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城壁横の古龍さんは住民票がありません  作者: 乾燥しいたけ
第一章 赤い布の内側で

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第11話 ドラゴン、補佐官を寝かせたい



ドラゴン生活八日目・朝。


俺、竜咲空。


巨大ドラゴンとして、城壁都市レグナの西門外に仮滞在している。


昨日、グレタさんの硬焼きパンは「西門硬焼き」という名前になった。


俺の名前は使われなかった。


竜さんの硬焼きパン。


城壁竜パン。


ソラ先生のスープパン。


そういう候補もあったらしいが、全部やめた。


俺はまだ正式な住民ではない。


十日後には王都へ報告される。


そんな状態で俺の名前だけが先に広がるのは、たぶん危ない。


だから、西門硬焼き。


地味だけど、いい名前だと思う。


俺の名前ではなく、俺の感想が少しだけ街の中に残る。


そのくらいの距離が、今の俺にはちょうどいい。


ただし。


その日の夜、市場の端に妙な札が出たらしい。


黒銀焼き菓子、近日試作。


竜とは書いていない。


ソラとも書いていない。


でも、黒銀。


俺の鱗や爪跡の色を知っている人なら、たぶん連想する。


その札は、朝になる前に市場係が見つけ、リシェルさんへ報告された。


つまり。


「ソラ殿」


赤い布の外側で、リシェルさんが言った。


「朝の確認を行います」


「はい」


リシェルさんは、いつも通り書類板を抱えていた。


姿勢もまっすぐ。


声も落ち着いている。


表情も変わらない。


ただ。


目の下が、昨日より明らかに濃い。


寝ていない顔だ。


「姿勢、伏せ。尻尾、赤布内。翼、畳まれた状態を維持。火炎反応、なし。鱗、自己抜去なし。爪、指定位置内。名称使用に関する夜間通報、一件」


「最後、俺の体調確認じゃないですよね」


「あなたに関連する確認です」


「ですよね」


リシェルさんの筆が動く。


いつも通り、迷いがない。


でも、ほんの少しだけ筆先が遅い。


俺はそれを見てしまった。


「リシェルさん」


「はい」


「寝ました?」


筆が止まった。


完全に止まった。


「必要な休息は取っています」


「それ、寝てない人の言い方じゃないですか」


「業務上、回答に支障はありません」


「支障ありそうです」


「ありません」


即答。


でも、声の硬さがいつもより少しだけ強い。


防御している声だ。


リシェルさんは俺を見る。


「ソラ殿。本日の予定確認に移ります」


「はい」


「昨日確認された無許可表記、黒銀焼き菓子について、市場係およびラウル隊長と協議します」


「はい」


「ソラ殿の名称、身体的特徴、色彩、城壁横の滞在状況を連想させる宣伝文句について、暫定指針を作成します」


「はい」


「また、西門硬焼きの販売届出、食事手順、算術指導の次回実施条件、竜素材封印箱の保管記録、爪跡の銀色粒子の封鎖確認も行います」


「……多くないですか?」


「多いです」


正直だった。


「俺のせいですよね」


「あなたに関連しています」


「言い換えました?」


「事実を正確に述べました」


リシェルさんは、また書類へ目を落とした。


俺は黙る。


朝の空気は涼しい。


城壁の向こうからは市場の準備の音がする。


荷車。


人の声。


パンの匂い。


少し焦げた麦の香り。


いつもの朝になりつつある。


でも、その裏側で、リシェルさんの仕事はどんどん増えている。


俺が寝返りを打つ。


規則が増える。


俺がパンを食べる。


手順が増える。


俺の鱗を商人が見つける。


暫定規則が増える。


俺が子どもに算術を教える。


市場対応が増える。


俺の名前が商品に使われそうになる。


名称使用指針が増える。


俺が何かをするたびに、リシェルさんの睡眠が削られていく。


俺は、自分の前脚を見た。


でかい。


重い。


硬い。


でも、今いちばん重く感じるのは爪でも尻尾でもなかった。


俺のせいで増えた書類の山だった。


昼前。


黒銀焼き菓子の札を出したのは、やはりマーロだった。


干し果物の価格札で揉めた商人だ。


本人は「竜とは書いていない」と主張した。


「黒銀という言葉は色の表現であって、ソラ殿を指すものではない」


そう言ったらしい。


理屈としては逃げ道がある。


だが、リシェルさんは逃がさなかった。


「この時期に、西門市場で、黒銀という言葉を焼き菓子の宣伝に使うことが、ソラ殿を連想させないと主張するのは困難です」


そう記録した。


結果、札は撤去。


黒銀焼き菓子の販売は一時停止。


竜関連表記の暫定届出制が始まった。


俺は、その一部始終を赤い布の内側から聞いていた。


直接市場には行けない。


でも、耳がいい。


聞こえてしまう。


マーロの不満げな声も。


市場係の困った声も。


ラウル隊長の低い声も。


そして、リシェルさんの淡々とした声も。


淡々としているのに、いつもより少しだけ疲れている。


「ソラ殿」


しばらくして、リシェルさんが戻ってきた。


「黒銀焼き菓子の件は、一時停止となりました」


「お疲れ様です」


「記録を続けます」


「休まないんですか」


「休む前に、指針を作成する必要があります」


「今から?」


「今からです」


「昼ご飯は?」


「後ほど」


後ほど。


グレタさんが言っていた。


後ほどと言う人は、だいたい後で食べない。


俺は、かなり嫌な予感がした。


「リシェルさん」


「はい」


「ちょっと提案してもいいですか」


「内容によります」


「今日は俺、何もしません」


リシェルさんの筆が止まった。


「何もしない、とは」


「動かない。喋らない。算術教室もしない。試食もしない。鱗も抜かない。爪も削らない。寝返りもしない。だから、その間にリシェルさんが寝る」


自分では、かなり良い案だと思った。


俺が何かをするから仕事が増える。


なら、俺が何もしなければいい。


単純。


完璧。


たぶん。


リシェルさんは、俺を見た。


無表情。


でも、少しだけ目が怖い。


「却下します」


「即答!」


「理由は複数あります」


「あ、はい」


「第一に、ソラ殿が何もしない状態であっても、監視は必要です」


「はい」


「第二に、何もしないと宣言した結果、呼吸や姿勢維持に過度な緊張が生じる可能性があります」


「確かに、今ちょっと息止めかけました」


「呼吸停止は禁止します」


「呼吸まで禁止項目に!」


「停止が禁止です」


「ややこしい!」


リシェルさんの筆が動く。


「何もしない宣言により、呼吸停止未遂」


「書くんですか」


「必要です」


必要。


俺の完璧な案は、開始三十秒で新しい記録を生んだ。


「第三に、ソラ殿が無理に不動状態を維持すると、疲労や反動による大きな動作につながる可能性があります」


「ああ……」


「第四に、私が不在の間に突発事案が起きた場合、判断が遅れます」


「それはそうですけど」


「第五に、ソラ殿の善意による過剰配慮は、新たな危険因子です」


「俺の善意、危険因子多すぎません?」


「多いです」


正直すぎる。


俺は少しだけ首を下げた。


もちろん、ゆっくり。


「じゃあ、どうすればリシェルさんの仕事は減りますか」


リシェルさんは、すぐには答えなかった。


書類板を抱えたまま、少しだけ目を伏せる。


たぶん、考えている。


いや、疲れているのかもしれない。


その沈黙が、いつもより長かった。


「ソラ殿」


「はい」


「あなたが予測不能な行動を減らすことです」


「予測不能な行動」


「はい。突発的な発声、感情反応、善意による申し出、思いつきの提案、自己判断による行動。それらが減れば、記録と対応の負担は減ります」


胸に刺さる言葉だった。


でも、反論できない。


俺は、けっこう思いつきで喋っている。


鱗くらいなら渡せるかも。


今日は何もしません。


子どもに数を教えられるかも。


どれも悪気はない。


でも、悪気がないから安全とは限らない。


「じゃあ、先に言えばいいですか」


「先に?」


「その日にやりたいこととか、気になることとか、不安なことを朝にまとめて言う。急に言わない。急に動かない。思いついても一回止める」


リシェルさんの筆が止まった。


今度は、悪い止まり方ではない気がした。


「行動予定の事前申告」


「はい」


「感情反応の予測共有」


「そんな硬い名前になるんですか」


「記録上は」


「ですよね」


リシェルさんは、少しだけ考えた。


「有効かもしれません」


「本当ですか」


「はい。ソラ殿の思考傾向を事前に把握できれば、対応手順を準備できます」


「じゃあ、朝の確認に追加しましょう」


言ってから、しまったと思った。


また増やした。


「すみません。項目増えました」


「項目は増えますが、突発対応は減る可能性があります」


「つまり、増やして減らす」


「はい」


「行政っぽい」


「行政です」


少しだけ、リシェルさんの声が戻った気がした。


わずかに。


ほんのわずかに。


午後。


試しに、俺の「本日の行動予定」を作ることになった。


もちろん、思いつきだ。


でも、思いつきのまま行動しないための思いつき。


少しややこしい。


リシェルさんが質問し、俺が答える。


「本日、食事以外に希望する行動はありますか」


「ありません」


「本日、街の住民との会話希望は」


「グレタさんが来たら、硬焼きパンの感想を言いたいです。でも、試食はリシェルさんが休めないなら明日でいいです」


「記録します」


「はい」


「本日、不安に感じていることは」


「リシェルさんが倒れないか不安です」


リシェルさんの筆が止まった。


「私の体調は業務対象外です」


「俺の不安の対象です」


「……記録します」


少しだけ間があった。


「他には」


「俺の名前が勝手に使われること。マーロさんがまた何かすること。王都報告まであと少ししかないこと」


「はい」


「あと、俺がまた余計なことを言って、仕事を増やすこと」


「それは可能性があります」


「否定してほしかった」


「不正確です」


「正確さが刺さる」


リシェルさんは、淡々と書く。


だが、書く内容はいつもより少し違った。


俺の体の動きだけではない。


俺の不安。


俺の予定。


俺の言いそうなこと。


それを先に外へ出しておく。


そうすれば、突然の発声や動作を減らせるかもしれない。


「これ、俺にとっても良いかもしれません」


「理由は」


「頭の中でぐるぐるしてると、急に言いたくなるので。先に言っておけば、少し落ち着きます」


「なるほど」


リシェルさんは書き加えた。


「事前申告により、ソラ殿の精神安定にも効果の可能性あり」


「いいですね」


「ただし、申告内容が多すぎる場合、別の負担になります」


「つまり、ほどほど」


「はい」


その時、グレタさんが荷車を押してやってきた。


今日も西門硬焼きの試作品があるらしい。


だが、彼女はまず俺ではなく、リシェルさんを見た。


「補佐官さん」


「はい」


「顔色が悪いよ」


「業務に支障はありません」


「支障が出る前に食べな」


グレタさんは、包みを差し出した。


普通のパン。


俺用ではない。


リシェルさん用だ。


「支払いは」


「後でいい」


「記録上」


「記録する前に食べな」


強い。


グレタさんは本当に強い。


ラウル隊長まで来ていた。


「リシェル補佐官」


「はい」


「市場係と守備隊で対応できるものは、こちらへ回せ。竜関連の通報がすべて君に行くのは効率が悪い」


「しかし、判断の統一が」


「統一が必要なものだけ回せ」


ゴルドさんも、いつの間にかいた。


「足場の件は俺が見る。爪跡が増えたら全部あんたを呼ぶ必要はねえ」


「ですが」


「俺が分からん時だけ呼ぶ」


三人に囲まれて、リシェルさんが少しだけ黙った。


俺は赤い布の内側から、その様子を見ていた。


なんだか、不思議な光景だった。


リシェルさんが俺を止める人なら。


今は、街の人たちがリシェルさんを止めている。


倒れる前に。


削れきる前に。


俺は、少しだけ嬉しくなった。


「リシェルさん」


「はい」


「俺からもお願いします。寝てください」


「ソラ殿」


リシェルさんがこちらを見る。


「巨大竜からのお願いは、圧力になり得ます」


「あっ」


そうか。


俺が「寝てください」と言う。


それは、ただのお願いのつもりでも、相手からすれば巨大ドラゴンからの圧になるかもしれない。


本当に難しい。


「すみません。命令じゃないです。圧でもないです。できれば、という意味です」


「分かっています」


リシェルさんは、小さく息を吐いた。


「ですが、言い方には注意してください」


「はい」


グレタさんが笑った。


「大丈夫だよ。補佐官さんは竜さんに言われたくらいで簡単に寝る人じゃないから」


「それ、大丈夫ですか?」


「大丈夫じゃないから、私たちが言ってるんだよ」


ゴルドさんが腕を組んで頷く。


「倒れたら困る。竜さんを止める人間がいなくなるからな」


ラウル隊長も言う。


「守備隊としても、判断系統の過集中は危険だ」


リシェルさんは三人を見た。


それから、俺を見た。


最後に、自分の書類板を見た。


「……分かりました」


その一言に、俺は少しだけ目を開いた。


「一刻だけ休みます」


「一刻」


短い。


でも、たぶん今のリシェルさんにとっては大きい。


「その間、一次対応はラウル隊長。食事関連はグレタさん。足場、爪跡関連はゴルドさん。私への報告は、緊急時のみ」


「承知した」


「任せときな」


「ああ」


リシェルさんは、俺を見る。


「ソラ殿」


「はい」


「一刻の間、予定外の行動をしないでください」


「はい」


「呼吸は止めないでください」


「はい」


「何もしないことを頑張りすぎないでください」


「はい」


「不安になった場合は、ラウル隊長へ報告してください」


「はい」


「私の休息を気にしすぎないでください」


「……はい」


最後が一番難しいかもしれない。


リシェルさんは、グレタさんからパンの包みを受け取った。


それから、詰所の方へ歩いていく。


背筋はまだまっすぐだった。


でも、いつもより少しだけ足取りが遅い。


俺はそれを見送った。


動かない。


声を出さない。


鼻息は上へ。


でも、胸の奥で小さく思う。


よかった。


本当に、少しだけ。


リシェルさんが休んでいる間、俺は予定通り動かなかった。


ただし、何もしないことを頑張りすぎない。


呼吸はする。


目も動かす。


尻尾は固定。


翼も固定。


不安になったら、ラウル隊長へ言う。


不安にならないようにするのではなく、不安になった時の扱いを決める。


これも手順だ。


ラウル隊長は、赤い布の外側で腕を組んで立っていた。


「ソラ殿」


「はい」


「不安か」


「はい」


「正直だな」


「リシェルさんに正確に言うように鍛えられました」


ラウル隊長は少しだけ笑った。


「それは良い訓練だ」


「ラウル隊長は、リシェルさんが休むの賛成ですか」


「当然だ」


「俺のせいで忙しくなってるのに」


「君だけのせいではない」


ラウル隊長は、街道の方を見た。


「竜が現れた。商人が動いた。市場が揺れた。子どもが学んだ。パン屋が商品を作った。鍛冶屋が足場を見る。これはもう、君一体の問題ではない」


「でも、きっかけは俺です」


「そうだ。だが、きっかけと責任の全部は同じではない」


その言葉は、重かった。


でも、少し救われた。


「リシェル補佐官は優秀だ。だから仕事が集まる」


ラウル隊長は続けた。


「だが、優秀な者にすべて集めると、いずれ判断が折れる。君が危険であるように、過労も危険だ」


過労も危険。


俺は城壁を見た。


リシェルさんが休んでいる詰所は見えない。


でも、そこにいると思うと少し落ち着く。


「俺、リシェルさんを危険にしてたんですね」


「君だけではない」


ラウル隊長は、同じ言葉を繰り返した。


「だが、君がそれに気づいたことは重要だ」


俺は黙った。


今日の俺は、何もしていないようで、少しだけ学んでいる。


街に受け入れられるというのは、俺の危険を減らすだけではない。


俺の周りにいる人たちが、壊れない仕組みを作ることでもある。


一刻後。


リシェルさんは戻ってきた。


眠ったのかどうかは分からない。


でも、戻ってきた顔は、朝より少しだけましだった。


本当に少しだけ。


「リシェルさん」


俺は声を抑えて言った。


「おかえりなさい」


リシェルさんは一瞬だけ止まった。


「戻りました」


「寝られました?」


「短時間ですが、目を閉じました」


「よかった」


「ソラ殿」


「はい」


「感情反応」


「翼は止めてます」


「確認しました」


リシェルさんは、書類板を開いた。


だが、すぐには書き始めなかった。


「一刻の休息中、問題は?」


ラウル隊長が答える。


「なし。ソラ殿は予定外行動なし。不安申告あり。発声量、管理範囲」


グレタさんが言う。


「食事関連なし。補佐官さんはパンを半分食べた」


「半分」


リシェルさんが少しだけ眉を動かす。


「報告不要です」


「必要だよ」


グレタさんが言った。


強い。


ゴルドさんも言う。


「足場異常なし。昨日の爪跡の銀色粒子は封鎖維持」


リシェルさんは三人の報告を聞いた。


そして、静かに頷いた。


「分かりました。今後、竜関連事案の一次対応を分担します」


俺は、少しだけ息を吐いた。


上へ。


「それで、リシェルさんの仕事は減りますか」


「すぐには減りません」


「ですよね」


「ですが、増え方は抑えられる可能性があります」


「それは良かった」


「また、ソラ殿の朝の事前申告も試験運用します」


「はい」


「ただし、申告が長すぎる場合は制限します」


「俺の不安、文字数制限つき」


「必要です」


必要。


でも今日は、その必要が少しだけ優しく聞こえた。


夕方。


領主館から使者が来た。


アルバート子爵からの伝言だった。


リシェルさんが封を切り、内容を読む。


その表情が、少し硬くなる。


「リシェルさん?」


「ソラ殿」


「はい」


「明朝、アルバート子爵がこちらへ来られます」


胸の奥が少し冷えた。


「何かありました?」


「中間確認です」


「中間確認」


「十日後の王都報告へ向けて、現時点でのあなたの危険性、街への利益、管理体制、周辺への影響を整理するとのことです」


俺は、ゆっくり息を吸った。


中間確認。


つまり、そろそろ判断の準備が始まる。


パン。


算術。


市場。


名前。


鱗。


爪跡。


リシェルさんの疲労。


俺が街に与えたものは、良いことばかりではない。


「それって、俺がここにいていいかどうかの話ですか」


リシェルさんは少しだけ黙った。


そして、正直に言った。


「はい。その一部です」


正直な答えだった。


だから、怖かった。


「分かりました」


俺は言った。


「明日、ちゃんと聞きます」


「はい」


「言い訳しないようにします」


リシェルさんの筆が止まった。


「その姿勢は重要です」


「でも、怖いです」


「それも重要です」


「怖いことも?」


「危険性を理解している証拠です」


そう言われて、少しだけ楽になった。


怖がっていい。


不安でいい。


ただ、暴れない。


誤魔化さない。


止まる。


聞く。


「リシェルさん」


「はい」


「明日に備えて、今日はちゃんと寝てください」


リシェルさんは、俺を見た。


「先ほど、巨大竜からのお願いには圧があると言いました」


「あ、はい。じゃあ言い直します」


俺は少し考えた。


「明日、俺がちゃんと話を聞くためには、リシェルさんの記録が必要です。だから、リシェルさんが倒れない体制が必要です」


リシェルさんは、しばらく黙っていた。


それから、小さく頷いた。


「業務上、妥当な意見です」


「業務上で通った」


「はい」


少しだけ、リシェルさんの口元が緩んだ気がした。


ほんの少しだけ。


でも、俺は見逃さなかった。


「今、笑いました?」


「記録不要です」


「見ました」


「就寝前確認に移ります」


「逃げた」


「移ります」


逃げられた。


でも、今日はそれでよかった。


夜。


俺は赤い布の内側で丸まっていた。


今日も、何も壊していない。


いや、俺のせいで増えていた仕事の流れを、少しだけ変えられたかもしれない。


リシェルさんを一刻だけ休ませることができた。


たった一刻。


それだけ。


でも、今まで俺は、彼女が止めてくれることを当たり前のように受け取っていた。


危ない時に止めてくれる。


記録してくれる。


手順を作ってくれる。


王都への報告に、危険だけでなく可能性も書いてくれる。


それは全部、人間の仕事だ。


体力も、時間も、睡眠も使う。


俺は、それをもっと早く気づくべきだった。


「ソラ殿」


城壁の上から、リシェルさんの声がした。


「はい」


「就寝前確認です。姿勢は」


「伏せでお願いします」


「尻尾」


「赤布内です」


「翼」


「畳みます」


「火炎」


「吐きません」


「鱗」


「抜きません。渡しません」


「爪」


「指定位置を守ります」


「算術」


「基本計算のみ。市場の意図判断はしません」


「名称使用」


「俺の名前や竜っぽい宣伝を見つけたら報告します」


「事前申告」


「明日の朝、やりたいこと、不安なこと、気になることをまとめて言います。長すぎないようにします」


「よろしい」


項目が増えた。


でも、今日の項目は少し違う。


俺が街に迷惑をかけないためだけではない。


リシェルさんの負担を少しでも減らすための項目だ。


「リシェルさん」


「はい」


「今日、休んでくれてありがとうございました」


「礼を言われることではありません」


「でも、言います」


少しの沈黙。


「受け取っておきます」


いつもの言葉。


俺は、少し安心して目を閉じた。


明日、アルバート子爵が来る。


中間確認。


俺がこの街に何をもたらしているのか。


利益か。


危険か。


迷惑か。


可能性か。


それを、領主の目で見られる。


怖い。


でも、逃げない。


まずは聞く。


ちゃんと聞く。


そう決めて、俺は夜の中で静かに息を吐いた。


ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、リシェルさんの疲労と、ソラがそれに気づく回でした。


ソラが街に関わるほど、利益だけでなく書類も手順も増えていきます。


支えてくれる人が倒れたら、ソラの居場所も危うくなる。そこに気づけたのは、大きな一歩だと思います。


次回は、アルバート子爵による中間確認です。


ソラがここまで積み上げてきたものを、領主の視点でかなり現実的に見られる回になります。


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