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城壁横の古龍さんは住民票がありません  作者: 乾燥しいたけ
第一章 赤い布の内側で

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第6話 ドラゴン、鱗一枚で揉める



ドラゴン生活三日目・朝。


俺、竜咲空。


現状、巨大ドラゴン。


西門外の草地で仮滞在中。


昨日は、街のパン屋のグレタさんから焦げた試作品をもらった。


食べるだけで手順が作られた。


前歯で慎重に受け取れとか、街側を向いて噛むなとか、むせたら上へ逃がせとか、うまいと思っても大声を出すなとか。


パン一つ食べるのに、俺は完全に危険物だった。


でも、そのパンはうまかった。


焦げていたけど、ちゃんと街の味がした。


それに、俺の感想がグレタさんの新しい商品案につながった。


硬焼きパン。


スープに入れる携帯食。


守備隊や旅人向けに使えるかもしれない。


ほんの小さなことだ。


でも、十日後の王都報告に「街に利益をもたらす事例」として残るかもしれない。


俺は、少しだけ浮かれていたのだと思う。


街に近づけた。


誰かの役に立てた。


ここにいてもいい理由を、一粒だけ拾えた。


そんなふうに。


だから昨日の夕方、街道の方で商人らしき男が俺の鱗を見ていた時も、最初は軽く考えてしまった。


鱗くらいなら、あげてもいいのかな。


俺は、そう言った。


その瞬間、リシェルさんの声が飛んだ。


絶対に一人で判断しないでください。


いつもの冷静な声とは違った。


少し鋭くて、少し怖かった。


そして今朝。


その理由が、嫌というほど分かることになった。


朝の確認が終わった頃、街道側から昨日の商人が連れてこられた。


連れてきたのはラウル隊長の部下だった。


商人は細身の男で、年は三十代くらい。


灰色の上着。


革の荷袋。


口元には商売人らしい笑みが浮かんでいる。


ただし、目が忙しい。


俺を見る。


リシェルさんを見る。


赤い布を見る。


地面を見る。


そして、俺の前脚の鱗を見る。


目の動きが、そこだけ明らかに変わる。


俺はその視線に、少しだけ身を固くした。


別に、敵意を向けられたわけではない。


剣を抜かれたわけでもない。


矢を向けられたわけでもない。


でも、昨日のパン屋のグレタさんとは違う。


グレタさんは、俺を見て「でっかいねえ」と言った。


腹が減るのは生きてる証拠だ、と笑った。


この商人は違う。


俺を見ているようで、俺の一部を見ている。


俺が何を思っているかではなく、俺から何が取れるかを見ている。


「リシェル補佐官殿」


商人は丁寧に頭を下げた。


「昨日は誤解を招く行動を取り、失礼いたしました。私は行商人のバルドと申します」


名前が出た。


バルド。


俺はその名前を頭の中で繰り返した。


たぶん覚えた方がいい。


こういう人は、忘れた頃にまた来る。


リシェルさんは書類板を抱えたまま、淡々と言った。


「昨日、指定区域外に落ちていた黒銀色の破片を注視していた件について確認します」


「注視というほどでは」


「複数名が確認しています」


「……ええ、まあ、珍しいものではございましたので」


「採取の意思はありましたか」


いきなりだった。


商人の笑みが、ほんの少し止まる。


リシェルさん、切り込みが鋭い。


俺の寝返りには申請が必要なのに、尋問には助走がない。


「採取というより、確認を」


「許可なく採取する意思があったかを聞いています」


「それは……商人として、価値を見極めたいという気持ちはございました」


「採取の意思あり、と記録します」


「そこまで断定されるのは」


「では否定しますか」


バルドは口を閉じた。


沈黙。


答えたようなものだった。


リシェルさんは筆を動かす。


俺は、自分の前脚を見た。


黒銀の鱗。


朝日を受けて、少しだけ冷たい光を返している。


人間だった頃、髪の毛が抜けても気にしなかった。


爪を切っても何も思わなかった。


でも今、目の前で自分の鱗の欠片に価値を見られていると、妙に落ち着かない。


俺の体の一部。


ただの欠片。


でも、俺のもの。


「ソラ殿」


リシェルさんがこちらを見た。


「はい」


「昨日、あなたは『鱗くらいなら、あげてもいいのかな』と発言しました」


「はい」


「現時点で、その考えに変化はありますか」


俺は少し迷った。


正直に言うなら、まだ少し思っている。


落ちた欠片くらいなら。


痛くないなら。


街に迷惑をかけている分、何か返せるなら。


でも、リシェルさんの表情は硬い。


これは、簡単な話ではないのだろう。


「よく分からなくなりました」


俺は答えた。


「昨日は、欠片くらいならいいかなと思いました。でも、リシェルさんが止めたので、たぶん俺が分かってない危険があるんだと思います」


リシェルさんは、少しだけ頷いた。


「その認識で構いません」


バルドがすかさず口を挟む。


「もちろん、無理に取ろうなどとは考えておりません。ただ、もし自然に落ちた欠片であれば、街の収入にもなりましょう。竜殿にも不利益はないのでは?」


竜殿。


その呼び方が、少しだけ気持ち悪かった。


丁寧なのに、俺ではなく商品に話しかけられている気がした。


「不利益はない、ですか」


リシェルさんが静かに言った。


「はい。抜くわけではありません。落ちたものを拾うだけです」


「では、あなたの髪や爪が落ちていたとして、それを誰かが勝手に拾い、売買しても不利益はないと?」


バルドが一瞬黙った。


「人間の髪や爪と、竜の鱗を同列には」


「ソラ殿は人語を解し、自身の意思を持ちます。体の一部を本人の許可なく扱うことはできません」


その言葉に、胸の奥が少し揺れた。


本人。


体の一部。


許可。


俺は、ただの大型竜種として扱われていると思っていた。


危険物。


仮滞在者。


未確認存在。


でも今、リシェルさんは俺の鱗を、俺の体の一部として扱った。


勝手に拾って売っていいものではないと、言った。


それが、思っていた以上に嬉しかった。


同時に、怖くもなった。


俺が「いいですよ」と軽く言えば、それがどれだけ大きな意味を持つのか。


やっと少し分かってきた。


バルドは、それでも引かなかった。


「もちろん、本人の許可があれば、という話でございます。竜殿が善意で提供されるなら、街にも利益が出ます。十日後の王都報告にも、好材料になるのでは?」


うまい。


嫌な言い方だけど、うまい。


俺が今、何を気にしているかを突いてくる。


街に利益。


王都報告。


ここにいてもいい理由。


その言葉を出された瞬間、俺の心は少し揺れた。


鱗一枚で、街に利益が出るなら。


それが十日後の評価につながるなら。


痛くないなら。


俺は。


「ソラ殿」


リシェルさんの声が飛んだ。


鋭い。


でも、昨日より少し低い。


止めるための声だ。


俺は止まった。


何をしようとしたのか、自分でも一瞬遅れて気づいた。


前脚の鱗を見ていた。


爪を引っかければ、剥がせるのではないか。


そんなことを考えかけていた。


ぞっとした。


「……今、俺」


「鱗を自分で外そうとしました」


リシェルさんが言った。


「未遂です」


未遂。


寝返りだけではなく、鱗抜きも未遂になった。


でも今回は笑えなかった。


自分の体を、自分で傷つけようとしていた。


街のため。


評価のため。


役に立つため。


でも、それは本当に俺の判断だったのか。


それとも、バルドの言葉に乗せられただけなのか。


「すみません」


俺は小さく言った。


「俺、ちょっと軽く考えてました」


「そのようです」


リシェルさんは否定しなかった。


「ソラ殿。あなたの善意は、利用される可能性があります」


その言葉は重かった。


俺は動けなかった。


「あなたは、街に受け入れられたい。十日後の報告を気にしている。害だけでなく利益を示したい。そうですね」


「はい」


「その気持ちは理解できます。ですが、その焦りを見抜く者もいます」


バルドが少し顔をしかめた。


「まるで私が悪人のような」


「悪人かどうかは現時点で判断していません」


リシェルさんは冷静に返した。


「しかし、あなたの提案は、ソラ殿の心理的弱点を利用する形になっています」


強い。


本当に強い。


バルドの笑みが少し薄くなる。


リシェルさんの言葉は、剣ではない。


でも、逃げ道を一つずつ塞ぐ。


「竜素材の売買を完全に否定しているのではありません」


リシェルさんは続けた。


「しかし、今この時点で、本人の理解が不十分なまま提供させることは認められません」


「理解とは」


バルドが聞く。


「価値、流通、所有権、身体への影響、宗教的意味、軍事利用の可能性、模倣者の出現、盗難、密売、偽造、そしてソラ殿本人の扱われ方の変化です」


一気に出た。


俺は思わずリシェルさんを見た。


「そんなにあります?」


「あります」


即答。


「鱗一枚で?」


「鱗一枚だからです」


リシェルさんは、俺を見た。


「最初の一枚には、前例を作る力があります」


前例。


その言葉が、妙に怖かった。


最初の一枚を渡せば、次が生まれる。


自然に落ちた欠片ならいい。


なら、少し引っ張って抜けたものは?


痛くなければ?


本人がいいと言えば?


街のためなら?


王都のためなら?


神殿のためなら?


軍のためなら?


言葉が、少しずつずれていく。


俺の鱗が、俺の体から離れて、誰かの都合のいいものになっていく。


「……俺、渡さない方がいいですね」


「現時点では、はい」


リシェルさんははっきり答えた。


「将来的な取り扱いについては、アルバート子爵の判断、本人の明確な同意、安全確認、記録、保管手順、流通禁止または許可範囲の設定が必要です」


「俺の鱗、もう行政案件ですね」


「あなた全体が行政案件です」


「ですよね」


少しだけ笑いかけた。


でも、笑えなかった。


バルドは、まだ諦めていない顔をしていたからだ。


リシェルさんは、ラウル隊長に指示を出した。


「指定区域内外に落ちている鱗、鱗片、爪片、血液、抜け落ちた体毛に類するものを確認してください」


「体毛あります?」


俺は小さく言った。


「念のためです」


ラウル隊長は頷いた。


「守備隊で拾得物を封鎖する。無断採取は禁じる」


「お願いします」


すぐに兵士たちが動き始めた。


赤い布の周辺。


俺が昨日動いた場所。


木板でパンを受け取った場所。


地面の傷。


そこに落ちていた小さな黒銀の欠片が、布の上に集められていく。


思ったより、いくつかあった。


小さい。


本当に小さい欠片。


俺が動いた時に擦れて落ちたものだろう。


でも、バルドの目は、その欠片に吸い寄せられていた。


「それらは、どうされるので?」


バルドが聞く。


リシェルさんは答えた。


「一時封印し、アルバート子爵へ報告します」


「廃棄は?」


「方法が不明です」


「保管にも危険があるのでは」


「あります」


「であれば、専門の商人に預けるという手も」


「あなたに預ける予定はありません」


ばっさり。


バルドの笑みが完全に消えかけた。


「補佐官殿。商業的価値を理解されていないのでは?」


その言い方に、ラウル隊長の目が鋭くなった。


俺も少し嫌な気分になった。


リシェルさんは表情を変えなかった。


「理解しているから止めています」


静かな声だった。


「価値があるものは、人を動かします。人を動かすものは、街を乱します。今のレグナに必要なのは、竜素材の流通ではなく、ソラ殿の安全な仮滞在体制です」


バルドは何か言いかけた。


しかし、ラウル隊長が一歩前に出る。


「これ以上は、領主判断の前に商談を進めようとする行為と見る」


バルドは口を閉じた。


ラウル隊長の声には、城壁の上で兵士たちを動かしていた時と同じ重さがあった。


「……承知しました」


バルドは頭を下げた。


「本日は失礼いたします。ただ、いずれ正式にお話しする機会をいただきたく」


「申請書を提出してください」


リシェルさんが言った。


「申請書」


「竜素材に関する接触申請、商業提案、流通希望、保管方法案、利益配分案、危険管理案、本人同意取得方法を明記してください」


バルドが固まった。


「それは、かなりの量に」


「必要です」


強い。


必要が、今日も強い。


バルドは苦い顔で頭を下げた。


そして、街道の方へ戻っていった。


今度は昨日のように何度も振り返らなかった。


でも、背中から諦めた気配はしなかった。


むしろ、次にどう出るかを考えているように見えた。


バルドが去った後、赤い布の周辺はしばらく静かだった。


兵士たちは鱗の欠片を布に包み、木箱へ入れた。


その木箱には、リシェルさんが封をした。


紙に文字を書き、紐で縛り、封蝋を押す。


俺はその様子を見ていた。


俺の鱗。


俺の体から落ちた欠片。


それが箱に入れられ、封印される。


変な気分だった。


大事にされているようでもあり、危険物として隔離されているようでもある。


たぶん、どちらも正しい。


「ソラ殿」


リシェルさんが言った。


「はい」


「先ほどの件について、確認します」


「はい」


「あなたは、自分の鱗を提供する意思がありますか」


俺は少し考えた。


「今は、ありません」


「理由は」


「よく分かっていないからです。価値も、危険も、俺の体への影響も。それに、役に立ちたいからって、焦って渡すのは違う気がします」


「その判断を記録します」


「お願いします」


リシェルさんの筆が動く。


「本人、現時点での竜素材提供を拒否。理由は理解不足および焦りによる判断回避」


「拒否って言われると強いですね」


「明確にする必要があります」


「はい」


明確にする。


俺は渡さない。


今は。


この一文があるだけで、誰かが勝手に「竜が許可した」と言いにくくなるのかもしれない。


それもまた、俺を守る書類なのだろう。


「リシェルさん」


「はい」


「止めてくれて、ありがとうございます」


リシェルさんは、筆を止めた。


「あなたが止まったからです」


「でも、言われなかったら外そうとしてました」


「だから、止めました」


「はい」


少しの沈黙。


「ソラ殿」


「はい」


「あなたが街に役立とうとすること自体は、悪いことではありません」


「はい」


「ですが、自分を削ることと、役に立つことを同じにしないでください」


その言葉は、胸の奥に深く沈んだ。


自分を削ることと、役に立つこと。


俺は、少しだけ前世のことを思い出した。


仕事で無理をして、誰かのためと言いながら、自分の限界を見ないふりをしたこと。


頼まれると断りづらくて、軽い気持ちで引き受けて、後からしんどくなったこと。


ドラゴンになっても、そういうところは変わっていないのかもしれない。


体が三十五メートルになっても、中身は相変わらず俺だ。


「……分かりました」


俺は言った。


「役に立ちたいです。でも、自分を勝手に削るのはやめます」


リシェルさんは、小さく頷いた。


「その方針でお願いします」


方針。


俺の生き方まで、だんだん行政用語になる。


でも、悪くない。


今は、その方が助かる。


昼過ぎ、アルバート子爵からの返答が届いた。


リシェルさんの報告を受けて、すぐに指示が出たらしい。


竜素材に関する暫定規則。


一、ソラ殿の鱗、爪、血液、その他身体由来物の無断採取を禁止する。


二、自然脱落物であっても、指定区域内外を問わず、発見時は守備隊または行政補佐官へ届け出ること。


三、売買、保管、譲渡、加工を禁ずる。


四、本人による提供申し出があっても、領主判断、身体影響確認、本人理解確認が済むまで受理しない。


五、違反者は領主令に基づき処罰対象とする。


読み上げられた時、俺は思わず黙っていた。


早い。


判断が早い。


そして、思っていたより厳しい。


「アルバート子爵は、怒ってました?」


俺が聞くと、リシェルさんは答えた。


「怒っているというより、警戒しています」


「俺に?」


「あなたに対しても。あなたを利用しようとする者に対しても」


そっちもか。


アルバート子爵は、俺をただ気に入ってくれているわけではない。


昨日も言っていた。


民を守るためなら、退去も討伐も選択肢になると。


でも、民を守るというのは、俺から街を守るだけではないのかもしれない。


街の人間の欲から、俺を守ることも含まれる。


そう思ったら、少しだけ息がしやすくなった。


「ソラ殿」


リシェルさんが言った。


「はい」


「この規則は、あなたを自由にするものではありません」


「はい」


「むしろ制限です」


「分かります」


「ですが、あなたが軽率に自分を差し出すことも、他者があなたを勝手に切り分けることも防ぎます」


切り分ける。


嫌な言葉だった。


でも、今日の話を考えると、必要な言葉だった。


俺は巨大すぎる。


強すぎる。


価値がありすぎるかもしれない。


だから、俺自身が自分を雑に扱ったら、周りはもっと雑に扱う。


「ありがとうございます」


俺は言った。


「俺、自分の体なのに、この世界での価値が全然分かってませんでした」


「今後、少しずつ確認します」


「はい」


「ただし、確認のために鱗を抜くことはしません」


「しません」


「自分で剥がすこともしません」


「しません」


「商人に渡すこともしません」


「しません」


「寝ぼけて渡すことも」


「それは分からないけど、努力します」


リシェルさんの目が少し細くなる。


「就寝時の周辺管理に、竜素材保護項目を追加します」


「また寝る時の規則が増えた!」


「必要です」


必要は、今日も勝った。


夕方。


グレタさんがパンを持ってきた。


昨日より少し小さく割った硬焼きパンだった。


ただし、今日は試食ではない。


リシェルさんと守備隊の分もあるらしい。


「昨日の話、さっそく試したよ」


グレタさんは言った。


「少し焦がして、薄く切って、干し直した。スープに入れるにはまだ硬いけど、噛むには悪くない」


「もう作ったんですか」


「思いついたら試すのがパン屋だよ」


強い。


グレタさんは、俺を見上げた。


「それで、竜さん。鱗の件、聞いたよ」


「あ、はい」


「渡しちゃ駄目だよ」


意外なほど、あっさり言われた。


「グレタさんも、そう思います?」


「当たり前だよ。あんたが自分で剥がした鱗でパンが売れたって、気分が悪いじゃないか」


俺は少し黙った。


グレタさんは続ける。


「味の感想ならもらう。腹が減ったら焦げパンもやる。でも、体を削って礼をしようなんてのは違うよ」


胸の奥が熱くなった。


リシェルさんとは違う言い方だった。


でも、同じ方向を向いている。


「ありがとうございます」


「その代わり、明日も味見は頼むよ」


「それはやります」


「よし」


リシェルさんがすぐに言う。


「明日の食事提供は、手順確認後です」


「分かってるよ」


グレタさんは笑った。


「補佐官さん、今日は少しは食べたかい?」


「業務中です」


「業務中でも腹は減るよ」


「……後ほど」


「後ほどって言う人は、大体後で食べないんだ」


グレタさん、鋭い。


リシェルさんが少しだけ押されている。


俺は少し笑いそうになったが、耐えた。


今日笑うと、せっかく封印した鱗の箱が揺れる気がした。


夜。


俺は赤い布の内側で丸まっていた。


今日も、何も壊していない。


でも、少し怖いことを知った。


俺の体には価値がある。


俺の鱗一枚で、人の目が変わる。


商人が動く。


規則が増える。


領主が判断する。


俺自身の善意すら、誰かに利用されるかもしれない。


街に役立ちたい。


それは本当だ。


ここにいたい。


それも本当だ。


でも、そのために自分を切り売りしようとするのは違う。


リシェルさんが止めてくれた。


グレタさんも止めてくれた。


アルバート子爵は規則を作った。


俺の自由は増えていない。


むしろ制限は増えた。


でも、その制限は、俺を縛るだけではなかった。


俺を雑に扱わせないためのものでもあった。


「ソラ殿」


城壁の上から、リシェルさんの声がした。


「はい」


「就寝前確認です。姿勢は」


「伏せでお願いします」


「尻尾位置」


「赤い布の内側に収めます」


「翼」


「畳みます」


「火炎」


「吐きません」


「鱗」


「抜きません。渡しません。寝ぼけても努力します」


「努力ではなく、遵守してください」


「はい」


リシェルさんは、少しだけ息を吐いた。


「本日の最終記録。ソラ殿は竜素材提供の危険性について説明を受け、現時点で提供拒否を選択。自己判断による身体損傷を行わない方針を確認」


「はい」


「また、街への貢献手段として、食味確認を継続予定」


「はい」


「以上です」


俺は、夜の城壁を見た。


灯りがいくつか揺れている。


昨日より、少しだけその灯りが近く感じた。


でも同時に、遠くも感じた。


近づくということは、温かさだけじゃない。


欲も、規則も、危険も近づいてくる。


それでも。


森で一人に戻りたいとは、思わなかった。


「リシェルさん」


「はい」


「今日も、止めてくれてありがとうございました」


少しの沈黙。


「受け取っておきます」


いつもの言葉。


俺はそれを聞いて、ゆっくり目を閉じた。




ーーーーside アルバート


同じ頃、領主館の執務室で、アルバート子爵は封印された小箱を見ていた。


中に入っているのは、黒銀の鱗片。


ソラ=リュウザキ殿の身体から自然に落ちた、小さな欠片だ。


小さい。


本当に小さい。


だが、油灯の下で見ると、その欠片はただの鱗ではないことが分かる。


黒の奥に銀が走っている。


角度を変えると、わずかに光が動く。


硬度は未確認。


魔力反応も未確認。


だが、価値がないわけがない。


むしろ、価値がありすぎる可能性がある。


「厄介だな」


アルバートは呟いた。


竜が街のそばにいる。


それだけでも十分に厄介だ。


だが、竜は話す。


話すだけでなく、パンの味を見て商品案を出す。


そして、その体には商人が目をつけるほどの価値がある。


危険。


利益。


恐怖。


欲望。


それらが、たった三日で絡まり始めている。


アルバートは、リシェルの報告書をめくった。


ソラ殿、街に役立ちたいという焦りあり。

商人の提案により、鱗の自己抜去を試みかける。

停止指示により未遂。

本人、現時点での竜素材提供を拒否。

自己損傷を伴う貢献は行わない方針を確認。


アルバートは、その一文で目を止めた。


自己損傷を伴う貢献。


リシェルらしい表現だ。


そして、正しい。


あの竜は、危険だ。


だが同時に、危うい。


強大だから危ういのではない。


善良で、居場所を求めていて、役に立ちたがっているから危うい。


その善意に値段をつける者は、必ず出る。


今回の商人は、その最初の一人にすぎない。


アルバートは小箱に封を戻した。


「守る対象が増えた、ということか」


街をソラから守る。


ソラを街の欲から守る。


そして、その両方を王都へ説明する。


十日後の報告書は、さらに難しくなった。


アルバートは窓の外を見た。


西門の向こうに、黒銀の影が眠っている。


巨大で、危険で、どこか人間くさい竜。


「ソラ殿」


アルバートは静かに呟いた。


「あなたがこの街に害より利益をもたらす存在だと示せても、その利益を誰がどう扱うかを誤れば、あなたは別の形で災いになる」


小箱の中で、鱗片がかすかに光ったように見えた。


アルバートは表情を引き締めた。


「十日では、足りないかもしれないな」


だが、王都への正式報告は十日後。


期限は変わらない。


その夜、アルバート子爵の報告書には、新しい項目が加えられた。


竜素材に関する商業的接触。

無断採取の危険。

本人の善意利用への警戒。

領主令による暫定封鎖、実施済み。


ソラが街に近づくほど。


街もまた、ソラへ手を伸ばし始めていた。

読んでくださりありがとうございます。

今回は、ソラの鱗をめぐるお話でした。

善意で何かを差し出そうとすることが、必ずしも良い結果につながるとは限らない。

リシェルさんが止めたのは、ソラの体だけでなく、ソラの危うさそのものだったのかもしれません。

次回は、爪跡と鍛冶屋さんのお話です。


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