SS 47話の後 ルヴェという少年の話
耳に突き刺すような音の洪水で、目の前の出来事をぼんやりとただ眺めていた。それはただの、いつもの光景だった。
『……』
『――行くぞ! ルゼルヴェ!』
手を掴まれて、言われるがままに駆け出した。バタバタと慌ただしく動いているのは、目の前の少年と後に続くルゼルヴェの二人。
他の大人は誰も目も合わせず、声をかけてくることもない。
――誰も、彼も……。
手を、口を出せばどうなるか分かっているからだった。それはよく分かる。ルゼルヴェもそうだからだ。
『はぁ……は、ぁ……』
目の前の少年は、息を切らして辺りを見渡す。邸を出た頃は辺りは明るかったが、今はもう日も落ちて暗かった。
『――って、ルゼルヴェ、なんでお前、靴を履いて無いんだよ!』
『……あぁ、脱げって言われて?』
邸を出て、野を、森を抜け、路地に出てきたから、足元がよく見えて気付いたのだろう。
ルゼルヴェがけろりとして言えば、少年は盛大にため息を吐いた。その場でルゼルヴェを座らせると、自らの靴を脱ぎ始める。
『俺の方がまだでかい、サイズは大丈夫だろ。次からは邸を出る前に言えよ。靴を履いて逃げるくらい、余裕はあるはずだ。――というか、自分で逃げろよ!』
『逃げる……?』
『あぁもう! 自分の身は自分で守るんだよ! サントュールなら常識! だいたいなぁ、普通は子どもにカップを投げつけたりしないし、靴を取り上げたりしないんだよ!』
苛立ちを隠さずに、少年はルゼルヴェに怒鳴ると靴を履かせた。ルゼルヴェには先ほどの出来事と今、怒鳴られてることの違いが分からなかった。
『はぁぁあ? うるさいと思ったら、ガキが二人かい。家に帰んな、邪魔だよ』
『――だ、そうだ。戻るぞ、えっと……?』
建物の前で騒いだからだろう。中からくたびれた装いの女性が出てきた。顔が赤く、漂ってくる匂いは邸でも嗅ぎなれたものだ。
ルゼルヴェは、言われたことを素直に聞いて少年を振り返る。
――さて、なんと言えば良いのだったっけ。
『フィアビリテだよ! いい加減、覚えろよ! あと戻らないぞ! こうなったら、お前の父親がいるっていう砦まで……っ!?』
『バカ言いねぇ、ガキ! 家があるのに帰らないだと? しかも砦ぇ!? モンスターのエサになりたいってのかぁ!』
フィアビリテにゴチンと拳骨を落とし、女性は怒鳴った。ぼんやりと見ているだけのルゼルヴェを一瞥し、フィアビリテは頭を押さえながら女性を睨んで叫び返した。
『うっせぇ、ババア。コイツの家には、モンスターがうじゃうじゃ居るんだよ! 家に帰ったって、いつか死ぬぞ。コイツは! だったら、父親の方がまだマシかも知れねぇだろ!?』
『砦なんか着く前に食われちまうさね! 家にモンスターだぁ!? 寝言は寝て言……』
『……?』
女性はルゼルヴェを見て、途中で口をつぐんだ。上から下までじっくりと見て、最後にフィアビリテも見ていた。
――切れた額は、もう血が止まってる。靴も借りた。他に何か?
『ガキ、名前は』
『……?』
『な、ま、え、だよ! ガキのアンタに聞いてんだ!』
女性は、ルゼルヴェにまた何かを言ってくる。意味が分からずに首をかしげれば、また怒鳴られた。
『ああ。コイツは、ル――』
『そっちのガキには聞いてないさね。今はこっちのガキに聞いてんだ。大きいんだ、名前くらい言えるだろ?』
ピシャリと言い放った女性に、フィアビリテは気圧されて、見るからに不機嫌さが増してムッとしている。
『ガキ、ガキ、言うな。俺は、フィアビリテだ! ほら!』
張り合っているのか、真似をしろと言わんばかりのフィアビリテの言動に、ルゼルヴェは渋面だ。流されるまま来て、今に至る。
――目の前の二人はいったい、何がしたいのだろうか?
二人の視線に、ムズムズと居たたまれないものを感じて、フィアビリテの手本に、ようやくルゼルヴェは口を開いた。
『――ヴェ』
改まって声に出そうとすれば、喉の奥で絡まって、うまく言うことが出来なかった。話すことも、名乗ることも、ほとんどしたことがない。
『ル……、ルヴェ……』
『よし。ルヴェ坊とビリー坊だね! ついてきな。部屋は有り余ってんだ』
女性はズカズカと、出てきた時と同じ扉をくぐって行く。フィアビリテはそれにならって、ルゼルヴェの手を引いた。
『ああ、汚っいねぇ! 洗い場はそっち、先ずは身綺麗にしてきな! それくらいの魔法は使えるのかい!?』
そこからは、さらに目まぐるしかった。明るい室内で身なりを改めて見るなり、ぎょっとした女性が険しい顔をしながら指示を出していた。
フィアビリテが文句を言いながら、ルゼルヴェの分まで動いて世話をしてくれる。
『ビリー坊! アンタ、こんなちっこい子に靴も履かせず歩かせたのかい!? 傷だらけじゃないか!』
『俺だって、さっき気づいたんだよ! なんにも言わないから! あとルゼルヴェと俺、こう見えて、そんなに年離れてないからな! なんでも俺のせいにするな! ババア!!』
『誰がババアだ、教育のなってないガキだねぇ。ここでは女将だ! 皆そう呼ぶから、それで呼びな。砦になんて子どもの足で行くような所じゃないんだよ。好きな時に来て、好きなだけここで寝泊まりすりゃあいい。みっちりと性根を叩き込んでやる!』
『うっせぇ、ババアより、ルゼルヴェも俺も育ちは良――だぁ!』
女将が再び拳骨を落とし、フィアビリテをぎっと睨む。
『ろくでもなかったのは見たら分かるんだよ! 見ちまったもんは仕方ないからね。独り身で手も空いてる。子どもが享受すべき生活も教育も、担ってやるって言ってんだい! 敬いな! 成長したらその生まれの良さで、利子つけて返してもらうさねぇ!』
邸と同じ広い空間。顔が赤い女性は、邸に居た母という人と同じ匂いがする。大声を出すのも同じ。
――同じなのに、全然違う。
けれど、ルゼルヴェやフィアビリテのことをしっかりと見ていた。触れてくる手は、強くもなく、痛くもない。
フィアビリテがいつになくわめいてうるさいが、邸で見るより生き生きとしているように見える。
『――はは』
『……ルゼルヴェが、笑っ、た?』
フィアビリテが、ルゼルヴェを見て驚いた声をあげた。ルゼルヴェは口から自然と溢れたものに、不思議そうに首をかしげたのだった。
「ルヴェ坊、見送りするってんなら、もうちっと愛想よく笑顔を振り撒いたらどうなんだい?」
「私が器用でないのは、よく知っているだろうが」
フルールたちが乗った馬車を見送りながら女将に言われ、ルゼルヴェは答えた。
「育て方間違えたかねぇ。まぁ、子どもなんて育てたこともないんだけど!」
「貴女には、学べないものを学んだから感謝している」
母の横暴が当たり前だった世界で、おかしいと連れ出したのはフィアビリテで、庇護してくれたのは女将だった。
それでも、邸に帰らないといけない時もあって連れ戻されもした。
女将はルゼルヴェたちがいつ来ても良いように、食堂を開いた。
『いやぁ、女将がお前らと生き生きしてるの見るとなぁ。助けてやりたくなるだろ』
『亭主に先立たれて宿屋を畳んじまった時は心配したが、お前らのお陰で食堂になって飯にありつけるしなぁ』
母が領都へ下りてこないのも幸いして、理不尽な用ならば住人が庇ってくれたこともある。
出会った頃の酒に爛れた生活は、弔い酒だった。その事を理解したのは、もう少し後だ。女将はもう酒を飲まない。
そうしてルゼルヴェたちは邸に帰ってもまた抜け出して暮らしていくうちに、今になったのだ。
「明日は、大嵐でもくるかね?」
「やめてくれ。治水事業がまだ済んでいない」




