第48話 それは、今さらでただ不器用で
「――っ! あの、手を離してくれませんか。これではなにも見えませんわ」
ルゼルヴェが片手で目を塞いで、もう片手でフルールの手を握っている。
足がふわりと僅かに浮く感覚があり、移動させられていると気がついた。姿勢に不安定さはなく、ただ視界が暗いことへの不満をフルールは吐露する。
「君は見なくていい傷だ。手当てが済むまで、目を閉じ、じっとしていろ」
フロアの椅子へ座らされたと思えば、背中に固いものが当たる。二階の個室は背もたれの椅子だったが、一階は丸椅子だったはずだ。
――え、と。旦那様?
フルールは後ろを振り返ろうとするも、ルゼルヴェの手がそれを許さなかった。
「……動くな。さすがにコントロールが狂う」
真上からのルゼルヴェの真剣な声に、抱き止められている形だとフルールは理解する。
以前の押し付けがましい善意とは違う響きに、それ以上何か言うことが出来ず、ただ時間が過ぎた。
――これは、旦那様の。
トクトクと頭に響く規則正しい心音に、フルールは目頭が熱くなるのを感じた。
こことは違う――鉄の臭いが充満する暗闇の中、その音が聞こえなくなるまでを覚えていた。思い出さないことで、過去に出来たと思っていたはずのもの。
「……痛むか?」
「いいえ、大丈夫です。だから手を――」
「まだダメだ。……それから、その口癖を止めろ」
「失礼な、口癖ではありませんわ」
掴まれた手は冷たく感じる。指先に感覚がないだけで、フルールは本当に怪我をしているのかと疑っていた。
女将が何も言わなければ、ルゼルヴェにもっと抵抗していたかもしれない。
――馬車の暴走を見たくらいで、情けない。
フルールはただ見ていただけで、何もしていない。侯爵夫人として、ルゼルヴェと共に救護に当たるべきだったのに。
今でさえ、されるがままでらしくないと思うのに、どうしてか気持ちはぐちゃぐちゃとしていた。
フルールのもう一つの手は抵抗をせず、ワンピースをキツく握っている。
「……痛みを感じないほどの、その傷を見せて。カームとガルドにも、君は……同じことが言えるのか?」
「……」
「彼女らにも、君は、大丈夫だと言うのか?」
ため息と共にルゼルヴェに問いかけられて、フルールは答えることが出来なかった。
頭上から落ちてくる声にいつもの調子が感じられなくて、落ち着かない。
ルゼルヴェの手が、フルールの視界を塞ぐから、暗いのもいけない。
――大丈夫、大丈夫なの。
言葉はいくつも浮かぶのに、喉の奥から出てくることはなかった。
後ろにいるのは、デリカシーの欠片もない男だ。フルールにとってはまだ、他人でしかない人。
――彼を使うと決めたの、私は。
最初に傷つけたのは、確かにルゼルヴェの方なのだ。拒絶し続けなければ、フルールは一人で立っていられない。
常識の分からない、この世界で生きていくためには……。
「――だい、じょう」
フルールがなんとか声に出せば、みっともなく震えていた。
「君を守った人たちにも、まだそう言えるのか?」
弱味を見せてはいけないと分かっていても、ルゼルヴェの続く言葉に覆われた目尻から温かい雫が滑り落ちた。
「――貴方に、何が分かるの! なんでも出来て、なんでも持ってるくせに!」
カッとなったフルールは、空いた手で彼の手を剥がして思いっきり、目を吊り上げて見返した。
雫が頬を伝うのも構わずに、ただ懸命に虚勢を張る。
「関係ないわ、貴方には特に! いつもいつも、無遠慮で、自分勝手で!」
突き飛ばして距離を取りたいのに、ルゼルヴェはフルールの手だけは離さなかった。
「ああ、私には人の気持ちなど分からない」
「だったら!」
今世で、こんなにも憤ったことがあっただろうか。泥々とした醜いものが胸に溢れてくる。
ルゼルヴェの取り繕わない言葉が、さらにフルールの癪に障るのだ。
「だからといって私は止めたりしない。これからも、きっと傷つけもするし、間違うことも多いだろう。
それでも、君との関係には誠実であろうと、あの日に決めた」
人付き合いに自信無さげな、普段のルゼルヴェとは違う。力強い意思の宿ったまっすぐな瞳が、フルールを見つめていた。
「君が嫌だと思うのならば、今のように拒絶すれば良い、怒れば良い、目の前から逃げても構わない」
自ら前に歩み出て、暴れる馬を前に一歩も引かなかった背中が、今の彼と重なる。
あまりにも堂々としていて、フルールは堪らず目を反らした。
「君の一番の理解者でありたいなどと、私は傲慢になる気はない。
ただ誰にでもそれを隠すのは、やめてくれ。嘘を、つかないでくれ。……その傷を、無かったことには、しないでくれ。
それは君自身が……君を、傷つけていることに他ならない。それは――痛いんだ」
フルールの指先を包み隠したまま、ルゼルヴェの表情が僅かに歪む。気持ちを言い表す言葉を必死に探してるようだ。
「そうして……呑み込んだ傷は、消えず、ろくなものにならない。君は……私のようなつまらない人間に、なるな。
君の在り方は、人を惹きつける。だから、堕ちないでくれ……」
不器用なルゼルヴェにしては、妙に具体的な言葉選びで。最後はまるで、切実な願いのような響きさえあった。
――私は……。
パタパタと雫が落ちて、フルールの胸元に幾つもの染みが出来ている。じわじわと広がるように、そこから痛みを覚える。
突き放したことで背中にあった温もりから離れ、急に寒ささえ感じる。視界は明るくなったのに、その冷えがやはり――苦い記憶を揺さぶった。
「……私は、大丈夫なの。……守られて、きたんだから……だから……」
前世を思い出すと同時に、フルールは気持ちに蓋をした。何も失っていないのだから、大丈夫でなければ、示しがつかないだろう。
言い聞かせるように呟いた言葉は、喉が張りついて音にならなかった。
「ああ、フルールは強い。だから、泣けるうちは泣いてしまえ。ここには、気遣いなど要らない私しかいないのだから。ただ、使えば良いんだ」
ルゼルヴェがそういって、優しく抱き寄せてきた。再び触れた温かさと、訪れた暗闇に、胸が締めつけられ息が出来ない。
ルゼルヴェの手を振り払うことも叶わず、片手でドンと押せば、彼は離してくれなかった。
「――っ、嘘、つき。……今さら、こんな!」
拒絶すればいいと言ったではないか。止まらなくなった涙に、フルールはルゼルヴェを叩きながら、声にならない声で泣いた。
彼は黙って、離すことなく強く抱き締めていた。




