第49話 出来ることを実行するだけだ
「寝ちまったかい」
やれやれと言った様子で、女将が皿を持って出てきた。テーブルに置かれたのはフルールの作ったものだ。
調理はすでに終わっており、裏口から女将が炊き出しを指示していたのを、ルゼルヴェは把握していた。
「……泣かせた」
「あれは良い涙だったから、許してやるさ」
ルゼルヴェに寄りかかるように、寝息を立てているフルールを見つめ、彼は呟いた。
それに女将は嘆息して笑顔を返すが、ルゼルヴェの表情は晴れない。
「涙に良いも悪いもないだろう。やはり私以外の適任者が……」
「バカ言いな。ルヴェ坊の嫁で、男の誰が手を出せるんだい。
女のカームだって無理だね。お嬢ちゃんが主として、猫被って終わり。良くも悪くも、ルヴェ坊しかいないんだよ」
食堂に着いて、女将にも休むように告げられたフルールは、愛想笑いを浮かべ進んで調理の手伝いに行っていた。
ルゼルヴェと居るよりは、よほど良いかと思って黙って見守っていたのだ。
「それにあれは、流さなきゃいけない必要なものだった。ルヴェ坊なら、少しは分かるんじゃないのかい?」
過去を指摘されて、ルゼルヴェは押し黙る。何年前だと思っている、と言いかけて止めた。それは、ルゼルヴェがとうに切り捨てた感情だった。
代わりに、眠るフルールの目元が赤く腫れているなと見つめていた。
「しかし、アタシが近くに居て気づかなかったのに、よく分かったね?」
「音が違ったからな」
フルールの手元までは、ルゼルヴェは見えていなかった。野菜を揚げる音と明らかに違う音を聞きつけて、彼女の手を掴みに行っただけだ。
「相変わらず、常人離れした耳だねぇ」
「――ただ、遅かった」
見た瞬間に、心臓を鷲掴みされたような苦しさをルゼルヴェは覚えた。
気づいて駆け寄るまでのわずかな時間に、高温に晒された第一関節までの表皮は、もう手遅れだった。
――痛みにも怪我にも、全く気づいてなかった。
酷い怪我は、見る者の精神を蝕む。ルゼルヴェは咄嗟に手で覆って隠した。
それからずっと自身の手を媒介に、氷魔法で冷やし続け温度調整をしていた。氷嚢で対処出来るものではなかった。
「だからって、いつまで手を握ってるつもりだい。全く……ルヴェ坊の手も手当てがいるじゃないか」
「私はいい。それに……まだ、ダメだ」
ルゼルヴェの凍傷を指摘した女将に、視線を向けることなく断った。直に触れているから、必要な加減が経験則で分かる。まだ早い。
――この程度、問題はない。
ルゼルヴェの手よりも、手仕事をするフルールに障りがあってはいけない。なによりも、彼女にこれ以上傷跡を増やしたくなかった。
「……で、えらく嫌われてたようだけど、ルヴェ坊は本当に、何をしたんだい?」
今は二人だけだと、昼間にはぐらかした分を吐けと女将は言う。
ルゼルヴェは嫌そうにため息を吐くと、目反らしてしぶしぶ口にした。
「……結婚当日に、好きにして良いと言ったら、彼女が……笑顔で出ていった、だけだ」
「そりゃあまた、よく捨てられなかったもんだねぇ?」
予想していたのだろう、女将はそれほど驚いていなかった。むしろフルールの肩を持つように、大きく頷いている。
「簡単に離縁など出来るものか、貴族だぞ」
結婚も離婚も、手続きや承認が必要だ。だからこそ、形式外の実際の生活など見るに耐えない場合がある。ルゼルヴェの両親のように。
「めんどくさいねぇ。身分なんてなけりゃ、気に入らないなら別れたら良いだけなのにさ。面倒な男に捕まって可哀想に……」
「おい」
ムッとしたルゼルヴェの向かいの椅子へと、腰を下ろした女将が面倒そうに告げた。
「事実じゃないか。愛がなくても折り合いをつけてくのが貴族様だろうに、ルヴェ坊はしなかったんだ。
まぁ、同じ空気を吸うのが嫌なほど彼女が愛想尽かしたら、ウチで雇ってあげるよ。炊き出しは好評だったからね、安心しな」
「止めろ。私が先に共同経営を持ちかけてるんだ」
ニヤリとからかうように笑う女将に、ルゼルヴェは吐き捨てた。最初に突き放しておきながら何をと自嘲気味に思うのに、フルールを手離すことに躊躇う気持ちが確かに芽生えていた。
「あぁ、あの通りの店を侯爵様が買ったって持ちきりのやつ。タイミングが良いこったよ。手を回したねぇ?」
「得意の情報収集のつもりか。私は、特になにもしていないぞ」
以前の繋がりで領地内の悪どい商売先を、ルゼルヴェが幾つか潰しただけだった。結果、領内が整理され空き店舗が数件出来た。
「そうかい、そいじゃ、ま。せいぜい頑張りな。ワケアリでもルヴェ坊より可愛いもんだからね」
「女将は、いつも一言多い。私はそこに似たんだ」
半目になってルゼルヴェが嫌味を言えば、女将は面白そうに笑い、その眼差しはとても優しい。実母よりも、よほど母という存在に近いとルゼルヴェは感じていた。




