命だなんて言わない人間だよ。ましてや一度きりのことなんて、偶然としか言いようがない」
「じゃあ、四回偶然が続けば運命って認めてもらえるんですね!」
「例えを誤ったかな……、ああいや、まぁ、うん」
とんだオプティミストもいたものだと苦笑しながら、祐は窓の外から覗く、ビルに反射した空を眺めていた。反射ごしに見る空は、自分のよく知る空とは少し違う色をしていると思った。さながら次元の違いを明確にされているような敗北感だと目線を手元に戻し、腕時計を見る「自然な」仕草のあとで店を出ようと澪に促した。




