第32話 優先するべきは子どもたち
ぬっと男が物陰から出てきた。村人だろうかと、フルールは真っ先に思った。全ての村人と顔合わせを済ませたわけではないからだ。ただ、村の大人ならば今は忙しい時期のはずだ。
「……」
「――っ」
目があった瞬間、男の口角が上がった。ぞわりと悪寒が走り、フルールは男と自分たちとを隔てる、氷の壁を広範囲に築いた。
「わっ!?」
「なに、なに!?」
「凄い、綺麗!」
子どもたちは男に背を向ける形で、さらに花に夢中だった。背後に突然出来た氷を見て、口々に驚きの声をあげる。
「ふふ、続きはまた今度ね。大人の居るところまで先に戻ってくれる? あと、私の騎士様にも声を掛けてほしいわ?」
「お姉ちゃん、一緒に戻らないの?」
「誰が早いか競争よ。私は走れないから、後ろから歩いてくわね。そうそう、頑張って走った子には、ご褒美があるから」
いつも通りの声かけを心がけ、いつも通りの表情で子どもたちへ接する。
現時点で男の存在を、子どもたちに気取られるわけにはいかなかった。子どもたちの足が止まってしまうから。
「さぁ、位置について。よーい、ドン」
「キャー」
「ご褒美ー!」
楽しそうに走っていく子どもたちを確認してフルールは息を潜め、その場で立ち上がるとスカートの砂を払う。
このまま立ち去れるのか、どうするべきなのか――。
「――っ、この、離せよ!」
「おぅおぅ、わめけ、わめけ。向こう側の女に聞こえるように、な?」
「ジャン!?」
氷壁の向こう、ジャンの声が聞こえた。フルールは驚いて壁に手をつき呼び掛ける。
彼らは近くに居なかったはずだ。いや、いつものように遠くから、フルールが来たことを知って眺めていたのだろうか。
――ジャンがいるなら、いつも一緒のディリーは?
気泡混じりの氷は不鮮明で、向こう側がどうなっているか全く見えなかった。ゴクリと唾を飲み込んで、フルールは氷の向こうを睨んだ。
「村のガキらが惜しければ、こっちに来い。もちろん無抵抗で、なぁ?」
「……ただの人攫いじゃないのね、下衆の極みだわ。誰の指示、かしら?」
今、目の前にある氷壁は、フルールの身長よりも高く、回り込んで来ないように横へ長く築いていた。
魔法使いに、粗雑な男がわざわざ用がある時点でおかしい。
――ただの人攫いなら、リスクを考慮すれば普通は退くはずよ。
フルールは壁に手を当て、目の前の氷だけを溶かした。そこに現れたのは、二人の男。
そして男に襟首を掴まれ刃物を突きつけられたジャンと、別の男に口を塞がれ、涙をボロボロと溢すディリーだった。
「ディリー!」
「おっと、どうこうしようと思うなよ。頼まれてんのは、お前だけなんだ」
「……良いわよ、行こうじゃない。でも、子どもたちを解放しなさいよ」
ひゅっと、飲み込んだ息が止まるのを叱咤して、フルールは両手のひらを顔の横に持っていき、男たちへ降参と言わんばかりに応えた。
「やだねぇ。一人になったら、明らかにお前の方に分があるじゃねぇか、えぇ?」
「聞いてねぇよな。金ぇ、弾んでもらわねぇと」
男はディリーを乱暴に突き飛ばした。ディリーが地面へ転がるすぐ横で、もう一人の男はジャンの首元へ刃を押し当てたままだ。
「――おねぇ、ちゃ……!」
「ディリー。痛いところは、怪我は、ない?」
ディリーが中々起き上がらず、フルールは気が気で無かった。震えをひた隠し、声をかける。ディリーは顔を上げて、涙を溢しながらも頷き返してくれた。
――私が、しっかりするのよ。
ホッと胸を撫で下ろしたフルールに、男は肩に腕を回すと、首筋にナイフを当ててきた。生臭い吐息に、フルールは不快さを隠さず眉を寄せる。
もう一人の男がジャンの襟首を絞め上げ、反対の手でディリーの腕を掴んで強引に立たせた。
「おい、行くぞ」
以前、フルールは迷わず逃げた。失うものも、守るものも無かったからだ。
狙われたのが、フルールと家だけということも理由の一つだろう。
けれど今は、目の前の子どもたちだけでなく、フルールが滞在を知っていることが、その背景を複雑にさせた。
――雇われで、後ろ暗いことに慣れてて。
仮に抵抗して逃げ出しても、解決にはならない。心臓は早鐘を打ち、指先はすっかり冷え込んでいた。
フルールが男たちを捕まえるためには、情けないことに覚悟も技量も足りていなかった。
「なら、せめて手荒なことはしないで。脅す目的はすでに十分なのだから、痛めつける必要まではないはずよ」
「……ふん、ビビリもしねぇのか。口の減らねぇ女だなぁ」
フルールが侮蔑の視線を向けて真横の男へ言えば、にぃっとさらに笑みを深めて男が喋る。
首筋のナイフが音もなく下がっていき、服の胸元を割いた。
「へぇ?」
「下衆。子どもがいるのよ。無駄口叩いて良いのかしら? とっとと連れていきなさい」
男の視線がフルールの胸元のさらに下、醜くひきつれた傷跡を見て嗤う。
怒りも、恐怖も、何もなく、ただ冷えた声で男を急かした。
「おお、良いぜぇ。そこの林を抜ければ馬車がある。おら、足を動かせよ」
ナイフが再びフルールの首の後ろにあてがわれ、男の力によってグッと前に押し出される。
ナイフが僅かに擦れた皮膚から、ヒリリとした痛みが刺さるようだった。
――不在に気づけば、必ず動く。
フルールの魔法は、その場の勢いで使うには圧倒的に経験値が不足している。
時間稼ぎをするならば、相手の油断を誘った上で必要な想像力をじっくりと練るべきだ。
馬車と馬なら、馬の方が早い。フィアビリテなら安心して任せられる。その分、小言も貰うだろうが、この場に留まるよりもメリットがあるとフルールは考えた。
――後悔するが良いわ。喧嘩を売る相手が悪いのよ。
フィアビリテが、一人で無策に来るとも思えない。もう一人の不器用な彼を思い出して、フルールは小さく笑った。




