存在のない場所
「……何だよ、お前」
男は不意に飛び出してきた澪に動じるわけでもなく、ただ訝しげな眼差しを向けたのみだった。澪の方はといえば、当然行動の後先などというのは一切頭にあるわけもない。
「い、いえ……。あの、好きな小説の主人公と――」
「小説? 人を馬鹿にしてんじゃねぇぞ」
「本当なんです! 全く同じセリフを!」
「……」
呆れた様子で虚空に笑いを投げかける男の姿は、澪の言う「主人公」の少年とは似ても似つかない有様であった。第一に、これほど横暴めいた人ではない。そう澪は心の中で抗議をしていた。とんでもない人間もいたものである、よりによってこんな人物にあのセリフを使われるだなんて――とさらに心中で愚痴を積み上げる。見れば見るほど澪の思っていた「主人公」の姿とはまるで対極なのである。
「不満で溢れかえったような目でこっち見るんじゃねぇよ。俺はその小説だか何だかは知らないし、今の言葉は俺自身の言葉だ。むしろ続きを言われて苛立ってるのは俺の方だぞ」
「続き、合ってたんですか……」
「ああ。どう落とし前をつけてくれるんだろうな?」
「ひっ……、私、そんな悪気はなくて! ごめんなさい!」
狼狽する澪に、男は思わず笑いをこぼした。特に強面というわけではないにも関わらず、男は何かと人に怖がられることが多かった。今となってはそれを自嘲的に楽しんでいるといったところなのである。男の周りには兎角人が集まり、そうして去っていった。男は自分の考えを中々言わない人間だ。考えがないわけではないのだ、そして消極的なわけでもない。むしろ行動力のほどはすさまじく、しかしながら人の目を避けるようにして彼が生きているのは紛れもない事実なのである。
「あの、私……どうすれば……」
男の態度を自然すぎるほどに真に受けて、澪は珍しくもこれからの不安というものを抱えていた。このときの彼女に後悔という文字はないにしてもだ。やや考え込み、そうして次第に企み顔になる男の顔を直視しながらも、澪は祐にこのことを告げるべきか否かについて考えを巡らせていた。
作中セリフが出てきたシーンは、特に見せ場のシーンというわけではない。ただ、そぐわない空の色のイメージが色濃く澪の頭に焼き付き、そうして澪は、その色合いにどこか懐かしさを覚えたくらいなのである。
「それなら問題。この言葉はどこで言うべきか、当てられたら許してやるよ」
「……場所、ですか?」
「ああ」
風は一方的に吹き付けるばかりだ。思い出したように手がかじかむ感覚が伝わり、澪は袖の中に手を押し込める。どこで言うべきかという質問は意地悪だと、またも澪は声にならない抗議をした。実際のところ、主人公のいう昼と夜というのは単に相互を意図的に逆さまにして言っているだけなのである。ファンタジーの世界とはいえ、昼と夜の定義が逆の世界でもなければ、太陽のない世界でもない。主人公は昼を夜と呼び、夜を昼と呼んだ。それだけの話である。朝については主人公なりの不定時法でも採用していたのだろう、そのあたりは本人に聞いてみないとわからないところだ。どこで言うべきかという話だが、特別に場所を想起させるような表現は記憶の限りではなかったはずだ。
鈍色の雲が流れるより早くに澪は結論を出した。
「場所は、ありません。主人公の言う昼と夜は最後までみんな信じませんでした。だから、正確には存在しないって言った方がいいのかもしれないけど」




