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城壁横の古龍さんは住民票がありません  作者: 乾燥しいたけ
第一章 赤い布の内側で

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第9話 ドラゴン、市場の計算違いを見つける



ドラゴン生活六日目・朝。


俺、竜咲空。


巨大ドラゴンとして、城壁都市レグナの西門外に仮滞在している。


昨日、俺は子どもたちに算術を教えた。


パンを三人で分ける話。


余りの話。


銅貨十枚を出した時のおつりの話。


内容としては、本当に簡単なものだった。


前世なら、小学校の算数だ。


いや、俺が小学生だった頃の記憶はだいぶ怪しいけど、さすがにそのくらいは分かる。


でも、この街の子どもたちにとっては、生活にそのまま関わる話だった。


市場でおつりを間違えない。


パンの数を分ける。


余ったものをどうするか考える。


それは、俺の鱗を渡すよりずっと健全な貢献だった。


少なくとも、俺の体は削れない。


その代わり、今日は朝からリシェルさんの書類が増えていた。


「ソラ殿」


「はい」


「昨日の算術教室について、追加確認を行います」


「追加確認」


「はい。未成年者への遠隔算術指導が、実際の市場行動に影響する可能性があります」


「つまり?」


「子どもが市場で計算に口を出す可能性があります」


「ああ……」


ありそう。


ものすごくありそう。


特にトマくん。


昨日の様子を見る限り、覚えたことをすぐ使いたがるタイプだ。


リナちゃんは慎重そうだけど、間違いに気づいたら黙っていられない気もする。


ピートくんは、たぶんパンが絡むと動く。


「それ、いいことでは?」


俺が聞くと、リシェルさんは即答しなかった。


「正しい計算を行うこと自体は良いことです」


「はい」


「ですが、相手が商人の場合、値付け、まとめ売り、サービス、税、運搬費など、単純計算だけでは判断できない要素があります」


「なるほど」


「また、子どもが相手の商売に口を出したと受け取られる可能性もあります」


「それはありそう」


「さらに、ソラ殿が教えたという事実があるため、問題が大きくなる可能性があります」


「俺の名前が出ると?」


「はい。大型竜種が市場取引へ間接的に関与した、と見られる恐れがあります」


俺は黙った。


算術を教えただけ。


でも、それが市場で使われると、街の中の商売に影響する。


まただ。


俺が何かをすると、小さなことでも大きくなる。


パンを食べただけで商品化の話になる。


鱗一枚で商人が動く。


爪跡を測れば地面補強と爪保護具の話になる。


算術を教えれば、市場取引の問題になる。


「じゃあ、教えない方がよかったですか」


思わず聞いてしまった。


リシェルさんは、俺を見た。


「いいえ」


短い答えだった。


「昨日の算術教室は、街に利益をもたらす可能性があります。ただし、利益があるものほど、扱い方が必要です」


「また手順ですね」


「はい」


「算術にも手順が」


「必要です」


必要。


今日も必要だった。


リシェルさんは書類を一枚めくった。


「今後、子どもたちには、計算違いに気づいた場合、すぐに相手を責めるのではなく、保護者または市場係へ確認するよう伝えます」


「それがよさそうです」


「また、ソラ殿は市場での個別取引について、直接断定しないでください」


「俺は市場に入れないので」


「入れなくても、城壁越しに判断を求められる可能性があります」


「ああ、ありそう」


かなりありそう。


トマくんが走ってきて、「ソラ先生、これ違うよね!」と言う未来が見える。


俺は城壁を見た。


その向こうから、朝の市場のざわめきが少し聞こえる。


人の声。


荷車の音。


硬貨の音。


パンの匂い。


干し果物の甘い匂いも、かすかに風に乗ってきた。


その時点で、少し嫌な予感がした。


昼前。


予感は、かなり早く当たった。


西門の方から、子どもの声が聞こえた。


「リシェル様ー!」


トマくんだった。


城壁の上ではない。


門の内側にいるらしい。


声がかなり慌てている。


リシェルさんがすぐに顔を上げる。


「トマさん。走らないでください」


「走ってない!」


「息が上がっています」


「早歩き!」


「早歩きも状況によっては走行扱いです」


「ええー!」


リシェルさんは門の方へ向かう。


俺は動かない。


赤い布の内側。


尻尾固定。


鼻息上。


声量注意。


何かが起きても、勝手に動かない。


リシェルさんの声が聞こえる。


「何がありましたか」


「市場で、干し果物が!」


来た。


干し果物。


昨日、夜の市場で見えていた袋の話だろうか。


いや、俺は見ていない。


城壁の外からは分からない。


ソラ先生として関わったのは、昨日の算術教室だけだ。


俺が勝手に知っている顔をしてはいけない。


「落ち着いて説明してください」


リシェルさんが言う。


少しして、城門の人通り用の扉が開いた。


リシェルさん、ラウル隊長、トマくん、リナちゃん、ピートくん。


それからトマくんのお母さんらしき女性。


さらに、干し果物の袋を抱えた中年の男が出てきた。


男は明らかに不機嫌だった。


細い目。


赤茶色の上着。


腰には小さな帳面。


商人だ。


昨日、鱗を見ていたバルドとは違う。


この人は食料商人なのだろう。


「ソラ殿」


リシェルさんが赤い布の外側まで来て言った。


「はい」


「市場で計算に関する確認依頼が発生しました。ただし、あなたは断定ではなく、提示された数字の計算確認のみを行ってください」


「分かりました」


「商人の意図について判断しないこと」


「はい」


「不正と断じないこと」


「はい」


「声量に注意」


「はい」


ものすごく厳重だ。


でも、必要だ。


商売の話は、人の生活に直結する。


そこで巨大ドラゴンが「それ間違いです」と言えば、たぶん大ごとになる。


リシェルさんは、トマくんに視線を向けた。


「トマさん。説明を」


トマくんは、少し緊張した顔で前に出た。


ただし赤い布からは十分離れている。


昨日より、少しだけ大人しく見える。


「干し果物が、一袋銅貨四枚だったの」


「はい」


「それで、三袋買うと、札に銅貨十五枚って書いてあった」


俺は一瞬で分かった。


四枚が三袋なら、十二枚だ。


十五枚は高い。


でも、すぐには言わない。


リシェルさんに言われた通り、確認だけ。


「それで?」


「俺、昨日ソラ先生に教わったから、四、四、四って数えたら十二枚だと思って」


リナちゃんが横から言う。


「私も木札で数えたら十二枚でした」


ピートくんが小さく言った。


「三枚多い」


商人の男が、不機嫌そうに口を挟む。


「まとめ売りの値札を書き間違えただけだ。子どもが騒ぐほどのことじゃない」


トマくんが頬を膨らませる。


「でも、俺が言ったら、そういう値段だって言ったじゃん!」


「それは」


リシェルさんが手を上げた。


「双方、発言を止めてください」


ぴたりと止まった。


さすがリシェルさん。


俺よりよほど制圧力がある。


「ソラ殿」


「はい」


「提示された条件のみ確認してください。一袋銅貨四枚の干し果物を三袋購入する場合、単純合計はいくらですか」


俺はゆっくり答えた。


「銅貨十二枚です」


声は小さく。


でも、みんなに聞こえるように。


「計算過程を」


「四枚の袋が三つなので、四、八、十二。もしくは四かける三で十二です」


リシェルさんが記録する。


「単純合計、銅貨十二枚」


商人の男は、少し気まずそうに目を逸らした。


「だから、書き間違いだと言っている」


リシェルさんが言う。


「では、現在の正しい販売価格は?」


「一袋銅貨四枚。三袋なら銅貨十二枚だ」


「まとめ売りによる追加料金は?」


「ない」


「税または袋代は?」


「含んでいる」


「では、銅貨十五枚の表示は誤記ですね」


「……そうだ」


リシェルさんは淡々と書いた。


「市場価格表示の誤記。商人本人により確認」


トマくんが口を開きかける。


「ほら!」


「トマさん」


リシェルさんが即座に言う。


「勝ち誇らないでください」


「勝ち誇ってない!」


「顔に出ています」


「顔も駄目!?」


リナちゃんが小さく言う。


「出てたよ」


「リナまで!」


ピートくんは干し果物の袋を見ている。


たぶん食べたいのだろう。


俺は少し笑いそうになったが、抑えた。


ここで笑うと、商人の男の立場が悪くなる。


今は笑う場面ではない。


リシェルさんは、商人へ向き直った。


「価格札は修正してください。また、同様の表示が他にないか市場係へ確認を」


「分かった」


商人は渋い顔で答えた。


「ただ、これだけは言わせてもらいたい」


嫌な予感がした。


「子どもが竜に教わった計算を持ち出して、商売に口を挟む。これが広がれば、市場は混乱する」


空気が少し硬くなる。


俺は黙った。


反論したくなった。


でも、リシェルさんに言われている。


商人の意図について判断しない。


断定しない。


余計なことを言わない。


リシェルさんが答えた。


「市場における価格表示が正確であることは、混乱ではなく秩序です」


静かだけど、強い。


「ただし、子どもが不用意に商人を責めることがないよう、今後の算術指導に注意事項を加えます」


「それならいいが」


商人は、俺をちらりと見た。


「竜殿。あんたも、あんまり子どもに市場の裏を教え込まんでくれよ」


市場の裏。


その言葉に少し引っかかった。


俺は、できるだけ慎重に言った。


「俺は、市場の裏は知りません」


商人が黙る。


「教えたのは、四を三つ足すと十二になることだけです」


リシェルさんの筆が止まった。


トマくんも、リナちゃんも、俺を見る。


「その先の商売の事情は、俺には分かりません。だから、勝手に不正だとか言いません」


俺は、少し息を吸った。


「でも、四が三つで十二になることは、子どもが知っていてもいいと思います」


商人は何も言わなかった。


リシェルさんが、静かに記録する。


「ソラ殿、算術指導の範囲を明確化。商取引の意図判断は行わず、基本計算のみを扱う方針」


俺はそこで黙った。


言いすぎていないか、不安だった。


声は大きすぎなかったか。


風は出ていないか。


商人を怒らせすぎていないか。


トマくんが小さく手を上げる。


「リシェル様」


「はい」


「次からは、間違いかなって思ったら、母ちゃんか市場係に言う」


「それでよろしいです」


「でも、計算はしていい?」


「して構いません」


トマくんの顔が明るくなる。


リナちゃんも頷いた。


ピートくんは、まだ干し果物の袋を見ている。


商人は、少しだけ肩を落とした。


「分かったよ。三袋なら十二枚だ。坊主、今日は一袋おまけ……」


「おまけは不要です」


リシェルさんが即座に止めた。


「なぜ!?」


トマくんが声を上げる。


「計算確認への対価として物品を受け取ると、今後の市場行動に影響します」


「おまけ駄目なの!?」


「本日は駄目です」


トマくんはしょんぼりした。


ピートくんも、かなりしょんぼりした。


商人は逆に少し笑った。


「補佐官殿は徹底してるな」


「必要です」


その言葉に、なぜかその場の空気が少しだけ緩んだ。


その場は、リシェルさんの判断で終わった。


商人は価格札を修正すること。


市場係へ同様の誤記がないか確認すること。


子どもたちは、計算違いに気づいてもその場で騒がず、保護者か市場係へ伝えること。


ソラは、基本計算の指導は続けてもよいが、商取引の意図や不正判断には関与しないこと。


また規則が増えた。


算術教室まで、手順つきになった。


でも、悪い気はしなかった。


むしろ、少し安心した。


俺が教えたことが、市場で役に立った。


同時に、面倒も生んだ。


でも、その面倒を手順にして、次へ進める形にできた。


これはたぶん、俺がこの街で生きるために必要な流れなのだと思う。


何かをする。


問題が起きる。


リシェルさんが記録する。


アルバート子爵が判断する。


街の人が慣れる。


少しずつ、扱える範囲が増えていく。


派手ではない。


全然派手ではない。


でも、俺にはその方が合っているのかもしれない。


トマくんたちが街へ戻る前に、リナちゃんがこちらを見た。


「ソラ先生」


「はい」


「四が三つで十二なのは、間違いじゃないよね?」


「間違いじゃないです」


「じゃあ、覚えててよかった」


「うん。すごくよかった」


トマくんも言った。


「俺、明日から市場係に言う前に母ちゃんに言う!」


「それがいい」


「あと、勝ち誇らない!」


「それも大事」


「顔に出さない!」


「かなり大事」


トマくんは、真剣な顔で頷いた。


たぶん、顔には出ると思う。


でも、その気持ちが大事だ。


ピートくんが最後に小さく言った。


「干し果物、食べたかった」


俺は思わず笑いそうになった。


「それは、ちゃんと買ってもらってください」


「うん」


平和だ。


さっきまで商人ともめていたのに、最後は干し果物を食べたい話になる。


子どもは強い。


そして、市場も強い。


この街は、俺が思っているよりずっとたくましい。


午後。


リシェルさんは、今回の件をアルバート子爵へ報告するためにまとめていた。


俺は赤い布の内側で伏せながら、それを見ていた。


「本日の記録を読み上げます」


リシェルさんが言った。


「お願いします」


「市場において、未成年者三名が価格表示の誤記に気づく。理由は前日の算術指導による。ソラ殿へ計算確認を依頼。ソラ殿は基本計算のみを行い、商人の意図判断は行わず」


「はい」


「結果、価格表示は修正。子どもへの追加指導事項として、計算違い発見時は保護者または市場係へ確認することを追加」


「はい」


「街への利益事例として記録可能。ただし、市場秩序への影響について継続観察が必要」


「やっぱり、利益だけじゃないんですね」


「はい」


リシェルさんは答えた。


「あなたが街に関わる以上、利益と危険は常に同時に出ます」


その言葉は、少し重かった。


でも、今なら分かる。


俺が善意で算術を教えても、商人からすれば商売に口を出されたと感じるかもしれない。


子どもが正しい計算を覚えるのは良いこと。


でも、伝え方を間違えれば、揉め事になる。


俺は、ただ正しい答えを言えばいいわけではない。


「難しいですね」


「はい」


「でも、鱗を渡すよりはいいですよね」


「比較対象としては、明らかにこちらの方が健全です」


「よかった」


俺は少しだけ笑った。


今度は風が出なかった。


たぶん。


「リシェルさん」


「はい」


「今日のこと、王都報告に載りますか」


「載せます」


「どんな感じで?」


リシェルさんは少し考えた。


「ソラ殿による算術指導が、未成年者の市場取引理解に寄与した。価格表示の誤記発見により、住民損失を未然に防いだ可能性あり。ただし、商取引への影響については注意が必要」


「かなり真面目だ」


「報告書ですので」


「俺としては、トマくんが勝ち誇らない練習もした、ってところも大事です」


「それも別項目で記録します」


「するんだ」


リシェルさんは無表情だ。


でも、少しだけ声が柔らかい気がした。


「ソラ殿」


「はい」


「昨日の算術教室は、無駄ではありませんでした」


その一言で、胸の奥がじんわり熱くなった。


無駄ではない。


俺は、自分の体を削らなくても役に立てた。


「ありがとうございます」


「事実です」


リシェルさんらしい返事だった。


夕方。


グレタさんがパンを持ってきた。


今日は焦げパンではなく、小さく割った硬焼きパンの試作品だった。


相変わらず食事手順つきだ。


木板に載せる。


前歯で受け取る。


街と反対側を向く。


噛む。


声量注意。


「今日は市場で活躍したらしいね、竜さん」


グレタさんが言った。


「俺というより、子どもたちがです」


「子どもが気づいたなら、教えた方も少しは胸を張りな」


「胸を張ると翼が動くかもしれません」


「じゃあ心の中で張っときな」


グレタさんは笑った。


俺は硬焼きパンを噛む。


昨日より少し軽い。


焦げ香は残っている。


硬いけれど、前より苦みが少ない。


「昨日より食べやすいです。香りは残ってます。これ、スープに入れたらかなりよさそうです」


「よし」


グレタさんは満足そうに頷いた。


「じゃあ明日は、スープに入れてみるかね」


「俺も食べられます?」


「手順次第だろうね」


二人でリシェルさんを見る。


リシェルさんは、少しだけ目を細めた。


「液体を含む食事は飛散、滴下、むせの危険が増えます」


「ですよね」


「よって、手順作成が必要です」


「やっぱり」


グレタさんが肩をすくめた。


「補佐官さん、あんた本当に寝てる?」


「必要な睡眠は取っています」


「必要って言う人ほど怪しいんだよ」


グレタさんはそう言って、リシェルさんに小さな包みを渡した。


「はい。あんた用。普通のパン」


「支払いは」


「昨日の分とまとめてでいいよ」


「いえ、記録上」


「じゃあ記録して、食べな」


リシェルさんは一瞬だけ黙った。


それから、包みを受け取った。


「……感謝します」


「受け取り方が硬いねえ」


俺はそのやり取りを見て、少しだけ嬉しくなった。


俺だけではない。


俺が来たことで、リシェルさんは間違いなく忙しくなっている。


でも、グレタさんみたいにそれを見てくれる人もいる。


街は、俺だけを見ているわけではない。


ちゃんと、リシェルさんの疲れも見ている。


それが少し救いだった。


夜。


俺は赤い布の内側で丸まっていた。


今日も、何も壊していない。


いや、商人の機嫌は少し壊したかもしれない。


でも、市場の価格札は直った。


トマくんたちは計算を使えた。


リナちゃんは落ち着いて説明できた。


ピートくんは干し果物を食べられなかった。


俺は、商売の意図を勝手に断じず、計算だけを確認できた。


そしてリシェルさんは、また記録を増やした。


街に利益をもたらす可能性。


市場秩序への影響。


子どもへの追加指導。


俺の存在は、また少しだけ複雑になった。


でも、昨日より少しだけ、ここにいてもいい理由が増えた気がする。


「ソラ殿」


城壁の上から、リシェルさんの声。


「はい」


「就寝前確認です。姿勢は」


「伏せでお願いします」


「尻尾」


「赤布内です」


「翼」


「畳みます」


「火炎」


「吐きません」


「鱗」


「抜きません。渡しません」


「爪」


「指定位置を守ります」


「算術」


「市場の意図判断はしません。基本計算だけ確認します」


「よろしい」


俺の生活確認が、どんどん長くなっている。


でも、今日の項目も嫌いではなかった。


「リシェルさん」


「はい」


「今日、子どもたちすごかったですね」


「はい」


「俺が教えたこと、ちゃんと使ってくれた」


「そのようです」


「嬉しいです」


「感情反応は?」


「今のところ、翼は動いてません」


「確認しました」


少しの沈黙。


それから、リシェルさんが静かに言った。


「ソラ殿」


「はい」


「あなたが街へ近づく方法は、身体を動かすことだけではないようです」


俺は目を開いた。


城壁の灯りが、夜の中で揺れている。


「知識や言葉でも、近づける可能性があります」


リシェルさんは続けた。


「ただし、同時に問題も生みます」


「はい」


「それでも、今日の一件は記録に値します」


俺は、ゆっくり息を吐いた。


上へ。


静かに。


「ありがとうございます」


「受け取っておきます」


いつもの返事を聞いて、俺は目を閉じた。


その頃、西門市場の奥。


干し果物商人のマーロは、修正した価格札を片づけながら舌打ちしていた。


一袋、銅貨四枚。


三袋、銅貨十二枚。


数字は正しい。


だが、腹の虫は収まらない。


子どもに指摘された。


行政補佐官に記録された。


そして何より、城壁外の竜に計算を確認された。


「面倒なことになったな」


マーロは低く呟いた。


その声を、隣の布商人が拾う。


「竜が子どもに算術を教える時代か」


「笑い事じゃない。これから値札一つで騒がれたら商売にならん」


「正しく書けばいいだけだろ」


「そういう話じゃない」


マーロは、干し果物の袋を木箱へしまった。


「竜が市場の数字を見る。子どもがそれを振りかざす。補佐官が記録する。そんなものが続けば、商人はやりづらくなる」


布商人は肩をすくめた。


「やりづらくなる商いをしている方が悪い」


マーロは返事をしなかった。


ただ、城壁の向こうを見た。


その先には、西門外の草地。


赤い布。


そして、黒銀の巨大な影。


竜がパンを食い、子どもに数を教え、商人の値札を正す。


ただの災害なら、まだ分かりやすかった。


だが、あれは違う。


商売の中にまで、少しずつ影を落とし始めている。


「このまま放っておくと、面白くないな」


マーロは小さく呟いた。


その言葉は、市場のざわめきに紛れて消えた。


だが翌日には、西門のいくつかの店で、妙な噂が流れ始めることになる。


竜に教わった子どもが、商人の値を疑っている。


城壁横の竜は、商売にまで口を出すらしい、と。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

算術教室の成果が、さっそく市場で試されました。

ただ正しい計算をするだけでも、商売や街の空気に影響が出てしまう。

ソラが街に関わるほど、利益も問題も一緒に増えていきます。

次回は、硬焼きパンと商品名のお話です。


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