↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/3

第三話 目覚め

最初に感じたのは、水の冷たさだった。


髪、服、靴。……あらゆる部分が水を吸っていて、重く床に張り付いている。

上体を起こそうとすると、全身がそれに抵抗した。


それでも腕に力を入れて、身体を持ち上げる。


ぼやけた視界に入って来たのは、空一面に広がる灰色だった。


──まるで、蓋のない長方形の箱の中にいるみたいだ。


空だけが見えていて、地べたと前後左右の壁には、規則正しくタイルが貼られている。

よく見ると、四隅には水や苔がうっすらと溜まっていた。


それから、鼻を突くような特有の塩素の匂い。

床に描かれた真っ直ぐな線。数字の描かれた飛び込み台……。


「……ここって、もしかして」


水が抜かれた、プールの底。


それが、私が倒れていた場所だった。


……どうして、こんなところにいるんだろう。わけもわからず、視線を下ろす。


自分の身体に、水を吸った紺色のセーラー服が貼り付いていた。

大きな襟は肩にへばりつき、胸元の赤いリボンは、重く垂れ下がっている。


上着と同じ色のスカートは、足の輪郭に沿うようにへばりついている。

手を伸ばして裾を持ち上げると、じわりと水が滲み出てきた。


どこかの学校の制服だろうか。これを着ているということは、私は学生なのだろうか?


……というか、そんなことよりも……。


「私は一体、誰なの?」


自分の名前がわからない。


家族のことも、誕生日も、好きなものも…………何一つ、記憶にない。


頭の中をどれだけ探っても、そこに広がっているのは空白ばかり。

私という人間を形作るはずのものが、何もなかった。


混乱しながら、ゆっくりと立ち上がる。床が水浸しになっているせいで、転びそうになった。


産まれたての小鹿のような足取りで、縁から伸びている梯子へと歩き出す。


「よっ……と」


錆だらけの手摺りを掴んで、顔を上げる。


その瞬間、曇り空から、何か白いものが舞い降りてきていた。


雪だ。小さな結晶が、音もなく落ちてきている。どうやら、今の季節は冬らしい。

……それにしては、寒さを一切感じない。冷たい水でびしょ濡れになっているのに。


混乱しつつも、身体を持ち上げて梯子を上る。

筋力や体力はそれなりにあるみたいで、あっという間に上りきることができた。


プールサイドに立ち、辺りを見渡す。

すると、すぐそこに、大きな建物が聳え立っているのに気が付いた。


くすんだ白壁に、窓がズラリと並んでいる。全てカーテンが閉じられていて、内部の様子は確認できない。

屋内の渡り廊下が、棟と棟を繋ぎ、更に奥には、天井の高いドーム状の屋根が見えた。


新帝志高校。


突如として、この学校の名前が頭に過った。


名前だけじゃない。今見ているこの景色は、不思議と見覚えがある。初めて見るはずなのに。


……矛盾しているのはわかっている。でも、そうとしか表現できない。


更に言えば、どのドアを開けてどの廊下を進めば、どこに辿り着くのかも、何故か理解していた。

けれど、高校のことがわかるということは、私はここの生徒なのかもしれない。今着ているセーラー服も、この高校の制服だ。きっとそうだ。


……それにしても、どうしてこんなに濡れているんだろう。

さっきまで雨が降っていたような形跡もないし、プールに水が溜まっていた様子もなかった。


いい加減、このびしょ濡れの服にもうんざりだ。

色々と気になることはあるけど、ひとまずは、着替えを探そう。そのあとで、誰かに助けを求めよう。……校舎の中に入れれば、だけど。


そう思いながら、プールをあとにする。


歩くたびに、靴の中でぐちゃりと音がする。


いっそのこと、靴と靴下は脱いでしまおうか。そう思うくらい、不快で仕方がなかった。



+++



独立されたプールとその脱衣所を抜けると、一棟の二階に出た。


一棟は通称・部室棟と呼ばれていて、一階にはトレーニング室や道場、体育館へ出入口があるらしい……って、そうなんだ。


自分の頭にふっと湧いて出た情報に、自分で驚く。……何だか、変な感じだ。一人でコントをしているみたい。


脱いだ外靴を片手に、濡れた靴下のまま、部室棟を抜けていく。


ふと窓の外を見ると、はらはらと舞っていた雪の量は、あっという間に多くなっていた。

真っ白で、外が見えなくなってしまうほどに。


寒さを感じないとはいえ、こんな姿で雪まみれになるのは、何だかみっともない。

羞恥心を抱いている場合ではないけど、とにかく、早々に校内に入れたのは、不幸中の幸いだった。


とはいえ、幸いなことはそのくらいだった。


校舎内に、人の気配が一切ない。


誰かの話し声も、足音も、何も聞こえないのだ。


それに気づいたのは、二棟に進んで、一年生の教室を覗いているときだった。


空っぽの教室は、机と椅子がきっちり並んでいて、壁にはたくさんの掲示物が貼り出されている。

中には、黒板に落書きがされたままの教室もあった。


もしかしたら、今日は土日なのかもしれない。もしくは、冬期休暇。……いや。鍵が開いていたんだから、そんなはずはない。単に、早朝すぎるだけで、職員室には先生がきっといるはずだ。


そんなことを自分に言い聞かせても、この違和感は、一向に拭われない。


まるで、美術館に展示されたものを見ているかのようだ。

物はあるのに、そこに生きた時間が流れていない。この学校どころか、この世界に私一人しかいないのではないか、という錯覚に陥る。


……いやいや。何を馬鹿なことを考えているんだ、私は。


首を横に振って、違和感を振り払う。その拍子に水が飛び散って、濡れた髪が顔に貼り付いた。


こんな状況になって、気が動転しているだけだ。私以外に人がいないなんて、そんなことあるはずがない。そう自分に言い聞かせながら、もう一人の私の情報を頼りに、職員室へと歩き出す。


そして、一年A組の教室を通り過ぎた、その時だった。


「あ」


階段の近くに、水飲み場と鏡がある。


慎重に、けれど急ぎ足でそこに近寄り、自分の顔を見た。


そこに映っていたのは……紺色の長い髪を水でべったりと張り付かせた、綺麗な女の子だった。


切れ長の目で、瞳は深く青みがかった黒。

鼻筋がすっと通っていて、唇は薄い。顎のラインが細く、肌が白かった。


両手で自分の顔をぐりぐりと触ると、ちゃんと肌の感触がある。間違いなく、自分の顔なのだろう。

……でも、何だか、いまいちピンと来ない。どこか人形めいているというか、整いすぎているような気がする。


……まあいい。とにかく今は、職員室へ向かおう。

服を着替えて、先生に話をして、それから病院へ行こう。そうすれば、おのずとわかってくるはずだ。


私はもう一人の私の情報を信用して、階段を下る。この階の下に、職員室が……。


──助けて。


ピタリ、と足を止める。


渡り廊下の向こうから、声がした。


「誰かいるの?」思わず声をかける。返って来たのは、またしても同じ言葉だった。「助けて」


「……待ってて! 今すぐ行くから!」


ほんの少しだけ迷って、三棟へと駆け出す。窓があるのに真っ暗で、とても不気味だったけど、消え入りそうな声を放っておくことなどできなかった。


暗澹たる雰囲気に飲まれそうになりつつも、非常口の蛍光灯だけを頼りに前へ進む。

三棟には、美術室や家庭科室、音楽室といった特別教室が並んでいるはずだ。


「助けて」


声は確かに、廊下を抜けてすぐそこにあった美術室から聞こえていた。

扉は少し開いていて、隙間から冷えた空気が漏れている。


でも、単純な冷気ではない。何かが染み込んだような、重く、粘り気のある空気だった。


「…………」


明らかに、変だ。


三棟の雰囲気も、暗い美術室も、無機質な声も──私がここまで辿り着いたことも。


放っておけない? ……記憶がないけど、たぶん私は、人並みに正義感があると思う。

でもだからって、不気味なこの三棟に、何の抵抗も懸念もなく入っていくだろうか。


何者かに……いや。ナニカに、誘導されている。


そう思った矢先。


「っ!?」


扉の奥から、白く、長い手が伸びてきた。


お前も道連れにしてやる──そんな怨念が刻み込まれたソレは、私の左腕を強く掴んだ。


踏ん張っても留まれず、退かそうとしてもすり抜けてしまう。

幽霊の手が、私を中へと引き摺り込もうとしている。


「た、助けて……助けて……!」


今度は、私が救いを求める番だった。


渡り廊下を越えて、二棟まで届くように。震える口をめいっぱい開けて、叫んだ。叫び続けた。


幽霊の手はじわり、じわりと私の腕を引っ張り、既に、肩付近まで美術室の中へと入ってしまっている。左腕の感覚は、もはやない。


扉に近づいたことで、微かに教室内の様子が見えた。手の先に何があるかはわからなかったけど、壁や天井、床にたくさんの血液と肉片が散らばっている。


……模型なんかじゃない。アレは、本物の……。


「アンタ、何してんのよ!」


しばらくして聞こえてきたのは、女の子の声だった。


驚いて目を開けた瞬間、美術室へ誘う手の感覚が、プツリと途切れた。


私は急いで左腕を引き寄せ、扉を閉める。

……あんなに強い力で掴まれていたのに、袖を捲っても、痕一つ残っていなかった。


恐怖で足がすくんだのか、それとも、何事もなくて安堵したからか。途端に両足の力が入らなくなり、ぐらりと視界が揺らいだ。


「ちょっと、大丈夫?」


どん、と背中が何かにぶつかった。


「あ、ありがとう」


そう言って、ゆっくりと背後に目をやる。


私の身体を支えてくれていたのは、私と同い年くらいの女の子だった。


「え……?」


真っ先に目が奪われたのは、矢だった。


その子の頭に、一本の矢が刺さっている。黒い羽根がついた、細長い矢が。

深々と刺さったそれは、眉間から後頭部の方まで貫通している。


「た、大変。貴女、怪我をしているわ。早く救急車を呼ばないと……!」


「あー……まぁ、気にしないで。これっぽっちも痛くないから」


肩まで伸びた深緑色の髪を揺らして、彼女は首を横に振る。


「痛くないってそんな…………あ、もしかして、そういう小道具?」


「そういうわけじゃ……って、こんなところで話してても仕方ないか。来て」


あくまで明るい口調で、彼女は私の腕を引っ張る。

ヒヤリと冷たかったけれど、教室内から伸びてきた手とは全く違う。心が落ち着くような、柔らかな感覚が伝わった。


「……ね、ねぇ」


「何?」


「さっき……あの教室から、声がしたわ。手も伸びてきて……引っ張られそうになったの。あれは……何だったの」


こんなことを聞いても、彼女を困らせるだけだということは、十二分にわかっていた。

けれど、あのまま飲み込んでおくこともできなかった。


「アンタ、ソレを体験してどう思ったの?」


「へ?」


予想だにしてなかった返しが来て、素っ頓狂な声が漏れる。ややあって、私はこう答えた。


「……そうね、幻影のようだったわ。積もりに積もった遺恨……みたいな。生きた人間とはとても思えなかった」


「なるほどね。なら、きっとそうなんじゃない?」


「?」


彼女の返事の意味がわからず困惑していると、あっという間に二棟の廊下へと出た。


依然として窓の外は雪の白で覆われていたけれど、三棟よりも遥かに眩しい。目が慣れるまで、少し時間がかかった。


「まだ歩ける? もし辛かったら、皆を呼んでくるけど」


皆。

その単語に引っ掛かりを覚えつつ、「平気よ」と強がった。


頭に矢が刺さった女の子は、ニコリと笑う。そこには、下心や悪意が一切ないように見えた。


……たぶん、この子はとても良い子だ。


出会ってからまだ数分しか経っていないのに、もう一人の私までもが、そう感じていた。



+++



「今から四人と顔を合わせることになるけど、驚かないでよ」


目的地に着く前、こう言われた。


記憶喪失。


不気味な現象。


そして、矢が頭に刺さったまま動く女の子。


既にこれだけの異変を目の当たりにしているのだから、驚きすぎて驚けないと思う。


そう思っていたのに。


「誰だ、ソイツは」


階段を上った先にある。三年A組の教室。


矢の子に誘導されてやってきた場所には、確かに四人の女の子がいる。


いる、けど……それぞれが、大きな怪我をしている。


全身が火傷痕だらけの子。


胸元にたくさんの穴が開いた子。


麻縄が首が締め付けられている子。


そして……首が──頭が存在しない子。


どの子も血は出ていないし、身体を動かしてもいる。


……私は、夢でも見ているのだろうか。


「誰かなんて、アタシが知るわけないでしょ。……ホラ。自己紹介して」


矢の女の子は私の後ろに回り、背中をそっと押す。四人(三人)の視線が、私に集まった。


「え……え、ええと……?」


自己紹介も何も、私には名前がわからない。

そもそも、彼女たちは一体何? 頭の中がぐるぐるして、今にもショートしてしまいそうだった。


「急にそんなこと言われても、困っちゃうよね〜?」


何から言うべきか迷っていると、首に縄がある女の子がすっと椅子から立ち上がり、私にへにゃりとした笑顔を向けた。


亜麻色の髪は、耳の辺りでふわりと丸みを帯びている。一方で、首にぴったりと食い込んでいる麻縄は、無骨そのもの。見ているだけで、息が詰まりそうになった。


「今から、いろいろと質問していくけど~、それでもいいかな~?」


見た目にそぐわない、のんびりとした声色だった。

私の緊張が、ほんの少しだけ解れる。


「まず、あなたはどこで目覚めたの~?」


「……プールの底よ。水が入ってない、空っぽのプールで仰向けになっていたわ」


そう答えた瞬間、胸に穴がある女の子が目を丸くした。


「うげっ、マジ? そりゃ誰も見つけられないわー! てか、雪ダイジョーブだったの?」


「え、ええ。大丈夫よ。ひどくなるよりも前に、校舎に入ってこれたから」


「へぇー! そうなんだ! ヤバ、めっちゃラッキーだったじゃん!」


桃色のポニーテールを揺らしながら、ケラケラと笑い出す。


その子は私たちと同じセーラー服を着ているけど、何故かオフショルダーで、肩や鎖骨周りが大きく開いていた。

そのせいで、彼女が動くたびに、胸元のたくさんの穴が視界に入る。断面は真っ黒で、身体の向こうの景色が見えた。


「んだよ。じゃあ、起きたばっかじゃねぇか。……一応聞いておくが、名前は? 記憶はあるか?」


鋭い目突きにドキリとしたが、睨んでいるわけではないようだ。私は首を横に振る。


「……ま、だよなぁ。ハァ〜……」


窓際で腕を組んでいた女の子は、深く、長い溜め息を吐く。


顔、首元、手。見える範囲の肌全てに、火傷の跡が這っでいた。赤く盛り上がっているところと、へこんで爛れているところが混在している。

明るい茶色の長髪を靡かせて、その子はゆっくりと私に近づく。柔らかい温かさが、じわりと伝わって来た。


「オレらも同じだ」


「え?」


「オレたちも記憶がない。名前もわからない。お前と同じでさっき目が覚めて、ここに集まった」


火傷の子の言葉を反芻しながら、一人一人の顔を見る。


「そ……それなら、誰かに助けを請わないといけないわよね。救急車とか、警察とか……」


「それは無理」


矢の子は、いつの間にか椅子に座っていて、頬杖を付いていた。携帯電話の画面をこちらに向けている。


「電波は繋がらない。電話も通じない。それに……信じられないかもしれないけど、この学校の敷地の外に出ることもできないの。見えない壁みたいなのに阻まれているから」


そう言われて、窓の外と、矢の子の顔を交互に見やる。


ここにいる全員、冗談を言っている様子も、演技をしている素振りもない。私はややあって、「そう」と、一言呟いた。


「ハッ。オマエ、随分と聞き分けがいいな。「そんなことあるわけないでしょー!」つって、走り出したバカとは大違いだぜ」


ふと、矢の子と火傷の子の視線が交錯する。


ほんの一瞬だけ空気がピリついたが、すぐに私が遮った。


「別に、信じきってるわけじゃないわ。後でゆっくり確かめればいいだけだもの」


それに、こんな雪の中で、外に出たくないし。


「それじゃあ、先生や他の生徒は? もし今日が休校でも、警備員のおじさんくらいはいるでしょう? 美術室の中にも、誰かいたみたいだったし」


「え、マジ。びしょ濡れちゃん、もしかして、特別教室に行ったの……? ……凄ッ……ゆ、勇気あるね……」


胸の穴の子は顔を真っ青にして、ガクガクと震え出す。その場でしゃがみ込み、体育座りの状態で顔を覆った。


「へ〜、びしょ濡れちゃんだって。雑だけど良い呼び方だね〜。わたしもそう呼ぼうかな~?」


縄の子が、上体ごと胸の穴の子を向いて言った。首が動かないせいで、向き直るのに少し時間がかかってた。


「オイ、お前らうるさいぞ」


火傷の子が声を荒げると、二人は黙った。

私としても、雑談より話を進めてくれる方がありがたい。美術室で起きた出来事が何だったのかを、知ることができるかもしれないのだから。


──けれど。


「二度と特別教室には行くな。そのことを話題にも出すな」


けれど、返って来たのは、期待外れな言葉だった。


「今回は見逃してやる。お前がそこで何を見聞きしたかは知らないが、忘れろ。そして、俺たちに共有するな」


「り、理由を教えて。今の私たちの状況は、明らかにおかしいのよ? 少しでも状況を理解するために、探索した方がいいんじゃないの?」


皆もそう思うわよね? そんな意図を含んで、全員の顔を見る。

しかし、目が合わない。まるで、火傷の子の発言を受け入れているかのような……。


「……納得、できないわ」


吐き捨てるようにそう呟く。


「どうして記憶がないのか。どうして閉じ込められているのか。どうして身体がこんなことになっているのか。……行けばわかるだなんて保証は、確かにないわ。でも、少しでも可能性があるなら……」


『デスゲーム』


綺麗な文字にそぐわない、恐ろしい単語。


私の目の前にノートを突き付けているのは、首から上が無い子だった。五人の女の子の中で、最も異質な存在の……。


セーラー服の着こなしは、誰よりも整っていてお手本のようだ。タートルネックのインナーが覗いていることを除けば、の話だけれど。

決して、目の錯覚やマジックなんかじゃない。彼女は頭部がないまま、動いている。……そもそも、触覚以外の五感はあるのだろうか。


……って、そんなことより。


「デスゲームって、何のこと?」


「とぼけるな」


火傷の子はドスの効いた声で、ピシャリと言い放つ。


「俺らに記憶はない。それは事実だ。でも、知ってるはずだぞ。この学校で何があったのか。そして、俺らが何に巻き込まれたのか」


「……っ!」


次の瞬間、何かが身体を通り抜けた。


それは、記憶というより、感覚。


血の匂い、肉が裂ける音、女の子の悲鳴、汗、涙、息の詰まる攻防、裏切り、騙し合い──。


途端に呼吸が荒くなり、両足の力が抜けていく。頭の奥が刺すように痛い。ふらふらと床に倒れ込み、瞼を閉じる。


「アタシたちは、デスゲームで死んだんだと思う。少なくとも、アンタ以外はそう思ってる。……まだ、確証はないけどね」


荒唐無稽だ。

そう言い切ることは、私にはできなかった。


特別教室の異様さ。


人の気配がない校舎。


寒さを感じないこの身体。


怪我や欠損があっても動ける女の子たち。


そして何より、身体に刻み込まれた感覚は、私を納得させるのには十分すぎるほどの劇薬だった。


「……で、でも……私たちが幽霊なら尚更、何があったのか知りたいでしょう。それに、記憶がないことと、敷地外に出られないことについては、まだ説明がつかないわけだし……」


「まあまあ。ちょっと落ち着こうよ~、びしょ濡れちゃん。もっと単純に考えよ〜?」


「た、単純?」


「そうだよ~」


縄の子はニコニコと笑いながら、私に近づく。

そして、彼女の骨ばった細い手のひらが、私の頭に触れた。


「いきなりダンジョン攻略を始めるよりも、ルールを把握したり、装備を整えたり、レベルや好感度を上げた方がいいでしょ〜? つまり、そういうことだよ~。今は、見通し立てることを優先に考えよ〜?」


「…………」


「なるべく穏便に、のんびりやっていこうよ~。仲良く情報交換できる方が、きっと攻略も捗るよ〜」


縄の子は、自らの手が濡れるのも厭わずに、私の頭を撫でる。

彼女の言うことは尤もだった。私は口を一文字に結び、気持ちを落ち着かせる。


「おい、お前。勝手なこと言うな。見通しが立っていようがいまいが、特別教室に行くのはダメだ。デスゲームのことを口にするのだって──」


「あ〜。そうやって、主張を押し付けるのもよくないよ〜。チームの崩壊に繋がるからね〜。仲良くしよ~? ね~?」


「……チッ……いいか。少なくともオレの前では口にするなよ」


食って掛かるかと思ったが、火傷の子はそっぽを向いて黙り込んだ。

どうやら、強制するつもりはないようだ。……けど。


「ウチ、あんな怖いトコ、絶対行きたくないよ……」


微かに聞こえた、胸の穴の子の呟き。

……特別教室が気になるとは言いつつも、私も同じ思いだった。当分は、行く機会はなさそうだ。


私は縄の子の手を優しく払い、ゆっくりと立ち上がる。

窓の外では、未だに雪が降り続けていた。


──死んだ。


その事実が、重くのしかかる。


でも、私は確かにここにいる。寒さは感じないけど、目も耳も機能している。


だからきっと、幽霊なんかじゃない。そう思って、私は自分の両足を見た。


目覚めてから時間が経っているはずなのに、スカートも、靴下も、乾く気配がない。

それどころか、名前も、好きなものもわからないまま。


……でも、私は一人じゃない。


今はそれだけで十分だ。デスゲームのことも、特別教室のことも……後で考えよう。


何度も、何度も、自分にそう言い聞かせる。


ぎゅうぎゅうに詰められた探求心の蓋を、無理やり、押し付けるように。


何度も、何度も。



+++



懐かしい夢を見ていた。


昨日、未奈和が昔のことを口にしたせいかもしれない。

羊みたいな形の天井のシミを眺めながら、ぼんやりと物思いにふける。


ゆっくりと身体を起こすと、部屋着の袖口から水が垂れて、エアマットの防水加工がそれを弾いた。


寝袋の表面は、いつも通り湿っている。

外は雨が降っているようで、窓のすりガラスは水滴で埋まっていた。


灰色の空から差し込む光は、薄く、頼りない。

……今は、何時なのだろう。そう思って、暗がりの部屋を見渡す。


壁際には、形も大きさも素材も異なるモップが、何本も立て掛けられている。

湿度の高いこの部屋では中々乾きにくいので、半数は骨組みだけだ。


左右の棚の上には、バレーボールとエナメルバッグが並んでいる。

私にバレーの趣味はないので、置いておく理由はないのだけれど、いまいち捨てる気にはならなかった。ここを部室として残しておきたいという思いが、心の隅にあるのかもしれない。


湿ったテーブルの上には、携帯食料が入った防水仕様の箱が積み重なっている。

私は上半身だけを起こしたままの状態で、それを口にした。


──その時だった。


廊下から慌ただしい音がしたあと、コンコンと扉がノックされた。


「むぐ……ど、どうぞ」


急いでごはんを飲み込んでそう言うと、ガチャリという音とともに、ドアノブが回った。


「…………」


そこに立っていたのは、矢々子だった。

廊下の蛍光灯が逆光になっていて、顔色が読めない。


深緑のショートカットやセーラー服を覆うように、黄色いカッパを羽織っている。


彼女が扉を閉めると、足元で水が跳ねた。

しかし、矢々子は長靴を履いていたので、何の被害も受けていなかった。


私の部屋に入る人は皆、このように抜かりない格好をしている。

その度に、申し訳ない気持ちになるのだ。


矢々子は表情を強張らせたまま、私の傍に近寄る。

よく見ると眉間の皺はかなり深く、矢も僅かに歪んでいる。


しばらく、雨の音だけが部屋の中に響いていた。


「何かあったの?」


電池式のランタンを付けながら、そう尋ねる。すると、矢々子はハァと溜め息を吐いた。


「何かあったの? じゃないよ。アンタ、丸一日ここに籠ってたんだから」


「え?……嘘。それ、本当?」


明るくなった部屋で、矢々子はアナログ時計を指差した。

視線をやると、確かに日付は変わっていた。


じわりと、実感が追いついてきた。丸一日……それだけの時間、ここで眠っていたのか。


「皆、心配してたんだから。大丈夫?」


戸惑いながら、首を縦に振る。


矢々子はいつも、こういうときに率先して動いてくれる。

本人は否定していたけれど、世話焼きで優しいのだ。時には、お母さんのような寛容さすら感じる。


「……まあでも、無理もないか」


その呟き声には、どこか含みがあるような気がした。

少しの間があったあと、矢が当たらないようにしながら、私の耳元に顔を近づけた。


「美術室で気絶してたくらいだから、キャパオーバーだったんでしょ。色々と」


美術室。


その単語が、頭の中で反響した。

昨日……いや、一昨日のことが、靄の中から少しずつ形を取り戻してくる。


生臭い匂い。赤黒い染み。のっぺらぼうの石膏像。──白い花の髪飾り。


それを見て、私はそのまま気絶してしまったんだ。それなのに、何故か私は廊下で寝ていたことになっていて……ドロップアウトの皆も、疑うことなくそれを受け入れていた。


「ま、まさか」


心臓が、うるさいほど高鳴り始める。

喉の奥が詰まって、続きの言葉が出てこなかった。


それでも、矢々子はフンと鼻息を鳴らして、私の疑問に答えてくれた。


「そ。アンタを美術室から運んだのは、アタシ」


「…………」


「安心して。誰にも言ってないから。……まあ、九美音はわかってそうだけど」


「……どういうこと?」


両手を挙げている矢々子を見て、警戒心が収まり始める。徐々に、思考も冷静になってきた。


「模様替えで教室を出る前、アンタと九美音、何かコソコソしてたでしょ」


……バレていたのか。

無性に恥ずかしくなった私は、膝の上の手に視線を向ける。


「気づかないフリするの、大変だったんだから」と、呆れたような笑みを浮かべる矢々子。


「アンタと別れてすぐ、九美音に問い詰めたの。最初は渋ってたけど、しばらく一緒の布団で寝てあげるって言ったら、すぐ白状した」


「……随分と思い切ったわね」


九美音はレズビアンを自称していて、ドロップアウトのメンバーに性的なアピールをすることは珍しくない。今回は結果として、九美音の性欲に助けられた形になったわけだ。

内心で感謝する一方で、あの子との接し方を考え直そうと思った。


「で、嫌な予感がして美術室に行ったら、アンタが倒れてたってワケ」


そう言って、矢々子は頭の矢にそっと触れた。


「そうだったの……迷惑かけたわね」


「ホントよ。感謝しなさいよね。あんな空間、思い出しただけで吐きそうになる」


声のトーンは素っ気なかったが、彼女の目と手は、小さく震えていた。

足がすくむような怖い思いをしながら、私を運んでくれた。その事実が、じわりと胸に沁みた。


「ありがとう」


私はそっとその手に触れて、頭を下げる。その拍子に、濡れた髪から水滴が床に落ちた。


矢々子はフンッとそっぽを向く。


「……で? 何かわかったの?」


彼女が何を言いたいのか、すぐにわかった。私はゆっくりと顔を上げる。


「……ほんの少しだけ、記憶が蘇ったわ。とても嫌な記憶だった。……でも、それくらい。美術室でのゲームの詳細とか、参加者とか……そういったことは、何も」


「そう」


矢々子は短く呟くと、私に背を向けて距離を取った。

ややあって踵を返し、こちらに人差し指を向ける。


「いい? 次からは勝手に行くようなことしないで。誰かに伝えてから行くようにしなさい。わかった?」


彼女の眼差しは、声色は、真剣そのものだった。


……誰かに言えと言われても、言えるような人は誰もいない。返事に困っていると、矢々子は「あーもうっ!」と、勢いよくカッパのフードを取っ払った。


「このにぶちん! 要するに、アタシに言えってこと! わかった!?」


「え……い、いいの?」


矢々子は無言のまま俯いた。頭に刺さった矢先が、ランタンの橙色の光をキラリと反射した。


「……正直、アタシも気になるの。デスゲームのこと」


少し間があって、彼女は続ける。


「だから、協力してあげる。一緒に行くのは……まだちょっと抵抗あるけど、努力する。一人で行くなら、皆に気づかれないようアタシがフォローするから」


自棄留も、未奈和も、九美音も、利愛菜も。


各々が各々の理由で、特別教室を避けている。デスゲームから目を逸らし続けている。


気持ちはよくわかる。つい最近までは、私も皆と同じだったから。


でも……私たちが目覚めてから……ここで過ごしてから、もう二年が経っている。

それは、無理やり押し込んだ探究心の蓋が外れるのには、十分すぎる年月だった。


そして──蓋が外れていたのは、私だけじゃなかった。

矢々子もまた、心の奥底で燻る火を抱えていたのだ。


隣に立って、同じ方角を向いてくれる人がいる。

それは、今の私にとって、とても心強い存在だった。


「本当に、ありがとう。矢々子。……そういえば、私が目覚めたばかりのときも、矢々子が助けてくれたわよね。二回も助けられるなんて……申し訳ないわ」


「あー。ま、そんなこともあったっけ」


後頭部を掻きながら、照れ臭そうにそっぽを向く。

そして、優しい手つきで自身の矢に触れた。


「実は、まだ誰にも言ってないんだけど……偶に、矢先が熱くなるときがあるの。そういうときは大抵、トラブルが起きてる」


「え? じゃあ、貴女がさっき言ってた、嫌な予感って……」


「根拠があるわけじゃないけどね。でもまあ、少なくとも、初対面のときと今回は役に立ったかな」


思い返せば、矢々子は先回りして動いていることが多かった。まさか、そんなカラクリがあったなんて。


……他の子にも、そういうのがあるのだろうか。もしかしたら、私にも……?


「って、そんなことより、今後のこと気にしなさいよ、四季手。アタシが協力する以上、何も考えずに突っ走ったりしないでよね」


「な、何も考えていなかったわけじゃないわよ。一人行動できるタイミングだったから、今しかないって判断しただけで」


「それを突っ走るって言うの! ホント、アンタって、繊細なんだか大胆なんだか……」


返す言葉もなく、私は口を閉ざした。


自覚はしている。彼女の言うことは正しい。あの頃の未奈和の言葉を借りるなら、私にはまだ、装備やレベル上げが足りていないのかもしれない。


でも、決して無駄なんかじゃなかった。美術室で見たものは、脳裏に色濃く根付いている。断片的に見えた記憶だって、重要な手掛かりだ。


ゆっくりでいい。少しずつ、少しずつ、特別教室を探索していけば、最後にはきっと──。


「ホラ、気が済んだらさっさと行くよ」


「? 行くって、どこに?」


「決まってんでしょ。いつもの教室」


矢々子は扉を開けて、こちらに手を向ける。私はすぐさまベッドから飛び降り、その手を取った。


いつの間にか雨音は収まっていて、廊下の窓には、大きな虹が広がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。