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城壁横の古龍さんは住民票がありません  作者: 乾燥しいたけ
第一章 赤い布の内側で

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第7話 ドラゴン、爪跡を測られる



ドラゴン生活四日目・朝。


俺、竜咲空。


巨大ドラゴンとして城壁都市レグナの西門外に仮滞在している。


正式な住民ではない。


街の中にも入れない。


住民票もない。


あるのは、赤い布で囲まれた草地と、寝返り申請と、鼻息の向き指定と、食事手順と、竜素材に関する暫定規則。


四日目にして、俺の生活は規則でできた鳥かごみたいになっている。


いや、鳥かごではない。


俺は鳥ではない。


ドラゴンだ。


しかも鳥かごに入るには、かなり大きすぎる。


「ソラ殿」


赤い布の外側で、リシェルさんが書類板を抱えている。


今日も目の下が少し暗い。


昨日より濃いかもしれない。


俺のせいだ。


「はい」


「本日の確認を行います」


「お願いします」


「睡眠中の寝返り、なし」


「よかった」


「尻尾、赤布内。翼、畳まれた状態を維持。火炎反応、なし」


「優秀では?」


「昨日、鱗の自己抜去未遂がありましたので、総合評価は保留です」


「採点が厳しい」


「必要です」


必要。


今日も朝から必要だった。


リシェルさんは続ける。


「本日は、仮滞在区域の地面損傷および爪跡の確認を行います」


「爪跡?」


「はい。昨日までの起床練習、姿勢変更、食事受け取り時に、地面へ複数の損傷が確認されています」


「ああ……」


俺は自分の前脚を見る。


黒銀の鱗。


太い指。


剣みたいな爪。


俺としては、かなり慎重に動いている。


人間だった頃に、寝ている赤ちゃんを起こさないように部屋を歩く時くらい、いや、それ以上に慎重だ。


でも、体がでかい。


爪がでかい。


重さがある。


少し前脚を引いただけで、土が削れる。


「その確認って、リシェルさんがするんですか?」


「専門的な判断が必要ですので、鍛冶職人を呼びました」


「鍛冶職人」


「はい」


リシェルさんが城門側を見る。


そこから、一人の男が歩いてきた。


背は高くない。


でも、横に厚い。


肩が大きい。


腕が丸太みたいだ。


灰色の髪と髭。


革の前掛け。


腰には道具袋。


歩くたびに、金属の工具がかちゃかちゃ鳴る。


男は俺を見上げた。


しばらく黙っていた。


そして、低い声で言った。


「でけえな」


また第一声がそれだった。


昨日のグレタさんも同じことを言っていた気がする。


この街の職人たちは、まず大きさから入るらしい。


「はい。すみません」


「謝ることじゃねえ。でけえもんはでけえ」


グレタさんと同じことを言われた。


職人同士、価値観が似ているのかもしれない。


リシェルさんが紹介する。


「ソラ殿。こちらは鍛冶職人のゴルドさんです。守備隊の金具や門扉の補修も担当しています」


「ゴルドだ」


「竜咲空です。ソラって呼んでください」


「ソラか。竜さんでいいか?」


「はい」


俺はもう、だんだん竜さん呼びに慣れてきた。


ゴルドさんは赤い布の手前で足を止めた。


それ以上は入らない。


入らないまま、俺の前脚と地面をじっと見る。


グレタさんがパンを見る目とは違う。


リシェルさんが危険を記録する目とも違う。


道具を見る目。


壊れたものを見る目。


直せるかどうか、作れるかどうかを測る目だった。


「リシェル様」


ゴルドさんが言った。


「近づいていい範囲は?」


「赤布外からの目視確認を基本とします。必要時のみ、ラウル隊長の許可で二歩まで接近可能。ただし、ソラ殿が完全停止していることが条件です」


「分かった」


「ソラ殿」


「はい」


「前脚を動かさないでください。首も可能な限り固定。鼻息は上方向。ゴルドさんの確認中、発声は必要最低限に」


「分かりました」


俺は固まった。


前脚。


首。


尻尾。


翼。


全部固定。


鼻息は上。


地面を見るだけなのに、こんなに手順がいる。


でも、昨日の鱗の件で分かった。


最初の一回を雑にすると、後から取り返しがつかなくなる。


今日の爪跡確認も同じだ。


俺の生活を街に置くなら、地面がどう壊れるかを知らなければならない。


ゴルドさんは、赤布の外側から爪跡を眺めた。


昨日、俺が前脚を動かした場所。


食事の時に首を下げた場所。


起床練習で地面を削った場所。


そこには、いくつもの深い溝が残っていた。


俺からすれば、少し擦っただけだ。


でも、人間から見れば、小さな農具で掘った溝くらいある。


ゴルドさんは腰の道具袋から、細い棒と紐を取り出した。


測る道具らしい。


「爪一本の幅が……これか。深さは、かなりあるな」


「そんなに?」


俺が聞くと、リシェルさんがすぐに言う。


「発声量」


「あ、はい」


ゴルドさんは地面を見たまま答えた。


「竜さん。あんた、たぶん自分で思ってるより重い」


「でしょうね」


「土がただ削れてるんじゃねえ。押し潰されて締まってる。これを毎日やれば、草地じゃ保たねえ」


「保たない」


「雨が降れば泥になる。泥になったら足を取られる。足を取られたら、あんたは踏ん張る。踏ん張れば、もっとえぐれる」


リシェルさんの筆が走る。


「雨天時、地面損傷拡大の可能性」


「また規則が増えそう」


「増えます」


即答だった。


俺は少し遠い目をした。


ゴルドさんは、別の爪跡の前でしゃがんだ。


「こっちは首を下げた時か?」


リシェルさんが答える。


「昨日の食事時、パンの受け取りで前脚に荷重がかかった箇所です」


「パンでこれか」


「はい」


「竜さん」


ゴルドさんが俺を見上げる。


「はい」


「パン食うだけで地面がこうなるなら、肉を骨ごと噛むとか、硬いもんを踏むとかは今の場所じゃやめとけ」


「肉を骨ごと食べる予定はないです」


「予定がなくても、腹が減れば分からん」


「信用がない」


「信用じゃねえ。大きさの問題だ」


その言葉は、妙にすとんと落ちた。


信用じゃない。


大きさの問題。


俺が善良かどうかとは別。


俺が気をつけるかどうかとも別。


体が大きい。


重い。


硬い。


それだけで、周りには準備が必要になる。


ゴルドさんは俺を責めているわけではなかった。


ただ、素材と重さを見ている。


そこに感情は少ない。


だからこそ、嘘がなかった。


「じゃあ、どうすればいいですか?」


俺はできるだけ小さく聞いた。


ゴルドさんは、地面を棒で軽く叩いた。


「まず、土のままは駄目だ。よく使う場所には丸太を沈めるか、石を敷く。だが石だけだと割れる。鉄板なんざ論外だ。高すぎるし、熱を持つし、下手すりゃ滑る」


「鉄板って、ドラゴン用の床みたいな?」


「夢を見るな。街一つ分の金がいる」


「ですよね」


リシェルさんが記録する。


「仮滞在区域の地面補強が必要。全面鉄板化は非現実的」


「全面鉄板化、誰も本気で言ってないです」


「可能性として記録します」


この人、本当に可能性を逃がさない。


ゴルドさんは続ける。


「現実的には、足を置く場所を決める。そこだけ補強する。寝る場所も決める。尻尾の位置も決める。動く場所を増やさねえ」


「俺の生活範囲がさらに固定される」


「動けば壊れるなら、壊れねえように動く場所を決めるしかねえ」


正論だった。


でも、少し苦しい。


赤い布の内側だけでも狭く感じているのに、その中でさらに足を置く場所まで決める。


俺は、ますます動けなくなる。


「ソラ殿」


リシェルさんが言った。


「不満がありますか」


「あります」


正直に答えた。


「でも、必要なのも分かります」


リシェルさんは筆を止めた。


「そのまま記録します」


「はい」


「不満あり。ただし必要性は理解」


「なんか、俺の心が書類にされるのにも慣れてきました」


「慣れすぎないでください」


「どっちですか」


「正確に記録されることには慣れてください。雑に扱われることには慣れないでください」


俺は黙った。


昨日の鱗の件を思い出した。


自分を削ることと、役に立つことを同じにしない。


雑に扱われることに慣れない。


リシェルさんの言葉は、時々、規則の形をした釘みたいに胸へ刺さる。


痛いけど、必要なところに打たれる。


ゴルドさんは次に、俺の爪そのものを確認したがった。


もちろん、近づいて触るわけではない。


そんなことは許可されない。


俺が前脚を少しだけ前へ出し、爪を地面につけずに見せる。


ゴルドさんは赤布の外から目視する。


ただ、それだけ。


それだけなのに、手順はまた増えた。


「ソラ殿、前脚を動かします。速度は昨日の起床練習より遅く」


「はい」


「爪を地面へ接触させないこと」


「はい」


「途中で疲労または違和感があれば停止」


「はい」


「ゴルドさん、赤布内へ入らないでください」


「分かってる」


ラウル隊長も近くにいる。


弓兵も城壁上にいる。


俺は前脚をゆっくり動かした。


本当にゆっくり。


爪が地面に触れないように、持ち上げる。


爪一本が、人間の腕より長い。


自分で見ても怖い。


これで誰かに触れたら、触れたつもりがなくても切れる。


「停止」


リシェルさんの声。


俺は止まる。


前脚を上げたまま。


けっこうきつい。


ドラゴンの体は力があるが、細かい姿勢の維持には慣れていない。


「ソラ殿、呼吸」


「はい」


鼻息を上へ。


ゴルドさんが爪をじっと見た。


「こりゃ……」


低い声。


「普通の鉄じゃ無理だな」


「何がですか」


「削るのも、抑えるのもだ」


「抑える?」


「爪に保護具をつけるなら、って話だ」


俺は目を瞬いた。


「爪に保護具?」


リシェルさんが少し反応した。


「ゴルドさん、説明を」


「竜さんが毎回地面を削るなら、爪先に革か金属で覆いをつける手もある。馬の蹄鉄みてえなもんだ」


「俺、馬扱いですか」


「違う。道具の考え方が近いってだけだ」


ゴルドさんは即座に言った。


その言い方に、少し救われた。


昨日の商人なら、たぶん俺を素材として見た。


でもゴルドさんは、道具を考えている。


俺を切り分けるためではなく、俺が壊さずに動くための道具。


「ただし、普通の革じゃ裂ける。鉄も薄けりゃ曲がる。厚くすりゃ重くなる。重くなれば、竜さんの負担になる」


「爪カバー、難しいんですね」


「難しい。だが、足場を補強するだけじゃ足りねえ場面も出る。街の近くにいるなら、いつか必要になるかもしれん」


いつか。


その言葉に、少しだけ胸が動いた。


いつか必要になる。


それは、俺がここに長くいるかもしれないという前提の言葉だった。


もちろん、確定ではない。


十日後の王都報告次第で、俺は追い出されるかもしれない。


討伐や管理対象になるかもしれない。


でも、ゴルドさんは今、「いつか」を前提に考えてくれた。


「ありがとうございます」


俺は言った。


「まだ作れるとは言ってねえ」


「でも、考えてくれてるので」


ゴルドさんは少しだけ鼻を鳴らした。


「勘違いするなよ。こっちは街を守るためだ。あんたがちょっと前脚を動かすたびに道がえぐれちゃ困る」


「はい」


「だが、街を守るには、あんたが無理なく止まれる道具もいる」


リシェルさんの筆が止まった。


俺も黙った。


街を守るには、俺を縛るだけでは足りない。


俺が無理なく止まれる道具がいる。


ゴルドさんは、そう言った。


職人の言葉だった。


「記録します」


リシェルさんが言った。


「仮滞在区域の地面補強、および将来的な爪保護具の検討。目的は周辺被害軽減とソラ殿の負担軽減」


「負担軽減」


俺は小さく繰り返した。


「俺の負担も入るんですね」


リシェルさんは当然のように答えた。


「あなたが無理をすれば、周辺被害につながります」


「理由は街のためですか」


「街のためでもあります」


「でも、それだけじゃない?」


リシェルさんは少しだけ目を伏せた。


「記録上は、街の安全のためです」


記録上は。


その言い方で、俺は少しだけ分かった。


リシェルさんは、まだ俺を安全だとは思っていない。


全面的に受け入れてもいない。


でも、俺の負担を減らすことも必要だと考えてくれている。


それが職務上の判断でも。


少しだけ、嬉しかった。


昼過ぎ。


ゴルドさんは、俺の爪跡をいくつも測り終えた。


結果として、仮滞在区域に新しい規則が増えた。


足置き位置の指定。


起床時の前脚移動角度。


雨天時の移動禁止。


地面補強まで、同じ場所での反復動作を避けること。


「俺、だんだん置物みたいになってきてません?」


俺が言うと、ゴルドさんが笑った。


「置物は腹鳴らさねえだろ」


「確かに」


「それに、置物はパンの味見もしねえ」


「それも確かに」


グレタさんの硬焼きパンの話は、もうゴルドさんにも伝わっていたらしい。


街の中で、俺の話はかなり広まっているのかもしれない。


災害級ドラゴン。


寝返り申請。


焦げパン試食。


鱗の商人。


そして今日は、爪跡測定。


どれだけ変な噂になっているのか、怖い。


「ソラ殿」


リシェルさんが言った。


「はい」


「ゴルドさんの確認により、あなたの爪および体重による地面損傷は、継続的な仮滞在における重要課題と判断されました」


「はい」


「ただし、足場補強および動作位置の指定により、管理可能性があります」


管理可能性。


その言葉に、少しだけ息がしやすくなった。


危険。


不明。


禁止。


保留。


そういう言葉ばかりだった。


でも今、管理可能性と言われた。


完全に安全ではない。


でも、工夫すれば扱えるかもしれない。


「それ、王都報告に載りますか」


俺が聞くと、リシェルさんは頷いた。


「載せます。危険性と同時に、対策可能性として」


危険性だけではない。


対策可能性。


それも書かれる。


「お願いします」


「承知しました」


ゴルドさんが道具袋を閉じた。


「しかし、竜さん」


「はい」


「あんたの爪、妙だな」


空気が少し変わった。


リシェルさんがすぐに聞く。


「妙、とは」


「硬いのは分かる。でかいのも分かる。だが、爪跡の底が焼けてもいねえのに、少し光ってる」


「光ってる?」


俺は自分の足元を見たい衝動に駆られた。


でも首を動かすなと言われている。


動けない。


リシェルさんが爪跡に近づく。


もちろん赤布の外側から。


ゴルドさんが棒で示した場所を見る。


「……確かに、わずかに銀色の粒があります」


銀色の粒。


昨日の鱗の黒銀とは違うのか。


それとも同じなのか。


「俺、何か出してます?」


俺が聞くと、リシェルさんはすぐには答えなかった。


「断定できません」


「危ないですか」


「現時点では不明です」


不明。


また不明。


俺の体には、まだ知らないことが多すぎる。


ゴルドさんは腕を組んだ。


「普通の竜なら、爪跡はただの傷だ。だがこれは、まるで爪が土に何かを残してるみてえだ」


「何か」


「俺は鍛冶屋だ。魔術師じゃねえ。だから詳しくは分からん」


ゴルドさんは、リシェルさんを見た。


「だが、ただ硬いだけの爪じゃねえと思う」


胸の奥が少し冷えた。


また一つ、俺が普通ではない理由が増えた。


いや、巨大ドラゴンになっている時点で普通ではない。


でも、この世界の竜としても普通ではないかもしれない。


その可能性が、少しずつ積まれていく。


リシェルさんは、表情を硬くした。


「銀色粒子については採取せず、現地封鎖とします」


「拾わないんですか?」


俺が聞く。


「昨日の竜素材規則に準じます。あなた由来の可能性がある以上、無断採取は避けます」


「でも調べないと」


「調べます。ただし手順を作ってからです」


手順。


この世界で俺に関わるものは、すべて手順になる。


でも、その手順が俺を守る。


昨日、そう知ったばかりだ。


「分かりました」


俺は言った。


「勝手に触らないでください。俺も動きません」


リシェルさんが頷く。


「その判断を記録します」


ゴルドさんも小さく頷いた。


「それがいい。焦って触るもんじゃねえ」


その時、城壁の上から小さな声がした。


「あの銀色の粒、数えた方がいいの?」


子どもの声だった。


俺は目だけを動かした。


城壁の上、兵士の後ろ。


小さな男の子が、身を乗り出しそうになって、隣の女性に襟を掴まれている。


リシェルさんの声が鋭く飛ぶ。


「子どもを城壁端へ近づけないでください」


女性が慌てて頭を下げる。


「す、すみません! トマ、下がりな!」


トマと呼ばれた少年は、まだこちらを見ていた。


目がきらきらしている。


怖がっているというより、知りたくて仕方ない顔だった。


「でも母ちゃん、あんなに大きい爪跡、何個あるか数えたら分かりやすいよ!」


数える。


爪跡を。


銀色の粒を。


俺は、少しだけ笑いそうになった。


リシェルさんは、全然笑っていなかった。


「本日の確認に、未成年者の参加は許可していません」


「未成年者って俺?」


トマが聞く。


「はい」


「じゃあ見てるだけ!」


「城壁端から下がってください」


「はーい」


返事だけはいい。


トマは下がった。


でも、完全には離れない。


城壁の内側から、まだこっそりこちらを見ている。


ゴルドさんが小さく笑った。


「あれはグレタんとこの向かいの子だ。数を覚えたがっててな」


「数を?」


「市場で母親の手伝いをするのに、おつりを間違えたらしい」


「なるほど」


リシェルさんの筆が、そこで止まった。


俺も、少し考えた。


数。


計算。


おつり。


それなら、俺にも少しは教えられるかもしれない。


前世で特別な知識があるわけじゃない。


でも、足し算や引き算くらいなら分かる。


パンの分け方くらいなら説明できる。


ただし、子どもを近づけるのは危険だ。


声も注意が必要。


でも、城壁の上からなら。


遠くからなら。


「ソラ殿」


リシェルさんが言った。


「今、何か考えましたね」


鋭い。


「はい」


「内容を」


「子どもに近づくのは危ないです。でも、遠くからなら、数を教えられるかもしれないなって」


リシェルさんは黙った。


ゴルドさんも黙った。


ラウル隊長が城壁上を見た。


トマは、まだこちらを見ている。


「……検討します」


リシェルさんが言った。


「許可ではありません」


「分かってます」


「接近禁止。大声禁止。教材、位置、参加人数、保護者同伴、守備隊配置、すべて確認が必要です」


「算術教室だけで、また行政が」


「必要です」


必要。


やっぱり必要だった。


でも、今日の必要は少しだけ明るかった。


鱗を渡すのではなく。


自分を削るのではなく。


俺が知っていることで、誰かの役に立てるかもしれない。


爪跡の底に残った銀色の粒。


その不安は消えない。


でも、そのすぐ横で、子どもが数を数えたがっている。


怖さと、暮らし。


危険と、学び。


俺はその両方の間にいる。


夜。


俺は赤い布の内側で伏せていた。


今日も、何も壊していない。


いや、正確には、地面はかなり壊していた。


でも、それは記録され、測られ、対策されることになった。


ゴルドさんは爪保護具と足場補強を考えてくれるらしい。


俺の負担を減らし、街への被害も減らすために。


リシェルさんは、危険性と対策可能性を王都報告に書くと言った。


それはたぶん、俺にとってかなり大事なことだ。


俺は危険です。


でも、対策できます。


その二つが並ぶだけで、少しだけ未来が違う気がする。


ただ、銀色の粒のことは気になっていた。


爪跡の底に残った、小さな光。


俺の爪が土に何かを残しているのか。


俺の魔力なのか。


ただの鱗粉なのか。


分からない。


「ソラ殿」


城壁の上から、リシェルさんの声。


「はい」


「就寝前確認です。姿勢は」


「伏せでお願いします」


「尻尾位置」


「赤布内です」


「翼」


「畳みます」


「火炎」


「吐きません」


「鱗」


「抜きません。渡しません」


「爪」


「地面を削らないよう努力します」


「努力ではなく、指定位置を守ってください」


「はい」


少しだけ、いつもの調子に戻った。


俺は城壁を見上げる。


リシェルさんの姿は、灯りのそばにあった。


「リシェルさん」


「はい」


「子どもに数を教える話、やっぱり危ないですか」


「危険要素は多いです」


「ですよね」


「ですが、検討する価値はあります」


俺は少しだけ目を開いた。


「本当に?」


「はい。あなたが街に利益をもたらす方法として、自身の身体を削るより健全です」


その言葉に、胸の奥が温かくなった。


自分を削らずに役に立つ。


昨日言われたことの、別の答え。


「じゃあ、もし許可が出たら、ちゃんと小さい声で教えます」


「小さい声では足りません。聞こえるが、風圧を生まない声量が必要です」


「難しい!」


「練習します」


「はい」


リシェルさんは、少しだけ間を置いた。


「それと、ソラ殿」


「はい」


「爪跡の銀色粒子について、自分を責めないでください」


言われる前に、心を見抜かれた気がした。


「……まだ何も言ってません」


「言いそうでした」


「鋭い」


「記録を続けているので」


リシェルさんは静かに言った。


「不明なものは不明として扱います。あなたが悪いと決めるのは、調査後です」


「調査後に悪い可能性はあるんですね」


「あります」


「正直」


「ですが、悪くない可能性もあります」


それは、リシェルさんにしては珍しく、少しだけ柔らかい言い方だった。


俺は目を閉じた。


「ありがとうございます」


「受け取っておきます」


いつもの返事。


それを聞いて、俺はようやく力を抜いた。


夜の城壁の向こうで、小さな子どもの声がした気がした。


「三つまでは数えられるよ」


すぐに誰かが叱る声もした。


俺は笑いそうになって、鼻息を上へ逃がした。


明日、もしかしたら。


俺は初めて、この街の子どもに数を教えるかもしれない。


ただし、城壁越しに。


赤い布の内側から。


発声量を管理されながら。


それでも。


鱗を渡すより、ずっといい。


俺はそう思いながら、静かに目を閉じた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

今回はゴルドさん登場回でした。

ソラ本人は慎重に動いているつもりでも、爪跡ひとつで地面が大変なことに。

街に受け入れてもらうには、気持ちだけではなく、足場や道具や手順も必要です。

そして次回、ソラ先生が誕生します。


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