第二話 模様替えをしよう
階段とトイレ。そして、水飲み場がすぐ近くにある、一年A組の教室。
私たちは、毎日そこに集まっていた。
といっても、具体的な時間が決まっているわけではない。
気が向かないときは、一歩も訪れないことだってある。
更に言えば、一年A組をたむろ場にすることすら、正式に決められているわけじゃない。
気がついたら全員がそこで、各々が日常を過ごしているのだ。
バレーボール部の部室から出ると、通った道をモップで拭きながら、渡り廊下を歩いた。
今日も今日とて他に用事はないので、いつものように一年A組へ向かう。
「おはよう」
教室の扉は開いていた。中にいる何人かに挨拶をすると、一瞬だけ、息を呑むような間があった。
「お、おはー、しきっち。もう、朝ごはん食べた?」
利愛菜がいそいそと近づいて来て、あんぱんを渡してくる。私は、それを優しく押し退けた。
「ええ。さっき、部屋で食べてきたわ」
「そっか~」と軽く呟くと、利愛菜はその場であんぱんの袋を開けて、食べ始める。
何度も同じものを食べているはずなのに、彼女はいつも、へにゃりと頬を綻ばせるのだった。
「利愛菜。アンタ、さっき幕の内弁当食べてたじゃん。よくそんなに食べられるね」
矢々子は廊下側の最前席で、溜め息を吐く。
その手には牛乳パックがあり、ストローをガジガジと噛んでいる。
「なぁに、何か問題でもあるの? 食料は無限にあるんだし、どれだけ食べたっていいっしょ」
利愛菜の言う通り、私たちは食料や生活用品に困ることがない。
何故なら、一通りのモノは全て、売店にズラリと並んでいるからだ。
そして、理屈はわからないけれど、売店の商品は、毎日、全てリセットされている。
幸いなことに食料品のレパートリーは多いので、飽きることはない。
それに、季節によってラインナップが変わったりもする。夏にはアイス。冬には肉まんって感じで。
ちなみに、私のお気に入りは、カロリーマイトのチョコ味だ。
「そーいえばさぁ。ウチ、前々から思ってたことがあるんだけど……」
「今度は何なの。グループ名なら、ドロップアウトに決まったでしょ?」
暴れる九美音を窘めつつ、矢々子はうんざりしたように言葉を漏らす。
「可愛い名前だよねー。……ま、あの後の空気は最悪だったケド」
「ごめんなさい」
私はゆっくりと頭を下げる。垂れた髪から、水滴がポタポタと地面に落ちた。
「あ……別に、しきっちに謝ってほしいわけじゃなくて……!」
「ちょっとちょっと。喧嘩やいざこざは、翌日には持ち込まないって決まりだったよね?」
「うっ……わ、わかってるし! ちょっとしたジョークのつもりだったの! でも、チョイス間違った! ごめん!」
「謝らないで。私の責任ではあるわけだし……ええと、そうね。ここは、私の水で流しましょう」
しん。と、空気が静まり返る。少し早めの冬が来たのかと思うくらい。
「今の、冗談のつもりだったんだけど」
『シキデのジョークはわかりづらい』
九美音は両手を挙げて、やれやれと肩を竦める。
おかげで、白けた雰囲気がほんの少し柔らかくなった。
「それで、利愛菜の言う、ずっと思っていたことって何のことなの?」
「あ、そうそう。ウチが言いたいのは、ズバリ……」
彼女は一人一人の顔を見やり、目を伏せる。朝日を受けた睫毛とアイシャドウが、キラキラと光っていた。
「……飽きたってこと!」
「飽きたって、どれに?」
「この教室に!」
いまいちピンと来ず、私と矢々子は顔を見合わせる。多分、九美音とも。
『集まるの、別の教室にする?』
「そういう問題じゃなーい! てか、どの教室も似たようなモンでしょ!」
提案をバッサリと切った利愛菜は、ぷくーっと頬を膨らませる。
今、私たちがいる一年A組。隣に続く、B組、C組、D組……それらには同じ黒板があり、教壇があり、たくさんの生徒用の机や椅子がある。
違うところと言えば、掲示物のレイアウトやその内容くらい。
一年生の教室だけじゃなくて、二年と三年も同様だ。
「売店と違って、フツーの教室は形状記憶されるんでしょ? それなら、いっそのことウチらで模様替えしちゃわない?」
「形状記憶……と称していいのかしら。アレを。……というか、よくそんな言葉知ってたわね」
「感心してどうすんの、四季手」
矢々子は両手を挙げ、利愛菜に哀れみの目を向ける。
「たぶん、言葉の意味わかってないでしょ。大方、未奈和が言ってたのをそっくりそのまま口にしてるだけ」
「ちょっと! しきっちはともかく、やこりんにバカにされるのは納得いかないんだけどー!? ウチよりもバカのくせにー!」
「よりも、って何!? 何度も言ってるけど、アタシの方が賢いっての!」
どんぐりの背比べを始めた二人を横目に、熱心に何かを書いている九美音の傍に寄る。
彼女はペン一つで真っ直ぐな線を引き、俯瞰視点でのこの教室を絵に落とし込んでいた。
「相変わらず、上手ね」
九美音は控えめにサムズアップし、作業に戻った。
それを見ながら、私も頭の中で想像を膨らませる。
「コンセプトすら固まっていないけれど……そうね。絵画の一つくらいはあってもいいかもしれないわね」
そんな独り言を聞いて、九美音は一瞬手を止める。
ペンはしばらく宙に浮き、ややあって、彼女は別のページにこんなことを書き出した。
『絵は 美術室に行かないと ないかも・・・』
まさか、特別教室に行くつもりなのか。
そんな言葉が、文字の後ろに滲み出ている気がした。
絵画が欲しいと思ったのは本心だったけれど……そう思われても仕方ない。
実際、昨日啖呵を切ったばかりだし。デスゲームで何があったのか知りたい、って。
……デスゲームの調査を強く反対していた自棄留や、消極的だった未奈和は、今はこの教室にはいない。もしかしたら、本当にチャンスかもしれない。
「…………」
九美音はノートとペンを机上に置き、両手の人差し指を突いている。
彼女は今、何を思っているのだろう。私には、未奈和ほどの洞察力や理解力はない。
「──で。模様替えって、具体的に何すんの?」
ようやく口喧嘩が終わったのか、矢々子は深く、深く溜め息を吐いた。
「フフン。よくぞ聞いてくれました」
何故か利愛菜は得意げな顔で、自身の胸の穴から何かを取り出す。
その手に握られていたのは、可愛らしいウサギのキーホルダーが付いた鍵だった。
「ズバリ、今の自分たちの部屋みたいにすんの!」
「なるほど。寮から持ってくるってことね」
「そゆことっ!……ってなワケで、とびっきりカワイイものをたくさん持ってくるねー!」
右腕を突き上げると、利愛菜は慌ただしく教室を去って行った。
私と矢々子はまたしても顔を見合わせて、肩を竦めた。
「ホント、人を巻き込んで振り回す才能に長けてるんだから。利愛菜は」
「でも、そこが彼女の良いところよ。……悪い方向に進むこともあるけど」
九美音は両手で大きく丸を作り、全身で頷く。
実際、毎日を彩ってくれる彼女には、いつも感謝している。
調子に乗るから、直接お礼を告げることはあまりないけれど。
「じゃ、アタシは他の教室から適当に持ってこよっかな。見逃してたカッコイイ小道具とかあるかもしれないし。九美音も一緒にどう?」
ゆらゆらと揺れていた九美音の身体が、ピタリと停止する。
そして、ノートに何かを書こうとして止め、書こうとして止め……まるで、何かを迷っているかのような態度だった。
「? どうしたの?」
矢々子に覗き込まれたことに驚いたのか、九美音は椅子から飛び上がる。
大きな身体なのに小動物みたいに教室の隅に逃げ込むと、勢いよくペンを走らせた。
『ヤヤコに付いていく』
珍しく、荒々しい文字だった。九美音は何事もなかったかのようにスカートを翻して、矢々子にべったりとくっついた。
「もう、何なの?」
矢々子は眉を顰めると、私の横を通り過ぎる。九美音も、その後を追った。
──その瞬間だった。
「ん?」
九美音の手から、折り畳まれた紙切れがはらりと落ちた。
矢々子は気づかず、背を向けている。
うっかり落とした……わけではなさそうだ。それにしては明らかに不自然で、意図的な動きだった。
まさか、私に見てほしいのだろうか。二人の足音が廊下の向こうに遠ざかったあと、濡れた手でそっと紙を拾い上げる。端がじわりと水を吸った。
広げると、さっきの荒々しい筆跡とは打って変わって、普段通りの丁寧な文字が並んでいた。
『行かない方が どうなっても知らないからね』
「…………」
彼女がずっと迷ったような素振りを見せていたのは、これだったのかもしれない。
九美音は昔から、私たちドロップアウトの関係性が壊れることをひどく嫌がっている。
利愛菜も同じくらい嫌がっているけれど……あっちは単に、ギスギスした空気が怖いだけ。
でも九美音の方は、どこか違う。もっと静かで、根が深いような、そんな感覚がある。
怒りっぽい自棄留の傍にいるのが多いのも、おそらくそれが影響しているのだろう。
誰かとの間に少しでもひびが入りそうになると、そっと間に入ろうとする。
真意まではわからないけれど、そういう人間だということだけは、二年という月日でよく伝わっていた。
彼女の思いは、私にも理解できる。今の自分は、あの五人がいて初めて成り立っていると思う。それを失いたいとも、壊したいとも思っていない。
──でも、
それでも私は、引き下がれない。知りたいという欲求に、これ以上嘘を吐くことはできない。
特別教室には行かない、という暗黙のルールは続行中だ。
それはわかっている。でも、九美音が見逃すと言うのなら、それに乗らない手はない。誰にも気づかれないように動けばいいだけの話だ。
水を吸ってぐずぐずになった紙をゴミ箱へ捨て、壁に立て掛けてあったモップを手に取る。
一歩踏み出すたびに、濡れた靴下が足の裏に貼り付き、上靴のソールが湿った音を鳴らした。
この不快感は、いつまで経っても慣れなかった。
袖口や髪の毛先から伝わった雫が、床に小さな染みを作る。乾いたモップで、それを拭き取った。
教室を出て、静まり返った廊下を歩く。窓が開いており、朝の光が斜めに差し込んでいた。その光は、リノリウムの床の上でひっそりと跳ね返っている。
ふと外に目を向けると、色づいた銀杏の葉が風に靡き始めた。
その風は廊下まで届き、私の身体を包み込む。しかし、私の身体を乾かしてはくれない。
一体、風はどこからやってきているのだろう。
校門や校庭の先には真っ白な空間が広がるばかりで、その先に何があるのか、確かめる術はない。
境界を越えることができない私たちにとって、この学校の敷地だけが、世界の全てだった。
+++
美術室に行く前に、ふと、今朝も通った一棟への渡り廊下を見やる。
その奥には、左右にズラリと扉が並んでいた。
それぞれが元々は部室として使われいたもので、今は、ドロップアウトが自室として使っている。
ほんの少しだけ近づいて、目を凝らす。自棄留と未奈和の部屋は固く閉ざされていて、扉の前にはパイロンが置かれていた。
ということは、二人は今、部屋の中にいる。
安堵すると同時に、胸の奥がチクリと痛んだ。咄嗟に、部室から背を向ける。
ややあって床を見ると、私の足元に、ちょっとした水たまりができていた。
今の私が、いかに隠密行動に向いていないのかを思い知らされる。
モップで水のあとを作りながら、一年生の教室を突っ切る。
そして、特別教室が集まる魔窟──三棟へと歩を進めようとした。
……が、しかし。
「…………」
二棟と三棟を繋ぐ渡り廊下の前で、無意識に立ち止まる。
渡り廊下には、左右に大きな窓がある。しかし、陽の光が入ってきておらず、驚くほど薄暗い。構造的に、そんなことあり得ないのに……まるで、ここだけ切り取られた別世界みたいだ。
壁や天井の塗装は所々剥がれていて、その形は、悪魔が笑っているかのよう。
気味が悪い。何よりもその言葉が似合っていた。
それでも、私はゆっくりと歩き出す。進むごとに、陰鬱な空気が纏わりついてくる
「これ以上は危険だ」という危険信号を振り払うように、必死に重い足を動かし続けた。
そして……ついに、三棟へと足を踏み入れた、その瞬間。
「っ……!」
重く淀んだ空気が、肺の奥まで一気に流れ込んできた。
渡り廊下と同様、さっきまで降り注いでいた朝日は、すっかり身を潜めている。
天井の蛍光灯は付いておらず、非常口の蛍光灯だけが、パチパチと音を鳴らしながら明滅していた。
その頼りない光だけが、この廊下を緑色に照らしている。
ジメジメとした感触が皮膚の表面を這いまわる。
おそらく湿気によるものだろうけど、私にはそうは思えない。まるで、長い年月をかけてこの場所に堆積された遺恨が、そのまま空気に溶け込んでいるかのような……。
美術室は、渡り廊下を抜けてすぐのところにある。
「ふぅ……」
深呼吸をしても、この緊迫感は変わらない。それなら、この不穏な気持ちは抱えたままでいい。
私はゴクリと生唾を飲んで、勢いよく扉を開けた。
「────」
美術室の中は、思ったより広かった。
蛍光灯は付いていないのに、廊下よりは若干明るい。そして、ツンと鼻を突く強烈な臭いが漂っている。
思わず、口元を押さえる。その臭いが何なのか、なんとなくわかってしまった。
たぶんこれは、血と肉の臭いだ。それが、絵具や油、粘土、紙のものと入り交じっている。
「……おえっ……」
生々しくて、重い。朝食が胃から込み上げてきそうになる。
しばらく、扉の縁に手をついたまま立ち尽くした。
すると、人間の身体とは不思議なもので、少しずつ目が慣れてくる。暗闇の中から輪郭が滲むようにして浮かび上がってきた。
まず目に入ったのは、赤黒い染みだった。
天井や壁、床にまで大きく広がっている。これが血なのか、絵具なのかは、判別がつかない。
足元に視線を落とすと、デッサン人形の残骸が床のあちこちに散らばっている。
腕や脚が外れていたり、胴体と頭が別々になっていたり。いくつもの人形が、まるで何かに巻き込まれたかのようにバラバラになっていた。
転ばないよう、慎重に部屋の奥へ進む。すると、その先には。
「……何よ、これ」
異様な光景だった。
イーゼルが、等間隔で円を描いて並んでいる。
目を凝らすと、数が思ったより多いことに気づいた。
ざっと見ただけでも、十個以上はある。けれど、これが多いのか、少ないのかはわからない。
そして、その中心には、頭部だけの石膏像がポツンと置かれていた。
不気味なことに、耳も目も鼻も口も、全てが削り取られている。
のっぺらぼうの石膏像は、暗い室内の中で白く浮かび上がって見えた。
「ん?」
しばらく観察すると、あることに気付いた。
石膏像が置かれた台の下に、たくさんの絵が落ちている。
田園の風景。女の子の笑顔。美味しそうなごはん。家族らしき人々──どれもこれも、素朴で、けれど幸せそうな、日常の一コマを切り取ったかのような、素敵な絵だった。
……一体、何の意味があるんだろう。もしかしたら、私が描いた絵が混ざっているかもしれない。
かといって、大事な証拠になるかもしれない絵を、私の身体で濡らしたくはない。
どうしよう……そんなことを考えながら、一歩だけ前に近づく。
その瞬間だった。
こつん、と、小さな音がした。
咄嗟にしゃがみ込む。そして、固い感触のソレを拾い上げようとして──。
「……え」
足元に転がっていたのは、小さな花がたくさんついた、白い髪飾りだった。
端には、黒く、乾いた赤い液体がこびりついている。
「ッ……! うッ……!」
頭の奥が、割れるように痛んだ。
視界が揺れる。美術室の輪郭がぼやけて、血と肉の匂いが遠のいていく。
代わりに脳裏に滲み出てきたのは、まったく別の景色だった。
外は満開の青空で、風が気持ちよく吹いている。
陽の光が差し込む教室で、私は、一人の女の子と並んで座っていた。
その子の髪は、いつも白い髪飾りで彩られていた。
連なった小さな花を指でそっと触りながら、私と同じ名前の花なの、と言って笑う。
小柄で幼い印象を受ける彼女に、それはよく似合っていた。
あの頃は、ただそれだけのことが、嬉しかったような気がした。
しかし、その光景は、突如として暗転する。
周囲は黒で閉ざされていて、風一つない。
殺伐とした空気が満ちる部屋で、私は、一人の女の子と並んで座っていた。
その子の頭には、巨大な鉈が固定されていた。
椅子に縛り付けられて指一本動かせないまま、死にたくない、と言って泣き叫ぶ。
童顔で可愛らしい彼女の顔は、原形をとどめないほど歪んでいた。
「私の代わりにあんたが死んでよ。仲良くしてやったでしょ。あんたみたいなクズと違って、私にはやりたいことも大切なものもたくさんあるの。……ねぇ、何で代わってくれないの。ねぇ! 今すぐ代われよ! 人殺し! あんたが私を殺すんだ! 最低の人でなし! 絶対に許さない!」
あの時、彼女が私に発した言葉は、これだけじゃなかったような気がした。
やがて、絶叫と共に、温かい液体が、私の全身に降り注ぐ。
彼女のお気に入りの髪飾りが、音もなく床に転がり落ちる。白い花びらには、赤いものが滲んでいた。
イーゼルの向こうで、石膏像の瞳が、私と、彼女だったモノを見て笑みを浮かべていた。
──あの花の名前は、何て言うんだったっけ。
「う……ぁ……」
頭の痛みが、爆発するように広がった。
気が付けば、私は床に倒れ込んでいた。
頬に伝っているのが、涙なのか、身体から滴る雫なのか、判別がつかなかった。
瞼の裏に映っていた幻は、跡形もなく消え去っている。
女の子の声も聞こえない。ここは……現実だ。私の全身は、血ではなく水で濡れている。
「………………」
少しずつ、意識が遠ざかっていく。
足先と指先の感覚がなくなり、まるで、水と溶け合っているかのような感覚に陥る。
死んだときも、こんな感じだったのだろうか。なんて──なんて、寂しいんだろう。
無意識に、白い髪飾りに手を伸ばす。空を切った手には、何も残らなかった。
+++
ゆっくりと目を開けると、一年A組の天井が広がっていた。
中央の蛍光灯にハートのシールが付いているので、すぐにわかる。
「あ。目、覚ました!」
利愛菜の声が聞こえた、と同じタイミングで、ひょっこりと顔が覗き込まれる。
目尻に涙を浮かべながら、心底ホッとしたような表情を浮かべていた。
いまいち状況を掴めずにいると、しゃがんでいた九美音が、私の背中をそっと支えてくれた。
それを頼りに上半身を起こし、ぼんやりとした視界で辺りを見渡す。
矢々子は近くの椅子に座って、頬杖を付いている。
その奥では、自棄留が壁にもたれかかり、腕を組んでこちらを睨んでいた。
「四季手ちゃん、大丈夫~?」
ふと、視界の横から、のんびりとした声が聞こえてきた。未奈和だ。
首の縄のせいで下を向けないからか、全く視線が合わない。けれど、まるでその代わりかのように、私の頭にそっと手を置いた。
「いや~。ホント、びっくりしたよ~」
「び、びっくりしたって……どうして?」
「え~? だって~……」
未奈和は優しく手を動かし、私の撫でる。
そして、彼女がへにゃりとした笑顔を浮かべた瞬間……緊迫していた空気が、弾けて消えた。
「起きて部屋を出たら、この教室の前で、四季手ちゃんが倒れてるんだもん~」
「え?」
思わず、素っ頓狂な声が口から漏れた。
この教室の前で倒れていた? ……美術室じゃなくて?
「アンタ、一体何で倒れてたのよ。まさか、自分の水ですっころんだの?」
矢々子の眉間に皺が寄り、頭に刺さった矢尻が少し動いた。
「え……ええと。……そ、そうなのよ。部屋の前で、足を滑らせて……」
「えー! マジ!? うわー、久々に見たかったなー!」
利愛菜が手を叩いて、大口を開けて笑い出す。
さっきまで泣きそうだった顔が、嘘みたいに明るくなった。
その笑い声につられるように、教室内の空気がほどけていった。
幸いなことに、誰も違和感は抱いていないようだ。私も、至って自然な笑みを浮かべた。
「ったく、人騒がせなことすんじゃねぇよ。利愛菜じゃあるまいし」
唯一、口をへの字にしていた自棄留が、ポツリと呟いた。
「なにおう!? けるけるだって、しょっちゅうやらかしてるクセにー!」
「うるせぇ。オマエよりはマシだ」
頬を膨らませて怒る利愛菜と、吐き捨てるようにそれをあしらう自棄留。
二人の姿を微笑ましく見ていると、ふと、視界にノートが入り込んだ。九美音だ。
『この感じ、最初に会ったときのことを思いだすね』
「あ~、確かに~。あのときはすっごく寒かったな~」
それに同調したのは、未奈和だった。首の縄を揺らしながら、遠くを見るような目をしている。
釣られて、私も二年前のことを思いだしそうになる。
でも、今はそれどころじゃない。振り払うように頭を振り、私は、気になっていたことを口にした。
「……ね、ねぇ、利愛菜。結局、ココの模様替えはどうなったの?」
一年A組の教室は、今朝から全く変わっていないように見える。
「は? オマエ、そんなことやろうとしてたのかよ?」
「まぁねー」と、今度は利愛菜の方が自棄留の怒りを横に流す。
自棄留はチッと舌打ちをしたあと、自身の顔の火傷を指でなぞった。
「でもね、寮にはカワイイものがぜーんぜんなかったんだよねー。……ま、ウチが全部部屋に持って行ったからなんだケド。……ってなワケで、作ることにしたの!」
「作る?」
「そう」
私の問い掛けに答えてくれたのは、矢々子だった。
「教室に貼りだされてる紙を使って、折り紙で飾り付けようって話になったの。九美音がそういうの得意みたいで」
九美音は大きな胸を張り、そこにドンと拳を当てる。
何となく、誇らしげに鼻を鳴らしているように見えた。
「へ~、それ、面白そうだね~。お昼ごはん食べたら、わたしも参加しようかな~」
「おっけー! むしろ、助かるー! みなぽよがいると、百人力だわー!」
利愛菜に褒められたことで、未奈和は「えへへ~」と頬を掻く。
確かに、彼女は手先が器用だし、飲み込みも早い。きっと綺麗なモノを作ってくれることだろう。
「ケッ、くだらねぇ。オレはやんねぇぞ」
自棄留は明るい茶色の髪を靡かせて、こちらに背を向けた。そして、力強い歩みで教室を出ようとする。
このまま、自室に戻るつもりなのだろう。そう思っていた矢先、自棄留はくるりと踵を返した。
「オイ、四季手」
ドキリと心臓が鳴る。
……本当は、私は廊下で倒れてなんかいなくて、今までの流れは全て試し行為だったんじゃ……。
……本当は、私が特別教室に行っていたことが、皆にバレているんじゃ……。
そんなネガティブな思考が、頭を過った。……しかし。
「何か、食いたいモンねぇのかよ」
「え?」
またしても、声が裏返った。頭の整理が付かず、ポカンと口が開く。
「どうせ、ここで食うんだろ。また転ばれても面倒だし、ついでに取って来てやるって言ってんだよ」
自棄留は唇を尖らせ、顎をクイッと上げた。
すると、未奈和がいつも以上に目を細めた。
「わ~、絵にかいたようなツンデレだねぇ~」
「ツンデレ? 何だよそれ。意味わかんねぇこと言うな」
「はいはいはーい! ウチも一緒に行く~!」
そのやりとりを遮るように、ぐぅ、という音が教室に響いた。利愛菜のお腹だった。
今朝、あれだけ食べていたのに……。
自棄留は「好きにしろ」と言わんばかりに鼻を鳴らす。それから、一つ咳払いをした。
「ホラ、四季手。さっさと言えよ」
「あ……ええと。わ、私は、いつもの携帯食で……」
「チョコ味のやつだよな。わかった」
「あ、ありがとう。自棄留」
自棄留は手のひらをひらりと上げ、教室を出ていく。
利愛菜は「皆の分も適当に持ってくるねー!」と満面の笑みで言い残し、やや遅れて、彼女の背中を追っていった。
「……というか、折り紙なんて発想、よく思いついたね~。どんな話の流れでそうなったの~?」
未奈和は首の縄を揺らしながら、出入口付近の席に座る。
嫌味のように聞こえなくもないが、彼女のことだから、単に気になったのだろう。
その疑問を解決してくれたのは、九美音だった。
『ボクの部屋にあった。折り紙の束』
「え~? 九美音の部屋って、ボードゲーム部なんでしょ~? 何で折り紙なんてあるの~?」
目を丸くする未奈和に、九美音は大きく身体を傾かせる。
「そんなこと、考えても仕方ないでしょ。……あ~あ。どうせなら、折り紙の本もあればよかったのに」
「図書館に行けばありそうだけどね~」
そんなことを言って、三人は笑い出す。
私はその微笑ましい光景を眺めながら、ようやく冷静になってきた頭を動かし始めた。
廊下で倒れていた。そう未奈和は言っていたし、皆もそれを受け入れていた。
でも、私は確かに美術室で倒れた。気を失った。
……まさか、夢を見ていた? ……いや、そんなはずはない。あの空気は、匂いは、染みは、物は、間違いなく現実だった。
身体が勝手に動くわけもない。となると、考えられる可能性は……誰かが廊下まで運んでくれた?
でも……もしそうなのだとしたら、どうして何も言わないんだろう。
「コイツは一人で黙って特別教室に行ったのだ」と、言及されてもおかしくないのに。
……そもそも、どうやって私が美術室にいることを知ったのだろう。
美術室という言葉を出したのは九美音の前だけだったはずだ。……ということは、彼女が……?
思考がぐるぐると巡って、これっぽっちも整理が付かない。
そんな私をよそに、再び、三人の笑い声が教室に響いた。
それに合わせて、私も笑顔を浮かべる。
彼女たちの話はもはや、私の耳には届いていなかった。




