存在のない場所③
「特に驚かないんだな。さすがに小説とは流れが違うんで喜べないってか」
「……いえ、一緒です。小説と、同じ」
「そうか」
「はい」
頭の中で澪は本のページをめくる。繰り返される過去、訪れるはずだった未来、ああそうかと澪は納得した。何かが欠けていると思ったのだ。小説において、現実らしい現実のシーンはなかった。現実というより、「今」といった方がいいかもしれない。だから祐はそれをファンタジーとしたのではないか、そんなことを思いながら無意識にも口角が上がるのを澪は意識した。
「ところでお名前何ですか?」
「え……」
「名前ですよ。私は星城澪って言います」
「……西崎 圭だ」
「名前を聞いたので大丈夫ですよ、西崎さん。きっと未来が待っています」
圭の呆れを通り越した不審な目を気にかけることもなく、澪は今後のシナリオを想起する。選択肢は多いだけいい、それが澪の主張であった。
◇
「へぇ。それで、澪ちゃんは必然性を強調するわけだ」
「絶対にそうですよ! 西崎圭が、主人公なんです!」
篠原祐は自身が愛してやまないコーヒーを片手に、微笑ましいものだと後輩――星城澪を見つめる。彼としては、あの小説が現実の世界にどう影響するかということは考えていなかった。小説は小説、言うなれば彼は割り切っている人間なのだ。したがって、今目の前で熱烈に自分の小説について、あるいは登場人物に限りなく似た男の話を澪から聞いたところで、彼にとっては意味という意味もなかったのだ。幸も不幸も、感情のもとに成り立つと彼は考えている。彼は常に渇望しているのだ、突き動かされる何か、すなわち原始的な衝動に。物腰穏やかな表情とは裏腹に、彼の思考回路は損得勘定で成り立っている。損でも得でもないものは意味がなく、それでもどうしても追い求めてしまうものを彼は衝動と呼ぶ。そうしてあの小説は、その衝動に従ってできた産物であったわけだ。
「ちょっと、篠原さん! 聞いてますか? さっきからコーヒーとばっかりお話して」
「ごめんごめん。澪ちゃんが面白い話をするものだから、つい聞き入っていた」
「篠原さんは、どう思いますか」
「えっと……質問をもう一度いいかな」
「西崎くんにあの小説を読ませるのが先か、彼の独白を聞くのが先か」
「独白って……何、澪ちゃん。彼に拷問でもする気なの」
そんなことはしませんよ、と澪は無邪気に笑う。祐とは対極に、澪には裏と表はなかった。彼女が独白という言葉を用いたのは、恐らく西崎圭という男は話せといって話すわけではないと考えただけのことである。彼は誰かに話しかけるというようなことはするまい、そう考えたのだ。彼は彼の世界で精一杯なのだ。言うなれば、自分だけしか存在しない世界。勿論これは推論に過ぎないことは彼女も自覚していたし、彼女は真実を目の当たりにしたいわけでもなかった。それは極めて純粋な好奇心である。ただ一つ不思議なことには、西崎圭に対して、澪自身はそれほどの興味を覚えなかった。つまりは小説の中に登場した、あの言葉だけに反応したということになる。大胆な澪にしては稀なことに、彼女は小さな矛盾を気にしていた。主人公の少年が好きだったから言葉を覚えた、言葉があるから西崎圭を知った――果たして順番が交錯しているのは何故だろうということを疑問に思ったのである。




