第一話 いつもの日々
一棟の廊下を端から端まで往復して、教室に戻ってきたところだった。
湿ったモップを引きずりながら引き戸を開けると、橙色の光が部屋いっぱいに広がっていた。
西向きの教室は、こういう時間帯に妙に明るくなる。黒板も机も床も全部同じ色に染まり、境目が溶けて、夕暮れの中にすべてが沈んでいるみたいだった。
「ちょっと、未奈和! そればっかりやめてよ!」
大きな声を上げたのは、矢々子だった。
廊下側の最前列席で、深緑色の短髪を夕日に透かして、真っ白に染まったオセロ盤を睨んでいる。
矢々子の顔は整っているが、感情表現が豊かなせいで、その印象は薄い。悔しさとか焦りとか、そういうごちゃまぜの感情が、目や口元の歪みとして現れている。
しかし、無意識に私の視線は、彼女のおでこへと移動していく。
頭に、一本の矢が刺さっている。
ちょうど眉間から後頭部にかけて、おそらく鉄製の矢が貫かれている。夕日を受けてキラリと輝く刃先には、血の跡も錆びもない。
まるでファッションのひとつかのように、そこにあることが極めて自然に見えた。……頭に矢が刺さった女の子なんて、不自然でしかないのに、私たちの目は、すっかりそれに慣れてしまっていた。
最初はどう思ったのか、今となっては覚えていない。
「こんなの、オセロなら当たり前の戦術だよ~」
矢々子の向かいに座っているのは、未奈和だ。
ゆるふわのボブヘアが、頬のあたりで柔らかく揺れている。穏やかな微笑みを浮かべながら、今もゆっくりと手を伸ばして白石をひとつ置いた。
ぱちり、と小気味良い音がして、黒石が四枚ひっくり返る。またしても、矢々子が悲鳴を上げた。
「……ん~。肩、痛い……ねぇ、矢々子。今度から黒板でオセロやろうよ~」
未奈和の首は、縄で絞められている。
装飾用でも荷造り紐でもなく、用途を想像すると少し息が詰まるような質感の、ごつごつした麻縄。それが、首にぴったりと巻き付いている。
そのせいで、何かを見るときも拾うときも、首だけではなく上体ごとゆっくり向ける。だからなのか、根っからの性分なのか、未奈和の所作はいつもスローペースだ。
「あれ。しきっち、また掃除してたの?」
不意に、あだ名を呼ばれた。
驚いて振り向くと、その瞬間、水しぶきが周囲に飛び散る。
「……ああはっ。大変だよねぇ、それ。ウチだったら、我慢できないわ~」
目の前にいる少女は、ポニーテールを靡かせて、ハンカチで顔を拭く。失礼な言い方だったけど、私自身、うんざりしているので、返す言葉はない。
彼女の名前は利愛菜。セーラー服を器用に魔改造して、オフショルダーのように着こなしている。
だらしなく開けた胸元には、大小様々な穴がいくつもある。形も様々で、丸くて綺麗なのもあれば、ひどく変形しているものもある。向こう側の景色が小さく切り取られて見えた。
「ドライヤーで乾か……しても、意味ないんだったね。う~ん、何かあったかな?」
そう言って、利愛菜は穴に腕を突っ込み、まるで鞄かのようにごそごそと探っている。曰く、中は空洞で、それこそ鞄のように使えて超便利だと話していた。
「いつも言ってるでしょう。私、貴女の穴にある物は使うつもりないわよ」
「もー! 汚くないってば! ホラ。綺麗でしょ、ホラ!」
消しゴムやらペンやらを取り出す利愛菜。確かに汚れはなさそうだけど、何か、生理的に嫌だ。
文句を垂れる彼女を横切って、教室の後部座席に座る。床に落ちる水滴は拭かずに、窓の外の柵に、びしょびしょに濡れたモップを干した。
すると、窓の外から、銀杏の葉が一枚落ちた。秋の冷たい風が、水に濡れた肌に纏わりつく。
私が椅子に座ると、椅子は濡れる。制服も髪も、いつも濡れている。一度も乾いたことがない。
水から上がったばかりの人間みたいで、ひどく滑稽な姿だった。
「おい、四季手」
トントン、と机を叩いて威嚇しているのは、自棄留だ。前方に五つほど席を離した位置で、頬杖をついている。
「お前、今日はどこをほっつき歩いてきたんだ。まさか、特別教室には行ってねぇだろうな?」
自棄留の身体は、全身にびっしりと火傷の痕が這っている。赤く盛り上がったところと、逆にへこんで爛れているところが混在していた。
夕日がその肌の上で揺れていた。まさに燃えているかのように、橙色の光が爛れた輪郭を縁取っていた。私と真逆の姿……とは、言い難いか。
彼女は馴れ合いが嫌いで、いつも一歩引いて私たちを見ている。けど、できれば私は、常に自棄留の近くにいたい。
別に、自棄留のことが好きだとか、そういうのじゃない。彼女の周囲はほんのり暖かいのだ。
風邪や病気とは無縁の身体だけど、やっぱり、寒いのは好きじゃないから。
「行かないわよ。そういう約束だったでしょう」
「……フン、どうだかな」
自棄留は、興味なさそうに、ただぼんやりと夕空を眺めている。
その隣。首から上がない少女が、ノートを自棄留に見せた。すると、彼女はハァと溜め息を吐いて、そっぽを向く。
「何だよ、単なる言葉の綾だろ。そんなこと、わかってるっての」
そう言うと、首から上がない少女─——九美音は両腕を組んで、身体全体を傾かせた。
教室内にいる六人の中で、最も正しく制服を着ている。リボンもきっちり留まっているし、スカートの丈も膝下。制服の衿元からは、タートルネックのインナーが覗いている。首元まですっぽりと覆われていて、断面は見えない。
そんな制服の上からでも、スタイルの良さがはっきり際立つ。胸もお尻も大きいくせに、くびれはしっかりある。背も高くて、足も長い。世の女の子が憧れるプロポーションの持ち主だった。
けれど、頭部がない。タートルネックの上には何もなく、ただ空白がある。九美音の輪郭を目で追うと、首のところで景色に溶けてそのまま終わる。
「ねぇ、九美音。貴女、何を書いたのよ?」
気になって聞いてみるが、彼女は慌てて両手を動かすだけだった。何を伝えたいのかさっぱりわからない。
「約束じゃなくて暗黙の了解でしょ。……って、書いたんじゃない?」
未奈和の声を受けて、九美音は両腕を使って大きく丸を作っていた。どうやら、正解らしい。
「みなぽよってさぁ、やたら察しがいいよね。もしかして、びねたそと幼馴染とかだったりするの?」
「どうだろうね~。誰も覚えてないでしょ、昔のことなんてさぁ~」
ガックリと肩を落としている矢々子を放置して、未奈和はスッと立ち上がった。
「……あっ、そうそう! そういえば、ウチ、皆に言いたいことがあったんだけどさ」
パンと手を叩いて、満面の笑みを浮かべる利愛菜。意気揚々と黒板の前に立ち、チョークで何かを書き始めた。橙色に染まった黒板の上に、白いチョークの跡が走る。
「グループ名決めようよ、グループ名! ウチら六人のさ!」
「ハァ?」
オセロを戸棚に戻していた矢々子が、勢いよく振り返る。その瞬間、ゴンという鈍い音がした。頭を動かした拍子に、矢の柄が棚にぶつかったらしい。
矢々子は反射的に頭を押さえて、顔をしかめる。よくある流れなので、誰も心配はしない。利愛菜もそのまま話を続ける。
「こんなに長い間一緒にいるのにさ、無いのっておかしくない?」
「……そういうものなの? 私、友達とそういうの考えたことないわよ?」
と言っても、記憶がないから定かではない。もしかしたら、考えたことあるのかもしれない。
それでも私は同意を求めるように、全員の顔を見やる。案の定、ピンと来ている人は一人もいなかった。
「うーん。でも、あった方が楽しいんじゃないかなぁ~?」
「未奈和。アンタはまたそうやって適当なことを……」
「え、そうかな~? RPGでもパーティ名ってあったりするよ~?」
キョトンとした顔で、頬に人差し指を当てる未奈和。彼女のマイペースさに、矢々子は呆れたように溜め息を吐いた。
「まーでも、暇だしいいんじゃない? アタシ、イイの思いついちゃったし!」
そう言って、黒板前に躍り出る矢々子。桃色のチョークを手に取って文字を書き、胸を張った。
「どう? ナイトメア・シックス! カッコイイでしょ!」
「ダッセェ」
辛辣な言葉を呟いたのは、自棄留だった。相変わらず頬杖をついて、外を眺めている。
「ダサくない! 超カッコイイでしょ!? 九美音もそう思うよね!?」
九美音は一瞬だけ停止したあと、サラサラと慣れた手つきでペンを走らせる。そして、ノートをこちらに見せて来た。
『ダサい!』
「く、九美音まで……うぅ……」
「ちょっとちょっと、やこりん、泣いちゃったじゃん~!」
「泣いてないわよっ!」
そう言いながらも、矢々子は目に涙を浮かべている。……さすがに可哀想かも。
「……そういう二人はどうなのよ。良いアイデアあるの?」
「は? オレ、別に、グループ名とかどうでもいいんだけど」
九美音がすっと立ち上がって、自棄留の隣に並んだ。肩を寄せて、なめかましい手つきで足を触る。
「そんな冷たいこと言わないでよ~、って言ってるのかなぁ?」
「おい。近寄んな、変態女」
自棄留は心底嫌な顔をして、ペシッと軽く、首の切れ目を叩いた。しかし、九美音はめげずにスキンシップを試みる。
……私もやられたことあるけど、あれはかなりしんどい。不快……まではいかないくらいの、絶妙な不快さ、というか……あの感じは、実際にやられないとわからない。
それは、自棄留も十分知っているはずで。彼女は観念したように両手を挙げて、吐き捨てるように呟いた。
「お…………お、大晦日ガールズ、とか」
「ぷっ……! アンタも大概じゃん! ダサいって、それ! 安直すぎだし!」
「テメェ、矢々子! ぶっ殺すぞ!」
「ぶっ殺すって何よ? もうアタシたち、死んでるでしょ!」
しん、と空気が張り詰める。特別教室の重苦しい空気が、この教室まで漂ってきているみたい。
窓の外の夕暮れは、すっかり深くなっていた。さっきまで橙色一色だった空が、窓の上のほうからじわじわと暗くなってきている。
茜色と紫が混ざったような、名前の付けにくい色が、地平線の辺りに溜まっていた。
正門の銀杏は半分シルエットになっていて、残った葉が風に揺れるたびに、身体が冷えていく。
「……ごめん。不謹慎だった……」
「……オレも、少し言い過ぎた」
珍しく、二人は素直に謝った。けれど、誰も何も返答はない。気まずそうに唇を尖らせた利愛菜は、鼻歌混じりに教室の電気をつけた。
九美音も、そわそわと身体を揺らしながら、窓とカーテンを閉め始める。未奈和は……いつも通り、緩く微笑んでいた。
私は窓の外に干していたモップを取り出して、骨組みに取り付ける。自分の足元の水を拭くと、キュッキュッと、散々聞き飽きた音が聞こえた。
「ドロップアウト」
「え……しきっち、それ、どういう意味?」
利愛菜はわざとらしく、素っ頓狂な声を上げる。全員の視線が、私に集まった。それでも気にせず、その場に立ち上がる。ポタポタと、また水が垂れた。
「脱落者、って意味。私たちは、デスゲームからも、生きることからも脱落した。そうでしょ?」
「…………」
また、長い沈黙があった。でも、空気はさっきまでより柔らかい。
さっきの張り詰めた感じとは違う、少し息のできる静けさだった。
「いいね~、それ」
未奈和は首から垂れる縄をくるくると指で遊ばせたあと、グッとこちらに親指を向けた。九美音も、腕を丸にして踊っている。
「なかなかイカしてんじゃん? ま、アタシほどじゃないけど!」
「いやぁ、ややりんのセンスは小学生男児のソレだからなぁ。褒められても嬉しくないっしょ」
利愛菜がヘラヘラと笑うと、矢々子は頬を膨らませた。慣れ親しんだ光景なのに、自然と笑みが零れる。
「けるけるは? どう思う?」
返事をすることなく、自棄留は黙って私に近づく。不機嫌な顔だった。いつもそうだけど。
彼女は手が濡れることも厭わずに、私の胸倉を掴んだ。
「デスゲームって言葉、二度とオレの前で口にするな」
低い声だった。私はあくまで優しく自棄留の手を振り払って、彼女の目をじっと見据えた。
痛々しく爛れた肌が、こんなに近くにある。火傷の跡は、白い光の下でくっきりと見えた。
「もういい頃合いでしょう。私たち、ここで目覚めてから、もう二年も経っているのよ?」
蛍光灯のじりじりという音が、教室内に響き渡る。私は、ゆっくりと息を吸って、吐いた。
「私は、自分がどうやって死んだのか。誰に殺されたのか。事故なのか他殺なのか。……この学校で何があったのか、知りたい」
「知る必要はない」
踵を返して、自棄留は教室を出て行く。真っ暗な廊下に溶け込んで、すぐに気配も足音もなくなった。そして、暖かさが遅れて消える。教室が、少し肌寒くなった。
「……ウ、ウチも、けるけるに賛成かなぁ~……今の関係性で仲良くやってんだからさぁ、水差す必要なくない?」
利愛菜はブルブルと身体を震わせて、そう呟く。腰が引けて、目も泳いでいた。
ギスギスしたこの雰囲気に怯えているのか、それとも、デスゲームのことが怖くて怯えているのか。ヘタレな利愛菜のことだから、両方かもしれない。
「んー。わたしは、四季手ちゃんの気持ち、わかるよ~?」
「えっ……ちょ、みなぽよまで……」
「でもさ~? こうも思うんだよねぇ~」
珍しく、未奈和は真剣な顔で黒板を見つめている。その先には、ドロップアウト、と、矢々子が書いた荒々しい文字があった。
「もし、そのデスゲームで、わたしが四季手ちゃんを殺してたとしたら……わたしたち、今までどおりの関係で、いられると思う~?」
「…………」
私は、その問い掛けに答えなかった。……いや、答えられなかった。
だって、そんなの。実際にそうなってみないと、わからないから。
「……ア、アタシ、自棄留のとこ、行ってくるわ。アイツのことだから、平気だとは思うけど、一応」
逃げるように、教室を後にする矢々子。廊下の電気を付けながら、おそらく、自棄留の自室へと向かって行ったのだろう。
その様子を見届けたあと、私はゆっくりと瞼を閉じる。
──私たちは、おそらく、デスゲームで脱落して、死んだ。
おそらく、というのは、記憶がないからだ。どうしてそんなものに参加したのかも、正確な死因も、生存者がいるのかすら、わからない。
でも、確かに、私たちが今いるこの高校では、デスゲームがあった。だってその痕跡が、今も生々しく残っている。
体育館、美術室、音楽室、職員室、視聴覚室、パソコン室、放送室、保健室……色々な特別教室に、それらは残っている。誰も触れないまま、時間が止まったように。
だから、きっと……全部を調べて回れば、私がどうして死んだのか。どうして全身ずぶ濡れなのか。知ることができるはずなんだ。
『知って、どうするの?』
軽く肩を叩かれて、目を開けると、そんな文字列が視界に入った。
九美音の表情は読めないし、ジェスチャーもないけど、彼女が不安げにしていることが、薄々感じ取れた。伊達に二年も付き合っていない。
「……そんなの、わからないわよ」
私には、わからないことしかない。だからこそ、知りたい。わかりたい。
たとえ、この六人が──ドロップアウトの皆が、バラバラになったとしても。
そう思うことは、いけないことなのだろうか。
「あっ、しきっち……」
教室を出て行こうとした私を、利愛菜が引き留める。今にも泣き出しそうな顔をしていたので、彼女を安心させようと、柄にもなく微笑んだ。
「……お手洗いよ。こんな夜更けに、肝試しはしたくないもの」
ガラガラと音を立てて、扉は閉まる。
乾いたモップを後ろ手にして、廊下を歩き出した。水を拭いた痕だけが、一直線に伸びていた。




