第19話 前とは違う。今、目の前に出来ることがあるのだから
「どう、どう……。良い子だから、ね?」
無我夢中で駆けた馬のスピードが次第に落ちていき、フルールはこれ以上進むのを断念する。高さのある背から、ゴクリと唾を飲むと意を決して降りた。
川は完全に決壊しており、足首までズブリと濁った泥水に浸かる。
「ここまでありがとう。貴方、フィアビリテの専属なんでしょう? 賢そうだから、ちゃんと今来た道を戻るのよ。きっと主が待ってるわ」
木々などで手綱が引っ掛からないように、フルールは外套を脱いでマフラーの要領で上から巻いた。
外套を脱ぐ前から、もうすでに全身びしょ濡れである。さらに水の流れに気を抜けば、足を取られそうだった。
「まるで、床上浸水ね」
茶色く濁った泥水で地面は全く見えず、枝や落ち葉といった物が散乱し流されている。
前世なら、間違いなくテレビで放映されていただろう。もしくは誰かがSNSに上げていたかも知れない。
フルールの眼前に広がるのは、そんなどこか現実味のない光景だった。
――土地勘も無いし、歩いて上流なんて行けるはずも無いわね。
それでも山は先程よりも大きく、流れる川幅は半分ほど狭くなっていて、上の方まで来れたのが分かる。
「あら……、土嚢の跡があるわ」
所々崩れているが、積まれた麻袋がちらほらと川沿いに見えた。誰かが対策を講じていたのだろう。ズブズブと重い足を持ち上げて、フルールは川の方へと進む。
――やるなら、もっとちゃんとしないと駄目でしょうに。
学の無さに呆れ、微笑を浮かべたフルールは手近な位置にある、その粗雑な土嚢の上に立つ。
グラグラと不安定なそれに、フルールは不服そうに少し唸って、土嚢と周囲の泥水ごと氷漬けにし足場を作った。
「……勢いのある水は、やっぱり土を掘るには十分だったわよね」
川全体を見下ろすほどの高さはないが、その全容は見える。フルールは積乱雲と川どちらの対処をするべきかと考えて、両手で目の上に屋根を作るように視界を確保し、川の外周を確認した。
「さっきの……わりと、遠くまで泳いでいたから……」
水龍を思い出しながら、フルールは片手の親指と人差し指で物差しに見立て、長さを確かめる。
これから行おうとしているのは、さっきの川ざらいの非ではなく、調節池という治水施設の創設だ。
「河川工学なんて、専門じゃないのに……」
雨の音に川の音、フルールの呟きは、その轟音に呑まれて音にはならない。
ザックリとした位置決めに、魔法のイメージを固めていく。
――そもそも川の歴史だけだったら、小学生で習うレベルよ。この国、お花畑なのかしら?
大昔に失敗を繰り返しながら、たくさんの被害を出したと、さらっと載せられていた教科書の一ページ。白黒の写真を眺めているだけだった過去。
今ここがその渦中にあるのならば、今度じっくりと治水計画を練りあげて叩きつけるしかないだろう。
「変なの。もう、ちっとも……怖くはないのよ。不思議とスッキリもしたし、ね。……だから」
水龍を出した時の、身体から魔力が抜ける感覚は心地良かった。雄々しい姿はフルールの想像した通りのもので頼もしく、前世の神話を基にした甲斐があったというものだ。
「もう一度。今度はそこに、穴を穿って――水龍」
大量の川の水を利用して顕現するのは、先ほどと同じ荘厳な龍。
フルールがあらかじめ目星をつけた川の外周を突き破り、さらにその先でとぐろを巻くように地中深くに穴を穿っていった。
――大きく、深く。水流で土を抉る。
流れ込んだ激流も合わさって、池はみるみる広大になっていく。この辺りは村も畑もなく、被害を考慮する必要がない。
「そもそも、ちゃんとしてないのが、本当に悪いんだから……」
誰がやったか分からない、足元の土嚢もそう。やるならば広い領地を活かして、遊水池や霞堤を設計すればいいのだ。
――人が、家が、奪われる前に。
吐息のように溢して、不意に膝が砕けた。その場に座り込めば、フルールの指先が小刻みに震えていた。
「……魔力」
フィアビリテの懸念を思い出して、フルールは口許に弧を描く。笑える状況ではないのに、自然に笑みが溢れた。
止めるという選択肢は、最初からないのだ。両手を握りこんで祈るように、額にこつりと当てた。
最後のイメージは、雲が水の集合体と知っているからすでに出来ていた。
「さあ、食事の時間よ。積乱雲を一滴も残さず、喰らい尽くしなさい。荒御魂たる水龍」
積乱雲を消さなければ、川下で洪水が起きた場合、とうもろこし畑が駄目になる。フルールは子どもたちにも、大丈夫だと告げたのだ。
邪念が混ざらないように、フルールは目を閉じてイメージ通りに魔法が成功するように、ただ祈った。
「天を裂き、浄化の光をかの地へ降り注ぎたまえ」
積乱雲を呑み込んだとして、その水龍が地上に降りれば、水量から水害は免れない。
だから、最後は天高く太陽の熱に灼かれるように願う。
――大丈夫、やると決めたんだもの。
積乱雲と周辺の乱層雲のみを呑み込んだ水龍が、上空へと消えていく。
空にはまだ、乱層雲のどんよりとした暗い影が降り続ける雨と共に広がっている。
けれど水龍が喰らい、ぽっかりと空いた雲の隙間から代わりに降り注いだのは、数日ぶりの眩しい陽の光だった――。




