災厄再び
ブリジット号で働くシェルの元に、一羽の鳥が飛び下りてきた。しかしそれは鳥ではなく、彼女の手元で魔法が解けて元の手紙に戻った。差出人は考えるまでもなく、文面を追う彼女の目は友人からの便りに輝いていた。
「テオの奴、ずいぶんと古典的な魔法を使うのね。ああでもそうか、きっとシズナ様のご事情もあってのことね」
シズナに失礼を働いたことを詫びて反省したシェルは、態度をあらためて彼女を敬うようになっていた。その理由はシズナがルグルと同じ八賢者であり、友人の師匠、そしてあらぬ因縁を吹っかけてしまった罪悪感と、快くそれを許してくれたことにあった。
手紙には、テオが陸で体験した出来事が生き生きと書き記されていた。内容の殆どが、友人のシェルに宛てたものであったが、最後の一枚だけはルグルに宛てたものであった。それを届けてほしいという願いが書き添えられていて、シェルはルグルの元を訪ねた。
「ルグルさん。テオからの手紙に、ルグルさん宛てのものがありました」
「おお、ありがとうなシェル!でも、テオがオレに?何のようかな?」
受け取った手紙に目を通したルグルは、ふむふむやなるほどなどの相槌を打つ。それはまるで、目の前に話し相手がいるような声の大きさだった。
手紙を渡し終えたシェルは一礼して立ち去ろうとしたが、ルグルに引き止められてその場に留まった。彼は手紙を読み終えると、顔を上げてシェルに言った。
「シェル、皆に伝えてくれ。今後の予定を変更して港に戻る。現海域の魔物討伐は、後一戦だけしてから切り上げだ。悪いが頼めるか?」
「それは構いませんが、帰港するのですか?」
「ああ、どうしても陸に上がって確認しなきゃならないことがある。オレたちがあまり海を空けるのも良くないんだが、今回は理由が理由だからな」
ルグルが陸に上がるのは、よほどの理由がなければないことだった。テオから送られてきた手紙に書かれていた報告は、シズナとテオがマールリアで見つけたもののことだった。
その中でも特に見逃せなかったのが謎の結晶についてで、絶対にルグル本人の目で確認する必要があった。その後の取り扱いの協議もしなければならない。
そんな思案をしていたルグルは、シェルがうつむきながら、そわそわとした様子でいることに気がついた。
「どうした?何か気になることでもあるのか?」
「あっ、いえ、その。ええと、こんなこと今から言うのは生意気だと分かってるのですが、良ければその、私も少し陸に上がりたいな、と」
「それは勿論構わない。そもそも皆にも交代で休暇を与えるつもりだったし、シェルもゆっくりしてくるといい。そんなにかしこまることないぞ」
「は、はいっ!ありがとうございます!」
ぱあっと表情を明るくさせて顔を上げたシェル。ただの休暇にそこまで喜ぶことに気になったルグルは、その理由を聞いてみることにした。
「何かあるのか?」
「まだ誘ってもいないんですけど、テオに街を案内してあげたいなって思っていて…」
「おお!そりゃあいいな!オレも…あ、いや、オレは駄目だった。クソぅ、オレも行きてえなあ。どうしよっかな…やっぱりオレは居なくてもいいんじゃないかな…」
本気で悩み始めるルグルに、シェルは苦笑いをした。そして自分に届いた手紙をもう一度眺めると、彼女は目を細めて友人をどこに誘おうかと心を弾ませた。
ブリジット号は帰港する前にもう一戦、魔物たちの生息域で戦闘を行うことになった。規模は大きめだったが生息する魔物は小物で、ブリジット号と魔物の戦力差は歴然だった。
討伐は何の問題もなく、戦闘は終始ブリジット号優位で進行した。最後の一匹を仕留めた後、海は先程の戦闘が嘘のように静まった。
「…ここまでだな。よしっ!総員、撤収作業急げっ!」
「おうっ!!」
ルグルの号令で、船員たちは一斉に動き始める。その動きは素早くて、それぞれの役割分担に無駄はない。実戦で培われた経験と、同じ船で働き続けている鉄の如き固い結束力がブリジット号の一番の強みである。
しかし、中にはまだまだ作業に十分ついていけない船員もいる。船に乗り込んだ時期が最近の若い衆である。まだまだ経験が浅く、動きに無駄も多い。だが、ルグルも他のベテランの船員たちも、若手にそこまでの期待はしていなかった。
頼まれたことや命ぜられたこと、それを一つ一つ、今は手が遅くとも着実に仕事をこなすことがいかに大切なことかを知る期間で、それが若手の一番の仕事である。
なのでどうしても、ベテランと同じように広い視野で作業場を見ることは出来ない。目の前の自分の作業で手一杯だからだ。シェルもその内の一人である。彼女はその時、海の見張りを担当していた。
他の見張り担当の船員が自分の仕事を怠っていた訳ではない。しかしシェルはその場で唯一、誰よりも集中をして一点の場所を見張っていた。だから彼女だけが気がつくことが出来た。
始めは小さな水しぶきが上がった。それは何の大したことのない、海では普遍的なものに思えた。だが一瞬だけ、水面に上がった体の一部が、ギラリと光を反射していたのが見えた。
それを見た瞬間、シェルはぞくりと背筋が凍りついた。何故かは分からない。ただ本能から戦慄を覚えた。喉が強く締め付けられたように声が出ない。体が何かに弾き飛ばされるように動いたのは、心から尊敬しているその人が狙われていると直感したからだ。
「ルグルさ…ッ!!」
ルグルの体は、火事場の馬鹿力で体当たりをしたシェルに突き飛ばされた。通常なら、体格差のあるルグルがシェルに突き飛ばされることはありえない。ならば何故。その理由をルグルが理解したのは、彼女の傷口から吹き出た血がビシャリと顔についた時だった。
シェルの背中から脇腹に突き抜けたのは、ルグルの魔法によく似た超高圧の水流のブレス攻撃。その一閃を放ったのは、海面近くで巨体をうねらす一匹の魔物であった。
頭部の鋭く伸びた巨大な二本の角、全身を覆う鎧の如き堅牢な濃紺の鱗、体の至る所に生えている鉱石のような金色の突起は、不気味なほどギラギラと輝いている。妖しく光る赤い目は、遠く離れていても鋭く狙いを定められていると分かる圧倒的な威圧感を放っていた。
「…ドラゴンだ」
船員の一人がぽつりとそう呟いた。船員の誰もが一瞬でその魔物のことをドラゴンと認識していて、呟かれた言葉と恐怖はあっという間に伝播した。船員たちは一時混乱に陥りかけたが、自らを守って傷つき倒れたシェルを抱きかかえたルグルの怒号によって状況は一変する。
「総員ッ!!即時退却ッ!!死にたくなけりゃあグズグズするなッ!!全速力でこの海域を脱出するッ!!」
その怒気には「言うことを聞かなければ、魔物よりも先にオレが殺す」と伝わってくるような迫力が込められていた。ルグルは通常、そんなことを言うことも思うこともしない。この怒号は、それだけ緊急事態なのだと船員たちに冷水をかけるためのものだった。
冷水を浴びて落ち着きを取り戻した船員たちが、全速力で撤退を開始する。ルグルは即座に船医を呼び、応急処置で止血だけしたシェルを引き渡した。血まみれの彼女の状態を見た船医の表情は一瞬曇ったが、すぐに覚悟を決めて表情を引き締めると、治療のために医務室へ運ばせた。
ルグルは撤退を始めたブリジット号の船上で、遠く離れていくドラゴンの姿をずっと目に捉え続けていた。逃げる船を追いかけてくる様子もなく、ただ海で遊んでいるかのような仕草で、一見すると無邪気にバシャバシャと水しぶきを上げている。
しかしルグルは直感していた。ドラゴンはやがて行動を始め、破壊の限りを尽くすであろうと。そしてその標的は、間違いなくマールリアである。根拠はない、理屈もない、ただそうなることを直感していた。
「…させてたまるかよ」
ルグルはスッと左腕を目の前に掲げると、遠くに見えるドラゴンを手中におさめてグッと拳を握りしめた。戦いは避けられない。海の守り人として、ブリジット号の船長として、廻水の魔法使いとして、そして自分を守って負傷したシェルのために。ルグルはこれ以上の被害を出すことなく、ドラゴンを仕留めると心に誓った。




