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城壁横の古龍さんは住民票がありません  作者: 乾燥しいたけ
第一章 赤い布の内側で

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第10話 ドラゴン、商品名に使われかける



ドラゴン生活七日目・朝。


俺、竜咲空。


巨大ドラゴンとして、城壁都市レグナの西門外に仮滞在している。


ここ数日で、俺は少しずつ街に関われるようになってきた。


焦げパンの味見をした。


子どもたちに算術を教えた。


市場の計算違いを、直接断定せず、数字だけ確認した。


自分を削らずに役に立つ。


それが、俺にとってかなり大事なことになりつつある。


鱗を渡すことではなく。


爪を削ることでもなく。


知っていることや、感じたことを伝える。


それなら、俺の体は傷つかない。


街の誰かにも、少しだけ得がある。


そう思っていた。


思っていたのだが。


「ソラ殿」


朝の確認を終えたリシェルさんが、書類板を抱えたまま言った。


「本日は、グレタさんより硬焼きパンの試作品確認の申し出があります」


「おお」


「ただし、食事手順に加え、名称使用に関する確認も行います」


「名称使用?」


「はい」


嫌な予感がした。


かなりした。


名前。


使用。


俺の名前か。


竜の名前か。


昨日、算術教室のあとに市場で少し噂が出たらしい。


城壁横の竜が、子どもに数を教えた。


商人の値札を直させた。


パン屋の試作品に意見した。


街の人にとっては珍しい話だ。


酒場や市場で話題になるのは分かる。


でも、話題になるものは、すぐ商売にもなる。


俺は昨日それを学んだばかりだ。


「もしかして、俺の名前をパンにつけるとか?」


リシェルさんは少しだけ目を伏せた。


「候補の一つとして、そのような話が出ています」


「うわあ」


思わず声が出た。


旗が少し揺れる。


「発声量」


「はい」


俺は口を閉じた。


自分の名前がパンになる。


いや、前世なら少し面白いかもしれない。


ソラ監修硬焼きパン。


ドラゴン印スープパン。


竜さんの焦げ香パン。


コンビニで見たら、たぶん買う。


だが、今の俺はコンビニの商品企画を見ているわけではない。


俺自身が、街から危険物として仮滞在を許されている立場だ。


その名前が商品につく。


それは、たぶん軽い話では済まない。


「リシェルさん」


「はい」


「これ、鱗の時と似てます?」


「似ています。ただし、身体由来物ではなく、名称と信用の利用です」


「信用」


「はい。ソラ殿の名を使うことで、商品に特別な価値があるように見せることができます」


「俺、まだ信用あります?」


「一部にはあります。一部には恐怖もあります。そして一部には商機があります」


きつい。


でも正しい。


俺の名前には、まだ安心よりも騒ぎがついて回る。


それを商品につける。


良い方向にも悪い方向にも、広がりやすい。


「現時点で、名称使用は許可制とします」


「もう規則になった」


「必要です」


必要。


今日も朝から必要が出勤している。


少しして、グレタさんが西門から出てきた。


いつもの荷車。


前掛けには小麦粉。


荷車には、布で包んだパンと、小さな鍋。


鍋。


俺は少し身構えた。


「液体ですか?」


リシェルさんがすぐに確認する。


「スープだよ」


グレタさんは悪びれずに言った。


「昨日、竜さんが言っただろう。硬焼きパンをスープに入れたらいいって」


「液体を含む食事は、飛散、滴下、むせの危険があります」


「だから少しだけさ。竜さんに鍋ごと飲ませる気はないよ」


「手順確認が必要です」


「分かってるよ」


グレタさんは笑った。


相変わらず強い。


その後ろから、ラウル隊長の部下が二人、距離を取りながらついてきていた。


さらに少し離れて、昨日の市場で揉めた干し果物商人のマーロも見える。


本人は偶然を装っているが、明らかにこちらを見ている。


嫌な観客だ。


リシェルさんも気づいたようで、そちらに一瞬だけ視線を向けた。


「グレタさん」


「はいよ」


「本日の試食前に、名称候補について確認します」


グレタさんは、少し困った顔をした。


「やっぱりそこからかい」


「はい」


「別に悪いことをするつもりじゃないよ」


「分かっています」


リシェルさんの声は冷静だった。


「ですが、悪意がなくても問題は起きます」


それは、俺にとっても聞き慣れてきた言葉だった。


善意でも危ない。


俺の存在そのものみたいな言葉だ。


グレタさんは荷車の布をめくった。


そこには、薄く切られた硬焼きパンが並んでいた。


昨日より色がいい。


焦げすぎていない。


表面は濃い茶色。


軽く焼き直してあるのか、香りも強い。


鍋の中からは、野菜と肉の薄いスープの匂いがした。


俺の腹が鳴りかける。


ぐ、と腹の奥が動く。


俺は必死に抑えた。


腹鳴まで記録されるのは、もう慣れたけど、慣れたくない。


「で、名前だけどね」


グレタさんは少し照れたように言った。


「最初は、竜さんの硬焼きパン、なんてどうかと思ったんだよ」


俺は黙った。


リシェルさんの筆が動く。


「名称候補、竜さんの硬焼きパン」


「それ、完全に俺ですね」


「そうだね」


グレタさんは苦笑した。


「でも、昨日の市場で噂になっててね。竜が味を見たパンなら売れるんじゃないかって、周りが言うもんだから」


マーロの方から、小さな声が飛んだ。


「そりゃ売れるだろうさ。竜が食ったパンなんて、王都でも話題になる」


リシェルさんの目が鋭くなった。


「マーロさん。許可なく会話に加わらないでください」


「見てるだけだよ」


「では、見ているだけにしてください」


マーロは口を閉じた。


グレタさんが少し眉を寄せる。


「ああいうのがいるから、補佐官さんは止めるんだね」


「はい」


「なるほど」


グレタさんは、俺を見上げた。


「竜さん。あんたはどう思う?」


俺はすぐには答えなかった。


名前を使ってもらうこと自体は、嫌ではない。


むしろ、少し嬉しい気もする。


俺の感想が役に立って、商品になって、それに俺の名前がつく。


人間だった頃なら、ちょっと誇らしい。


でも、今は違う。


「嬉しい気持ちはあります」


俺は正直に言った。


「でも、怖いです」


「怖い?」


「俺の名前がついたパンを買った人が、何かあった時に、俺のせいになるかもしれない。逆に、俺の名前があるからすごいものだって勝手に思われるかもしれない」


グレタさんは黙って聞いている。


リシェルさんも、筆を止めずに聞いている。


「あと、俺はまだこの街の住民でもないです。仮滞在で、十日後に王都へ報告される立場です。その俺の名前で商売を始めるのは、たぶん早いと思います」


言いながら、少し胸が痛かった。


早い。


自分でそう言うのは、寂しい。


街に近づけたと思った。


ソラ先生と呼ばれた。


パンの味見もした。


でも、まだ俺の名前を街の商品につけるには早い。


その現実を、自分で言葉にするのは少しきつかった。


グレタさんは、深く息を吐いた。


「そうかい」


「すみません」


「謝ることじゃないよ」


彼女は、少し笑った。


「でかい体してるくせに、そういうところは妙に真面目だねえ」


「リシェルさんに記録され続けた結果かもしれません」


「それは良いことなのか悪いことなのか」


リシェルさんが淡々と言う。


「少なくとも、現時点では良い傾向です」


「評価された」


「発声量はやや上がっています」


「落とされた」


グレタさんが笑った。


少しだけ、空気が緩んだ。


名称会議は、その場で始まった。


正式な会議ではない。


だが、リシェルさんが記録している時点で、ほぼ会議だ。


候補一。


竜さんの硬焼きパン。


却下。


理由、ソラ本人の名称利用に該当。


候補二。


城壁竜パン。


却下。


理由、同じく竜を直接想起させる上、街の恐怖感を商業利用する恐れあり。


候補三。


ソラ先生のスープパン。


即却下。


俺が固まった。


「誰が出したんですか、それ」


グレタさんが少し目を逸らす。


「トマだよ」


「トマくん!」


城壁の上の方から、遠く小さく声が聞こえた。


「いい名前だと思ったのに!」


リシェルさんが即座に言う。


「トマさん、会議への無断参加は禁止です」


「聞こえただけ!」


「では、聞くだけにしてください」


「はーい」


返事だけはいい。


俺は少し笑いそうになった。


ソラ先生のスープパン。


気持ちは嬉しい。


かなり嬉しい。


でも駄目だ。


完全に駄目だ。


「候補四」


グレタさんが言った。


「西門硬焼き」


リシェルさんの筆が止まらない。


「地域名を用いた一般名称。竜への直接言及なし。商業利用としては比較的安全」


「急に通りそう」


俺が言うと、グレタさんが頷く。


「地味だけどね」


「地味ですが、強いと思います」


リシェルさんが言った。


「西門の守備隊や旅人向けの商品として説明しやすいです」


ラウル隊長も腕を組んで言う。


「守備隊で使うなら、その名前の方が通りがいい」


「じゃあ、西門硬焼きかね」


グレタさんは、少し考える顔をした。


たぶん、商品名としての派手さは落ちる。


竜の名前を使った方が売れるかもしれない。


でも、その分だけ火種も増える。


俺は、その迷いを見て少し申し訳なくなった。


「グレタさん」


「なんだい」


「名前に使えなくて、すみません」


「だから謝るなって」


グレタさんは、俺をまっすぐ見上げた。


「竜さん。私はパンを売りたいんであって、あんたを売りたいわけじゃないよ」


その言葉に、胸の奥がきゅっとした。


昨日の鱗の時とは違う。


でも、根っこは同じだった。


俺を売る。


俺の体を売る。


俺の名前を売る。


その境目は、意識していないとすぐ曖昧になる。


グレタさんは、それに気づいて止まってくれた。


「西門硬焼き」


グレタさんはもう一度言った。


「うん。悪くない。守備隊にも旅人にも売れそうだ」


リシェルさんが頷く。


「名称候補、西門硬焼き。現時点で問題少なし。ただし、宣伝文句にソラ殿の関与を用いる場合は許可制とします」


「宣伝文句も?」


「はい」


「たとえば?」


「竜が味見した、竜も認めた、竜の牙にも負けない、などです」


「最後、ちょっと面白いですね」


「禁止候補です」


「ですよね」


グレタさんが笑う。


「分かったよ。今は竜さんの名前は出さない。西門硬焼きとして試す」


「ありがとうございます」


「ただし、味の感想はもらうよ」


「それはもちろん」


リシェルさんがすぐに言った。


「試食手順に移ります」


来た。


名称会議の次は、試食だ。


今回は、硬焼きパンをそのまま食べるのではない。


小さく割ったものを、少量のスープに浸す。


それを木皿に載せ、長い板で差し出す。


俺が前歯で慎重に受け取る。


ただし、スープを含んでいるため、滴下に注意。


首の角度。


舌の動き。


咀嚼速度。


嚥下時のむせ。


全部確認対象。


「俺、流動食の介護を受けてる気分です」


「介護ではなく、安全確認です」


「はい」


最初の一口。


パンは柔らかくなっていた。


でも完全に崩れてはいない。


焦げ香が、スープの塩気と合っている。


野菜の甘みも吸っている。


そのまま食べるより、ずっといい。


「……うまいです」


今度は声を抑えられた。


リシェルさんが記録する。


「食事時発声、良好」


グレタさんがにやっと笑う。


「どうだい」


「硬さがちょうどいいです。スープを吸っても崩れすぎない。焦げの苦みも前より少ないし、香りが残ってます」


「よし」


「ただ、もう少し小さく割った方が食べやすいかもしれません。人間なら特に」


「なるほどね」


ラウル隊長が手を出した。


「一つ、もらえるか」


グレタさんが皿を渡す。


ラウル隊長は、スープに浸した硬焼きを食べた。


表情はあまり変わらない。


でも、少し頷いた。


「守備隊の夜番にはいい。腹に残るし、温まる」


「値段次第だね」


「そこは交渉だ」


リシェルさんがすぐに言う。


「守備隊への納入交渉は、別途正式に行ってください」


「分かってるよ」


グレタさんが笑う。


ラウル隊長も少しだけ笑った。


その場に、パンとスープの匂いが広がる。


俺はそれを、赤い布の内側から見ていた。


俺は街に入れない。


同じ鍋を囲めるわけでもない。


でも、俺の言ったことから生まれたパンを、人間たちが食べている。


それは、少し不思議な光景だった。


俺の体ではなく。


俺の名前でもなく。


俺の言葉から生まれたもの。


それが街の中に入っていく。


「ああ」


俺は小さく言った。


「こういう形なら、いいですね」


リシェルさんがこちらを見る。


「どういう意味ですか」


「俺の名前を使わなくても、俺が少し関わったものが街の中で役に立つ。俺は入れないけど、考えたことだけ少し入れる感じで」


言ってから、少し恥ずかしくなった。


また情緒が書類にされる。


リシェルさんは、やっぱり筆を動かしていた。


「ソラ殿、自身の名称ではなく、提案内容による街への関与を肯定」


「言い方は硬いけど、だいたい合ってます」


「記録上はこの表現で十分です」


「はい」


グレタさんが、ふっと笑った。


「竜さんの名前は出さなくても、味には残るってことだね」


「それ、いいですね」


「商品札には書かないよ」


「書かないんだ」


「書いたら補佐官さんに止められる」


「止めます」


即答。


今日もリシェルさんは強かった。


しかし、全部がきれいに収まったわけではなかった。


試食が終わりかけた頃、遠くでマーロが別の商人と話しているのが見えた。


声は小さい。


でも、ドラゴンの耳は拾ってしまう。


「竜の名前は使わないらしい」


「もったいないな」


「だが、逆に言えば、名前を使えば目立つってことだ」


「許可がいるんだろう?」


「正式な許可を取る者ばかりじゃない」


嫌な会話だった。


俺は思わずそちらを見そうになった。


「ソラ殿」


リシェルさんの声。


「視線が街道側へ向いています」


「すみません。聞こえました」


「内容は」


俺は迷った。


でも、これは言った方がいい。


「俺の名前を勝手に使う人が出るかもしれない、みたいな話をしてました」


リシェルさんの表情が硬くなる。


ラウル隊長も目を細める。


グレタさんは、舌打ちした。


「まったく。だから嫌なんだよ」


リシェルさんはすぐに指示を出した。


「ラウル隊長、市場係へ通達をお願いします。ソラ殿の名称、竜に関する表記、身体的特徴を利用した商品名、宣伝文句について、当面は届出制とします」


「承知した」


「無許可使用が確認された場合、領主令違反として扱う可能性を明記してください」


「分かった」


「グレタさん」


「はいよ」


「西門硬焼きについては、本日の記録上、名称候補として問題少なし。ただし、販売開始前に簡易届出をお願いします」


「分かった。面倒だけど、ちゃんとやるよ」


リシェルさんの筆が走る。


また規則が増える。


俺の名前を守るための規則。


街の商売を荒らさないための規則。


たった一つのパンから、ここまで話が広がる。


「すみません」


俺が言うと、リシェルさんがすぐにこちらを見た。


「ソラ殿が謝ることではありません」


「でも、俺が関わったから」


「関われば問題は起きます」


リシェルさんは言った。


「ですが、問題が起きることと、関わらない方がいいことは同じではありません」


俺は黙った。


「重要なのは、問題を見つけた時に、どこで止めるかです」


どこで止めるか。


その言葉は、俺の最近の生活そのものだった。


翼が動きそうになったら止める。


尻尾が出そうになったら止める。


鱗を抜きそうになったら止める。


名前を使われそうになったら止める。


俺だけでは止められない。


リシェルさんが止める。


街の規則が止める。


そして、俺も少しずつ止まることを覚える。


「分かりました」


俺は言った。


「問題が起きても、すぐ全部駄目にしない。どこで止めるか考える」


「はい」


リシェルさんは頷いた。


「その理解を記録します」


「お願いします」


また、俺の気持ちが書類になった。


でも今日は、少し心強かった。


夕方。


グレタさんは荷車を片づけながら、俺を見上げた。


「竜さん」


「はい」


「西門硬焼き、売ってみるよ」


「はい」


「名前は借りない。でも、味の相談はまたする」


「もちろんです」


「それでいいかい?」


「はい。すごくいいです」


グレタさんは笑った。


「じゃあ、あんたもちゃんと生きてな。十日後にどっかへ連れて行かれたら、味見役がいなくなる」


それは冗談っぽく言われた。


でも、俺には少し重かった。


十日後。


王都報告。


俺の処遇。


まだ決まっていない。


「できるだけ、ここにいられるように頑張ります」


俺は言った。


リシェルさんがすぐに言う。


「過剰な努力は禁止です」


「はい」


「自分を削る行為も禁止です」


「はい」


「無許可で商品名になることも禁止です」


「それは俺が防げるか分かりません」


「発見時は報告してください」


「はい」


グレタさんが豪快に笑った。


「竜さんも大変だねえ」


「はい。でも、森で一人よりずっといいです」


言ってから、少し場が静かになった。


グレタさんは笑うのをやめた。


リシェルさんの筆も一瞬止まった。


俺は、しまったと思った。


今のは少し本音が出すぎた。


でも、取り消す言葉ではなかった。


「そうかい」


グレタさんは静かに言った。


「なら、西門硬焼きが売れるくらいまでは、ここにいな」


「はい」


リシェルさんが記録する。


「グレタさん、ソラ殿の継続滞在を望む発言あり」


「そんなのまで書くのかい」


「重要です」


「まったく、油断も隙もないね」


「必要です」


必要。


でも、今日の必要は少しあたたかかった。


夜。


俺は赤い布の内側で丸まっていた。


今日も、何も壊していない。


西門硬焼きという名前が決まった。


俺の名前は使われなかった。


最初は少し寂しい気もした。


でも、今はそれでいいと思っている。


俺の名前や体を売るのではなく。


俺の言葉や感想が、誰かの仕事に混ざる。


それくらいの距離が、今の俺にはちょうどいい。


「ソラ殿」


城壁の上から、リシェルさんの声がした。


「はい」


「就寝前確認です。姿勢は」


「伏せでお願いします」


「尻尾」


「赤布内です」


「翼」


「畳みます」


「火炎」


「吐きません」


「鱗」


「抜きません。渡しません」


「爪」


「指定位置を守ります」


「算術」


「基本計算のみ。市場の意図判断はしません」


「名称使用」


「俺の名前や竜っぽい宣伝を見つけたら報告します」


「よろしい」


項目が増えた。


本当に増えた。


でも、今日も嫌ではなかった。


「リシェルさん」


「はい」


「俺の名前、使われなくてよかったと思います」


「理由は」


「まだ俺、街の人から見たら危ない存在なので。名前だけ先に広がると、中身が追いつかない気がします」


「妥当な判断です」


「でも、少し寂しいです」


リシェルさんは、すぐには答えなかった。


少しだけ、夜風が流れた。


「寂しいことと、正しいことは両立します」


その言葉は、静かだった。


「現時点では、名前を広げるより、記録を積む方が重要です」


「はい」


「ですが、今日の件も記録されます。あなたの提案が、街の商品改善に寄与したこと。名称利用について、本人が慎重な判断をしたこと」


俺は目を閉じた。


「それで十分です」


「はい」


「ありがとうございます」


「受け取っておきます」


いつもの返事。


俺はその声を聞きながら、ゆっくり息を吐いた。


上へ。


静かに。


西門硬焼き。


俺の名前はついていない。


でも、少しだけ俺の味が残っている。


それでいい。


今は、それでいい。


同じ頃。


西門市場の奥で、マーロは別の商人と小声で話していた。


「名称使用は届出制になるらしい」


「動きが早いな」


「補佐官が早すぎる」


「じゃあ、竜の名は使えんか」


マーロは、口元だけで笑った。


「竜の名は、な」


「どういう意味だ」


「直接使わなければいい。黒銀、城壁横、巨大な味、災害級の香り。言い方はいくらでもある」


相手の商人が少し眉をひそめた。


「それは危ないんじゃないか」


「危ないから売れるんだろう」


マーロは、干し果物の箱を閉めた。


昨日の計算違いは、まだ腹に残っている。


子どもに指摘され、補佐官に記録され、竜に計算を確認された。


あのまま黙っている気にはなれなかった。


「西門の連中は、竜を街の利益にしたいらしい」


マーロは低く言った。


「なら、こちらも利益の形を考えるだけだ」


その夜、市場の端に小さな手書き札が一つ出された。


黒銀焼き菓子、近日試作。


竜とは書かれていない。


ソラとも書かれていない。


だが、見る者が見れば、何を連想させたいのかは明らかだった。


翌朝、その札はリシェルの記録に加わることになる。

読んでくださりありがとうございます。

今回は、西門硬焼きの名前が決まる回でした。

ソラの名前を使えば目立つ。

でも、名前を売ることと、ソラ自身を利用することは紙一重。

グレタさんがそこでちゃんと止まってくれたのは、かなり大きな一歩だと思います。

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