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白い時針は空の上  作者: 桧山いちか
旅先の幻想と片付けるには、勿体ない人だった。
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例えば彼は海の話をした。

「その人は、名前は何というのですか」

 思い余って澪は尋ねる。名を聞いたところで存在証明にも成り得ないとわかっていても、せめてそういう人がいたのだということを確かなものにしたかったのだ。

「それがさ、名前すら聞いていないんだ。僕もしまったと思ったよ。連絡先の一つも交換しないままにさ」

「今頃どうしているんでしょうか」

「どうだろうね。当時僕は24歳、彼は19だった。名前以外のことで、一体僕たちは何の話をして盛り上がっていたんだろうな。今じゃすっかり過去の話だ」

 目を細めて微笑を向ける祐に、澪は少しの違和感を覚えた。過去の話という響きが、本当にその通りに聞こえたのである。もうその人はこの世界に存在しないのではないか、そうも思った。

「もっと聞きたいです、その人のこと」

「小説の中の出来事が、中々忠実に彼を表現していると思う。どうしてファンタジーになったのかって言われると、僕も困っちゃうんだけどね」


 彼の話はまるで、多くの人の話を聞いているみたいだったと祐は続ける。彼一人の経験にしてはどことなくよそよそしく、彼以外の人間の話にしてはやけに身近に感じられたのだ。

 例えば彼は海の話をした。しかし彼が話す海というのは灯台の前に広がる海のことではなく、どこか遠い地の海の話だった。彼は海岸線の果てを目指した話をした。そうしてその海岸線というのは話にあがった海とはまた別の海の海岸線の話なのである。彼は海に映る空が好きだと言った。空そのものには何も感じないけれど、海に映る空が好きなんですとそう言った。祐からすれば、海といえば目の前にある通り波をたたえた真っ青な水の流れでしかなく、太陽の日差しが時折反射しては目に染み入る、その程度の認識だった。真夏の太陽が二人を真下に見下ろす頃、彼は今度は夕闇の話を始めるのだった。もう戻れない、そんな焦りの衝動に駆られるんです。そう告げる彼に、祐は何に戻る必要があるんですと尋ね、即座にそれを後悔した。彼の表情に、どうにも寂しげな色がちらと横切ったからである。何か別の話題でもと考えを巡らせた祐だが、ふと時計を見やれば時針は既に何度も時空を周回していたようで、すっかり引き返さなければならない時刻に差しかかっていた。


「私も、その人の見た世界を見てみたかったな」

「僕もだよ。何だかファンタジーの世界だろう? でも、僕はもう一度彼に会いたいとは思わないな」

「どうしてですか?」

「会いたくないというわけじゃないんだ。……それに、彼の方でも僕のことなんて記憶の彼方だろう」

 祐の少しの間を澪は聞き逃さなかった。澪の方でも、彼に会うことはできないだろうと同じことを思っていたのだった。不意にあっと小さな声をあげる祐を見やれば、何でも急に予定が入ってしまったということで、今すぐにでも向かわなければならないらしい。何だか忙しない人だと心の内で笑いながら、澪は今日は有難うございましたと祐を見送った。



 小説の中で、主人公は何度も同じ人生を生きる。勿論生きる時代こそ違えど、主人公の感性はそのままなのだ。彼はいつも遠くを見ていて、そうして彼の死は早急に訪れる。彼は何度目かの人生で出会った少女に教えられるのだ。今を生きるようにと。彼がとらわれているのは、いわば前世の記憶であるわけだ。だから彼は引き継がれる感性の中で死に続け、彼自身もそれを不思議に思うことはなかったのだった。少女は彼自身の言葉が聞きたいと迫る。あなたの物語を聞かせてと。


「はやく夏にならないかな……」


 澪はほとんど人通りのない並木道で一人呟く。今の季節はといえば、小説とは打って変わり、白い息に包まれる冬である。例年よりも格段に暖かいはずだが、寒さに弱い澪には冬というだけでどうにも応えるのだった。

 近くの公園を通りがかった際、男女が口論になっているのが目の端に映った。見るからに穏やかでない状況である。遠回りでもしようかと思いながらも、足は若干男女の方へ近づきつつあるのに澪は気付いていなかった。いわゆる無意識というものである。そうは言っても何も修羅場を拝みたいわけではないため、澪は男女からの死角を狙ってベンチに腰掛ける。これもまた無意識のなせる所業である。これで何人目なの、あなたには心っていうものがないのなどという女性の一方的な罵倒の末、彼女が涙ながらに捨て台詞を吐いてその場を立ち去るのはすぐのことだった。平然としている男性の方が一人その場に残る。

 それだけのことであれば澪はその場にとどまっていたことだろう。ところがその男が一人言うことにはこうだった。


「……昼の空は黒く、夜の空は青い。朝の空は――」

「色をもたない!」

 

 ここでどうして星城澪がこの言葉に反応したかといえば、男の言ったそのセリフというのが紛れもなく小説において主人公が発した言葉だったからである。


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