第36話 旦那様が不器用すぎて、目も当てられません
『そっくりな面しやがって! お前が代わりに死ねば――』
『――っ』
ガシャンと、割れた眼鏡がフローリングの床を転がった。口を切ったのか、足元にパタパタと赤が滴った。
――ああ、これは夢ね。
目の前の男は、殴るだけ殴って興味を失ったように背を向けた。かつて、父親だった人。もう、顔も覚えていない。
――そう。表彰台に上がったの。
翌日の全校集会。呼ばれて壇上に上がれば、ざわざわと、ざわめきが聞こえた。赤紫の頬に切れた唇、ヒビの走る眼鏡。
何故、こんな姿で賞状を受け取らなければならないのか、ここにいる誰よりも、聞きたいのは己自身だった。
『仮にも、夫となる方の顔くらいは覚えておくべきでしょうね。せいぜい愛されるように、努力を惜しまないことです』
受け取ったのは賞状ではなく、釣書の姿絵だった。目の前の人は先生ではなく、弟との間を取り持つ執事だった。個人に興味など無かったから、顔などろくに覚えてなどいない。
――だって別に、どうでも良かったわ。
前世も、今世も、最初は確かに愛された。けれど、愛を失った行き場のない激情が、暴力となって振りかざされた。
けれど、愛で守られて生かされたのは、傷物の貴族として価値がない小娘という末路。
この身にはきっと、何も残らないのだ。不幸を招くのならば、一人で生きていけるようになればいい。
『――では、誓いの口づけを……』
小難しい顔をして、隣に立っているのは眩しいほどの美丈夫だ。その瞳に熱はなく、鏡のようにドレスに身を包んだ己の姿が映る。
「――っ!?」
頬に添えられた何かの熱が、唇に触れる何かが――あつい。フルールの見開いた瞳に映ったのは、閉じられた目蓋に、長いまつ毛。
――違う。あの日、キスなんかしていない!
式では振りで終わったのだ。ルゼルヴェが頬に手を当てて上手く誤魔化していた。
「――っ、気が、ついた、か」
バチンと高らかな音が響き、唇から熱が遠ざかった。フルールがルゼルヴェの頬を叩いたと気づいたのは、目に飛び込んできた鮮やかな色彩だ。朧気だった姿が像を結ぶ。
――だ、旦那様!?
ストレートのさらりとした二藍のアルディよりも明るく、渋い青みの強い紫色の髪が揺れる。そこから覗く雄黄の明るい鮮やかな黄色の瞳。そして彼が口の端の赤い血を拭ったからだ。
「な、な、な――っ!?」
わなわなと震えるフルールに対し、ルゼルヴェは落ち着いたものだった。それどころか、肩の力を抜くように息をついている。
「……? なんだ?」
「――なんだ、じゃ、ありませんよねぇ!?」
「そうか? だが、読んだ本には……」
「本――!!」
――それはあれか、王太子妃が贈ったという、あれのことなのか!? というか、旦那様はそれを読んだの!?
目の前がぐるぐると回っているようで、フルールは思考がまとまらない。口をパクパクと開閉させ、頬は紅潮して熱いほどだ。
何がどうしてこうなったのか、全くもって、理解不能だった。
「それに、この場においては効果的だったのは間違いない」
真剣に考えるようにしていたルゼルヴェは、チラリとフルールへ視線を向けてた。まるで、観察しているようだ。
そういえば、やけに距離も近いくはないか。肩も熱いとフルールが見れば、彼の手がそこにあった。
「……どういう、状況ですの?」
ルゼルヴェは、地面に座り込んだフルールを向い合わせに抱えるような姿勢だ。
辺りは真っ白な氷に覆われていて、フルールとルゼルヴェの周りだけが、温度が違うのだろう、空気が揺れて景色が歪んで見える。
「どういう……、か。君が、氷結魔法を制御出来ていなかったから、止めたまでだ」
「制、御……?」
「辺り一帯どころか、君自身も凍るなどと暴走も良いところだぞ。何をしている?」
サラリと、ルゼルヴェは説明する。語尾に至っては呆れと、苛立ちが混ざっているようだ。
「何、を……? えと、ご迷惑をおかけしました?」
「……」
ルゼルヴェは物言いたげにフルールを見つめた後、片手でプチプチとシャツのボタンを外し始めた。
「あの――?」
「珍しく殊勝にしているが、そう思うならば、今回は受け取ってもらおうか」
フルールの肩に回した手を離し、ルゼルヴェは服を全て脱いで目の前に差し出した。
「はぁ!? ア、アホですの! 何、全部脱いでるんですか!?」
フルールはぎょっとして目を丸くする。慌てて隠すように顔に手を当てたが、バッチリと見てしまったために、勝手に脳内再生されてしまう。
――人生合わせても、異性のそんな姿見たことないのに!
ルゼルヴェの露になった白い肌、線が細いと思っていたのに、引き締まった上半身には無駄な贅肉が一切なく、筋肉がついていた。
さらには古い傷跡も幾つか見られ、砦での出来事を、モンスターとの生活を想像させられた。
「外に行くにも、その格好では出させられない。低体温も起こしてるんだ。後ろを向いているから、黙って着込め」
そう言ってフルールの膝の上、押し付けるように服を置くとルゼルヴェは背を向けた。
服と背をまじまじと見比べる。耳と肩が赤いのは、寒さかそれとも――。
「……ふふ」
「何が可笑しい」
「ああ、いえ。……ああ、お目汚し、失礼しました。旦那様」
らしくもない過去などを思い出したせいか、フルールは調子が狂う。言われるがままシャツに袖を通して、ボタンに手を掛けて気づく。二言目のああは、ずいぶんと低い音になった。
――醜いわよね。
服の胸元をザックリと切られていたのだ。剥き出しの肌は、ずいぶんと前の傷跡だというのに、冷えたせいで青紫の不気味な色をしていた。
傷跡をなぞり、フルールは目を伏せて小さく笑う。見えることが無いように、シャツのボタンをしっかりと留めた。
「……傷は」
「はい?」
「傷は、生きようとして出来るものだ。私は、それを悪いと思わない。必死に生きた証を笑う者の方が、間違っているだろう」
「それは、旦那様のような武人の誉れでしょう。お気遣い、ありがとうございます」
ルゼルヴェの背中にも、幾つか古い傷跡があった。前世、背後の傷は逃げた恥だと、そんな歴史があったとフルールは聞いたことがある。
――当時も、武人のことも、知らないけど。
フルールは、ルゼルヴェをカッコ悪いとは思わなかった。どうしようもない人だと思うけれども。
「傷は、傷だ。私に誇れと言うならば、君は、生き残ったことをもっと誇るべきだ。生きろと、願われて叶えたことを……。もっと、大切にするべきだ。
それは、他人と比べるものではない。他人に指図されるものでも、ないからな」
フルールにまっすぐと向き合ったルゼルヴェは、上着を被せて前にグッと引き寄せると、そっと合わせた。




