第8話 ドラゴン、子どもに算術を教える
ドラゴン生活五日目・朝。
俺、竜咲空。
巨大ドラゴンとして、城壁都市レグナの西門外に仮滞在している。
ここ数日で分かったことがある。
俺は、存在しているだけで手続きが増える。
寝返りには申請がいる。
鼻息には向き指定がいる。
パンを食べるには手順がいる。
鱗は勝手に渡せない。
爪跡は測られる。
地面は削れる。
尻尾は赤い布の内側。
翼は畳む。
火炎は未確認だけど禁止。
俺の仮滞在生活は、もはや規則のミルフィーユだった。
ただし、悪いことばかりではない。
パンの味見は、グレタさんの新しい硬焼きパンの案につながった。
ゴルドさんは、俺の爪跡を測って、足場補強や爪保護具の可能性を考えてくれた。
リシェルさんは、俺が危険だという記録だけでなく、対策できる可能性も書いてくれている。
そして今日は。
「ソラ殿」
赤い布の外側で、リシェルさんが言った。
「本日は、未成年者への遠隔算術指導の予備実施を行います」
「言い方が硬い!」
「子どもへの勉強会、と言い換えても構いません」
「そっちの方が助かります」
「ただし記録上は、未成年者への遠隔算術指導です」
「記録は硬いまま!」
今日は、子どもたちに数を教える日になった。
きっかけは昨日、城壁の上からトマという少年が、俺の爪跡を数えたがったことだった。
市場で母親の手伝いをしていて、おつりを間違えたらしい。
それなら、俺にも教えられるかもしれない。
足し算。
引き算。
割り算。
パンの数を分けるくらいなら、前世で普通に使っていた。
俺は剣術も魔法も知らない。
この体の使い方すら、まだ怪しい。
でも、数なら少しは分かる。
自分の鱗を剥がすより、ずっといい。
自分を削らずに、誰かの役に立てるかもしれない。
そう思ったら、少しだけ胸が軽くなった。
ただし、当然ながら簡単には始まらなかった。
西門の内側、城壁の上に小さな机が並べられた。
子どもたちは、城壁の上から俺を見る形になる。
もちろん、端には近づけない。
机の前には低い柵。
後ろには保護者。
さらにその後ろには兵士。
リシェルさんは赤い布の外側。
ラウル隊長は城壁の上。
グレタさんは、見物半分、保護者へのパン配り半分。
ゴルドさんは、なぜか城壁の石に寄りかかって腕を組んでいる。
「ゴルドさんも見に来たんですか」
俺が聞くと、ゴルドさんは低く笑った。
「竜が算術を教えるなんざ、見逃したら酒場で話についていけねえだろ」
「酒場で話されるんですね、俺」
「もうされてる」
「怖い」
「大丈夫だ。今のところ、寝返り申請が一番受けてる」
「そこかあ」
リシェルさんがすぐに言う。
「ソラ殿、発声量」
「はい」
今日は、声量の調整が特に大事だった。
子どもたちに聞こえる大きさ。
でも、風圧を生まない大きさ。
城壁に反響しすぎない声。
小さすぎても聞こえない。
大きすぎても危ない。
ドラゴンの算術教室は、声の授業から始まっている。
「声量確認を行います」
リシェルさんが言った。
「ソラ殿、短い単語で発声してください」
「はい」
「内容は?」
「……パン」
城壁の上で、子どもたちが少し笑った。
リシェルさんは記録する。
「発声、やや弱い。城壁上の後列には聞こえにくいようです」
トマが手を上げた。
「俺は聞こえた!」
「トマさんは前列です。後ろの子に確認します」
後ろにいた女の子が、首をかしげた。
「ぱん、って聞こえた」
「聞こえていますね」
「では次。少しだけ大きく」
俺は息を整えた。
上へ逃がさない。
前にも押し出さない。
声だけを、細く。
「パン」
今度は、城壁の旗がほとんど揺れなかった。
子どもたちには聞こえたらしい。
リシェルさんが頷く。
「本日の基準声量とします」
「パンで基準が決まった」
「分かりやすいので」
「確かに」
こうして、俺の算術教室は正式に始まった。
参加者は三人。
トマ。
昨日、爪跡を数えたがっていた少年。
元気がよく、質問の前に体が前へ出るタイプ。
リシェルさんから何度も「柵から下がってください」と言われている。
二人目はリナ。
トマより少し年上の女の子。
黒髪を後ろで結んでいて、目がしっかりしている。
最初に俺を見た時は少し怖がっていたが、すぐに机の上の小石をきれいに並べ始めた。
三人目はピート。
小柄な男の子で、ずっとグレタさんのパンを見ている。
たぶん腹が減っている。
俺は親近感を覚えた。
「じゃあ、まず簡単なところから」
俺は、できるだけゆっくり言った。
「パンが六個あります。三人で同じ数ずつ分けます。一人何個?」
リシェルさんがすぐに言った。
「食物を教材に用いる場合、実物の持ち込みはまだ許可していません」
「今は例え話です!」
「確認です」
「はい」
トマがすぐに手を上げた。
「二個!」
「正解!」
「簡単!」
ピートが小石を六つ並べ、三つのまとまりに分けた。
「二個ずつ」
リナが頷く。
「同じ数だから、二、二、二」
「そうそう」
俺は嬉しくなった。
子どもたちに何かを教えるなんて、前世でもほとんどしたことがない。
会社で後輩に説明したことはあるけれど、だいたい手順書と締切の話だった。
パンを三人で分ける話の方が、ずっと平和だ。
「じゃあ、五個だったら?」
トマがすぐに言う。
「二個ずつ!」
リナが首を振る。
「それだと四個でしょ」
「あ、そっか」
ピートが小石を五つ並べる。
三人分に、一個ずつ置く。
一、二、三。
残りは二個。
「あまる」
「何個余る?」
「二個!」
「正解」
俺は頷きかけて、やめた。
頷くと風が出る。
「じゃあ、五個のパンを三人で同じ数ずつ分けるなら、一人一個。二個余る」
トマが眉を寄せる。
「二個余ったらどうするの?」
「そこが大事」
俺は少し考えた。
「みんなで決める。明日の朝に回すでもいいし、小さく切って分けるでもいいし、一番働いた人にあげるでもいい」
トマが即答する。
「俺が食べる!」
リナが冷静に言った。
「それは同じ数じゃない」
「じゃあ、小さく切る!」
ピートが言う。
「切ったら、三人で分けられる?」
「できる」
「でも、小さくなる」
「うん」
俺は思わず笑いそうになった。
いい。
ちゃんと考えている。
数はただ答えを出すだけじゃない。
余ったものをどう扱うか。
誰が納得するか。
そこまで含めて、暮らしの中の計算だ。
「じゃあ、もう一つ」
俺は言った。
「パンが八個あります。三人で同じ数ずつ分けます。一人何個で、何個余る?」
トマが小石を動かす。
リナはすぐには答えない。
ピートは小声で数えている。
「一人二個!」
トマが言う。
「余りは?」
「二個!」
「正解」
リナが言った。
「三人に三個ずつだと九個いるから、二個ずつまで」
「そう、それが大事」
俺はできるだけ声を安定させた。
「三個ずつ配れるかなって考えて、足りないなら二個ずつにする。これが分かると、市場で数をごまかされにくくなる」
その瞬間、トマの目が光った。
「市場!」
リシェルさんが即座に言う。
「トマさん、立ち上がらないでください」
「はい!」
返事だけはいい。
トマは座り直したが、目はさらに輝いている。
「俺、この前おつり間違えた!」
「知ってる」
リナが言った。
「リナ、言うなよ!」
「みんな知ってる」
「ええー!」
グレタさんが笑っている。
リシェルさんは、笑っていないが、筆の動きが少しだけ柔らかく見えた。
たぶん気のせいかもしれない。
次はおつりの話になった。
リシェルさんが、子ども用の木札を用意してくれていた。
小さな丸い札。
一枚で銅貨一枚の代わり。
実物の貨幣は、興奮した子どもが落としたり、俺が反応したりすると面倒なので、木札になったらしい。
さすがリシェルさん。
準備が細かい。
「パンが一個、銅貨三枚です」
俺は言った。
「お客さんが銅貨十枚を出しました。おつりはいくら?」
トマがすぐに言う。
「七枚!」
「正解」
「これは簡単!」
「じゃあ、パンを二個買いました。一個三枚。二個で何枚?」
ピートが木札を並べる。
三枚。
さらに三枚。
「六枚」
「じゃあ十枚出したら、おつりは?」
リナが答える。
「四枚」
「正解」
トマが悔しそうに言う。
「リナ早い!」
「ちゃんと並べれば分かる」
「並べるの面倒」
「面倒がるから間違えるんだよ」
強い。
リナ、かなり強い。
俺は少し感心した。
「リナの言う通り。慣れるまでは、面倒でも並べた方がいい。頭の中だけで急いでやると間違えやすい」
トマが頬を膨らませる。
「でも市場って急ぐんだよ」
「急ぐ時こそ、最初はゆっくり。間違えて損するよりいい」
グレタさんが頷いた。
「それは本当にそうだよ」
トマの母親らしき女性も、城壁の後ろで深く頷いている。
「この子、急いで数えて、よく余計に渡しそうになるんです」
「母ちゃん!」
「事実だろ」
リシェルさんの筆が動く。
「市場手伝いにおける算術需要あり」
「それも記録するんですか」
俺が聞くと、リシェルさんは当然の顔で答えた。
「ソラ殿の知識が街に利益をもたらす可能性の確認です」
「なるほど」
利益。
昨日までは、鱗が利益になりかけた。
でも、それは危なかった。
俺自身を削る利益だった。
今日のこれは違う。
俺の知識。
声。
説明。
子どもたちが覚える。
市場で役立つ。
それなら、俺の体は削れない。
誰かが俺の鱗を欲しがる話より、ずっと息がしやすい。
途中で、一度だけ問題が起きた。
トマが正解して、思わず立ち上がったのだ。
「分かった! 十枚出して七枚の買い物なら三枚返す!」
「正解」
俺が言った瞬間、トマは椅子から立ち上がりかけた。
「やっ」
「トマさん、着席」
リシェルさんの声が飛ぶ。
トマはその場で固まった。
「……た」
「今のは何ですか」
「小さい、やった」
「立ち上がりかけました」
「すみません」
「柵から距離を取ってください」
「はい」
俺も少しヒヤッとした。
子どもが興奮する。
俺も嬉しくなる。
その空気で、つい声が大きくなる。
俺の胸の奥で黒銀の何かが少し動いた気がした。
翼がぴくっとしそうになる。
「ソラ殿」
リシェルさんがすぐにこちらを見る。
「はい。止めました」
「確認しました」
「今、ちょっと嬉しくなりました」
「記録します。子どもの正答時、ソラ殿に喜び反応あり。翼反応未遂。自己停止」
「全部書かれる」
「重要です」
重要。
それは分かる。
でも、今の記録は悪いだけではないはずだ。
嬉しくなった。
反応しかけた。
でも止めた。
その全部が、俺の今の状態だ。
「続行可能ですか」
リシェルさんが聞いた。
命令ではなかった。
確認だった。
俺は、自分の体の内側を見る。
翼は止まっている。
尻尾も動いていない。
声も抑えられる。
「できます」
「では、問題数を減らして続行します」
「はい」
無理はしない。
でも、すぐにやめもしない。
この感覚も、少しずつ覚えていくしかない。
最後の問題は、グレタさんが出した。
「じゃあ、私から一つ」
グレタさんは、城壁の上の子どもたちへ言った。
「硬焼きパンが十二個あります。守備隊に四人います。一人に同じ数ずつ配るなら、いくつずつ?」
トマが即答する。
「三個!」
「正解」
「よし!」
今度は立ち上がらなかった。
えらい。
「じゃあ、十三個だったら?」
トマが口を開きかけて止まる。
リナが木札を並べる。
ピートも小石を使う。
四人に三個ずつ配ると、十二個。
一個余る。
「三個ずつで、一個余る」
リナが言った。
「正解」
グレタさんが頷く。
「じゃあ、その余った一個は?」
トマが少し考えた。
「明日の味見にする?」
俺は笑いそうになった。
リシェルさんが先に言う。
「食料保管手順が必要です」
「リシェル様、そこ!?」
城壁の上で、少し笑いが起きた。
小さな笑い。
俺の声ではない。
風も出ない。
街の人たちの笑い。
その音が、俺にはとてもあたたかく聞こえた。
「よし」
グレタさんが言った。
「今日の勉強会は役に立ちそうだね」
トマの母親が、俺に向かって頭を下げた。
「竜さん、ありがとうございます。この子、市場でいつも焦ってしまって」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
街の人に、礼を言われた。
直接。
怖がられていないわけではない。
彼女の手は少し緊張している。
俺との距離は城壁の上と下で、かなりある。
でも、それでも頭を下げてくれた。
「こちらこそ」
俺は慎重に言った。
「俺が教えられることなら、また」
言ってから、リシェルさんを見る。
「許可が出れば」
リシェルさんは頷いた。
「次回実施は、本日の記録確認後に判断します」
「はい」
トマが小さく手を振った。
「ソラ先生、またね!」
ソラ先生。
俺は固まった。
先生。
四十歳会社員だった頃、一度も呼ばれたことのない言葉。
ドラゴンになって、城壁の外にいて、赤い布で囲まれて、寝返り申請までしている俺が。
先生。
「……はい」
声が少し震えた。
でも、大きくはならなかった。
「またね」
リシェルさんの筆が止まった。
ほんの一瞬。
それから、静かに記録された。
たぶん、こう書かれたのだと思う。
子どもより、ソラ先生と呼称される。
俺は、その一文を想像して、少しだけ胸が熱くなった。
夕方。
勉強会の記録がまとめられた。
リシェルさんは、城壁下の仮設机で書類を書いている。
俺は赤い布の内側から、それを見ていた。
「本日の結果を読み上げます」
リシェルさんが言った。
「参加者三名。保護者同伴。守備隊配置あり。接近違反なし。トマさんの立ち上がり未遂一回。ソラ殿の翼反応未遂一回。どちらも停止指示により制御」
「はい」
「算術内容は、分配、余り、おつり計算。参加者の理解は概ね良好」
「よかった」
「市場手伝いへの応用可能性あり。街への利益事例として記録可能」
街への利益事例。
その言葉を聞いて、俺は静かに息を吸った。
パンの味見に続いて、二つ目。
小さな利益。
自分を削らない利益。
「リシェルさん」
「はい」
「鱗を渡すより、こっちの方がいいですね」
リシェルさんは、少しだけ筆を止めた。
「はい」
短い答えだった。
でも、はっきりしていた。
「こっちを増やしたいです」
「検討します。ただし、未成年者との接触は慎重に扱います」
「接触はしません。遠隔で」
「遠隔であっても、感情反応、声量、興奮、周辺住民の集まりによる混雑など、危険要素はあります」
「やっぱり簡単じゃないですね」
「簡単ではありません」
リシェルさんは、俺を見た。
「ですが、鱗より健全です」
「はい」
俺は少し笑った。
今度は、風が出なかった。
たぶん。
その日の夜。
俺は赤い布の内側で丸まっていた。
今日も、何も壊していない。
トマは俺を先生と呼んだ。
リナはちゃんと考えて答えを出した。
ピートは小石を並べるのがうまかった。
グレタさんは余りのパンで問題を出した。
トマの母親は、俺に礼を言ってくれた。
リシェルさんは、街への利益事例として記録できると言った。
俺は、役に立てた。
ほんの少しだけ。
でも、たぶん本当に。
「ソラ殿」
城壁の上から、リシェルさんの声がした。
「はい」
「就寝前確認です。姿勢は」
「伏せでお願いします」
「尻尾」
「赤布内です」
「翼」
「畳みます」
「火炎」
「吐きません」
「鱗」
「抜きません。渡しません」
「爪」
「指定位置を守ります」
「算術教室」
「次回まで勝手に開きません」
「よろしい」
項目が増えた。
でも、今日の項目は少しだけ嬉しい。
「リシェルさん」
「はい」
「今日、俺、少し街に近づけましたか」
言ってから、少し怖くなった。
近づいた。
そう言ってほしかった。
でも、言われなかったら傷つく。
リシェルさんは、すぐには答えなかった。
夜風が城壁の旗を少し揺らした。
「距離としては、変わっていません」
「はい」
「あなたは赤布内。子どもたちは城壁上。接触なし。街門への接近もなし」
「はい」
「ですが」
リシェルさんは続けた。
「記録上、あなたが街に害だけでなく利益をもたらす可能性は、昨日より増えました」
それは、リシェルさんらしい答えだった。
情緒より記録。
でも、俺には十分だった。
「ありがとうございます」
「受け取っておきます」
いつもの返事。
俺は目を閉じた。
少しだけ、眠りやすい夜だった。
同じ頃。
西門通りの市場近くで、トマは母親の横に座り、木札を並べていた。
「三枚のパンを二個買ったら六枚。十枚もらったら、おつりは四枚」
「そうだね」
母親が笑う。
「明日は店番、少し手伝えるかい?」
「できる!」
トマは胸を張った。
「ソラ先生に教わったから!」
母親は少し困ったように笑った。
「先生、ねえ」
「うん。でっかいけど、ちゃんと先生だった!」
その横で、リナが木札をきれいに並べ直す。
「トマはすぐ急ぐから、私も見てる」
「なんでだよ!」
「間違えるから」
「間違えない!」
「今日も一回間違えかけた」
「それは練習だから!」
子どもたちの声が、市場の端に小さく響く。
その向こうで、商人たちが商品を片づけていた。
布。
果物。
干し肉。
香辛料。
そして、干し果物の袋。
そのうちの一人が、子どもたちの木札をちらりと見た。
昨日、竜の鱗を見ていた男とは別の商人だった。
彼は何気ない顔で、干し果物の袋を三つ並べる。
一袋、銅貨四枚。
三袋で、銅貨十五枚。
そう書かれた札が、袋の前に立てられていた。
その計算が正しくないことに、まだトマは気づいていない。
だが明日。
ソラ先生の算術は、初めて市場で試されることになる。
読んでくださりありがとうございます。
今回は、初めての算術教室でした。
鱗を渡すのではなく、知っていることを教える。
ソラが「自分を削らずに役立つ方法」を見つけた、大事な回です。
トマたちがこの算術をどう使うのか、次回につながります。
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