シズナの魔法 その2
魔法学研究の権威であるブライト博士と対面したシズナは、いかにも温厚な見た目と雰囲気に、若干自分の想像とのズレを感じていた。
というのも、今まで彼の記した研究資料や書籍のみでしか人となりを推測することしか出来なかったためである。その中で感じるブライトの姿は、賢才で切れ者、僅かな理論の破綻もない実に厳格そのものだと感じていた。
しかし実際に対面してみると、シズナは彼に敏腕さよりも、親しみやすさをより強く感じた。実際にブライトの性格は温厚そのもので、和を尊ぶ人であった。
ブライトは数々の革新的な研究結果を発表しながらも、それに付随する名声などには一切の興味を持たず、表舞台に出てくることが殆どなかった。彼の人となりを正確に知るものは、身内か知己のハワードくらいである。
威張らず、驕らず、研究に対する真摯な姿は、多くの研究員の憧れである。温和な見た目からは計り知れないカリスマを備えた人物が、ブライト・ヴォルという人であった。
「さてシズナさん、不見識で申し訳ないが、私は手話を会話のように聞き取ることが出来ない。だからやり取りは筆談でお願いしてもいいだろうか?」
『勿論です。少々お時間を取らせてしまいますが』
「構わないよ、むしろこちらこそ手間取らせてすまない。ああそれと、ハワードから君の事情は詳しく聞いている。私は君の保護を全権限をもって確約するよ。権威など必要ないと思っていたが、こんなことに役立つとは思わなかったよ」
そう言って笑みを浮かべるブライトに、シズナは困ったように眉尻を下げた。
「安心してもらいたいのはもう一つ、私の孫、ピカリアちゃんも協力側だ。しかし彼女の属している組織は少々特殊でね―」
「おじいちゃん、そこはもう説明しなくて大丈夫。あーし、もう面識ある。その女もあーしが鴉だって知ってる」
「執行部がシズナさんを?…そうか、あの時の大怪我の原因はそれだね。では私が何を言いたいのか分かるね?ピカリアちゃん」
その時ブライトは、シズナと出会ってから初めて険しい表情をした。それを見てピカリアは、びくりと体を一瞬だけ震わせた。そして咳払いをすると、シズナに向き直る。
「…その、悪かったよ。あーしらがあんたを狙うのは筋違いだった。執行部の役割を考えるなら特に。でも言い訳じゃないけどあーしだって組織人で、命令に逆らえない任務っていう言い分はあるんだからね。だから痛み分けってことで」
謝罪を受けるとは思っていなかったシズナは暫し固まった。しかし気を取り直してペンを握ると、さらさらと言葉を記す。
『私は謝りませんが、痛み分けという言い分は受け入れます』
それは静かな怒りの表れでもあった。シズナだけが被害を被っていたのなら、彼女はピカリアの謝罪を受け入れていた。しかしあの場にはテオがいた。弟子を巻き込んだことはそう簡単に許すことはできなかったのだ。
謝らないという一文にピカリアは一瞬ムッとして眉を顰めたがぐっとこらえた。ブライトの鋭い視線を感じ取っていたからである。彼女は祖父にこれ以上叱られることだけは避けたかった。
「ま、おじいちゃんの言う通り、あーしもここでの用事が済むまでは協力者よ。その後のことは分からないけど、少なくとも今のところ鴉はあんたから手を引いている。あーしにあんたを捕まえる義務はない」
「というわけだ。安心してくれていい。そして君の言う通り許す必要はないが、理不尽な命令であろうとも背くことが簡単ではないことも事実だ。そこは理解してあげてほしい」
『分かりました。ご配慮いただきありがとうございます。私はお二人のことを信頼します』
どのみちシズナは、この場でブライトのことを信頼するほかなかった。魔法をもう一度使えるようになるためという理由もあるが、圧倒的に不利で危険な状況において、敵を増やすことが愚かしいと知っているからである。
カント・レギウムの膝下に滞在する。それはシズナにとって最大級のリスクと言えた。ここでは信頼が一番の味方で、唯一の武器である。そこは弁えなければならないと決めていた。
ブライトはシズナの現在の状態を詳しく知るために、いくつかの質問と身体検査を行った。事前に話は聞いていたが、自分の目で確かめるまでは信じない、研究者の性であった。
「なるほど。確かにこれは魔人化の兆候に似てはいる。しかし似ているだけで、まったくの別物だね」
きっぱりとそう言い切ったブライトに、シズナはペンを走らせた。
『どうしてそう言い切れるのでしょうか?識の揺籃で見聞きしたもので、今の私の状態に一番近いと思うのですが』
「その認識は正しいが、そうであれば大きな疑問が残る。その疑問とは、何故今のシズナさんが魔法を使えないか、というものだ。魔人化と同様の事例ならば、そのことに説明がつかない。そうであれば、むしろ君は今までよりもっと自由に魔法が使えているはずだ」
それは確かにそうだと、筆を走らせていたシズナの手が止まった。話に聞いた魔人と化した運命の子たちは、自らと同じく言葉を持たないのに、ただ念ずるがまま魔法を自在に操ったという。
シズナは似た現象を一度発動させただけで、その後は一切魔法が使えなくなった。魔人の能力が記録通りならば、魔法が使えないのは確かに説明がつかなかった。
「それと先程の身体検査で分かったことだが、君の体に魔物化の特徴も前兆も見受けられなかった。魔人と聞くとどうしても人間寄りのイメージを抱くかもしれないが、要するに人間の魔物化の別種だ。人間の魔物化というとゴブリンやオーク、オーガにトロールなどの種類があるが、どれも魔物化する過程で人間とまったく異なる性質に変化する。検査結果を踏まえると、私は君が魔人化しているとは到底言えないね」
『ではどうして私は、一度とはいえ魔法を念じるだけで使えたのでしょうか?』
「そこだ。私も一番そこを疑問視している。しかし同時に、一つの推測も立てているんだ。ちょっといいかな?」
ブライトは立ち上がると、黒板の前に立ってチョークを手に取った。それは今からでも授業が始まりそうな雰囲気であった。
「シズナさんは、本来魔法発動に必要不可欠な詠唱という段階を、普段から用いている手話で代用することを思いつき、これを実現させた。呪文を代替言語に置き換える発明は大変画期的だ、とても素晴らしい。しかしこの発想自体は、魔法の長い歴史の中になかったものではない」
シズナはブライトの話を真剣に聞き入っていた。それはまるで、教師と生徒のようであった。
「無詠唱で魔法を発動させるというのは、魔法学において常に研究されてきたテーマだ。そして実例が一つだけある。聞くまでもないだろうけど、分かるかなシズナさん?」
『幾何の方盾です』
「その通り!幾何の方盾だけはなんとしてでも詠唱の代替を見つける必要があった。魔法とは便利なものだが、詠唱という工程は実に直感さに欠ける。魔法を使用する際に自らの身を守るためには、この防御魔法だけは絶対に無詠唱で発動出来るようになる必要があった。人によって、その方法は違うけれどね」
術式を体に入れ墨として刻み込む。魔道具を装着するか、体に埋め込む。使い切りの呪符を用いる。ブライトは様々な代替方法の内容を黒板に書き込んでいった。そして次にシズナの手印を書き込み、それを丸で囲う。
「この二つの共通点は呪文の代替というものだ。本来変えが効かないはずのものを、別の何かに置き換えるという発想は、そこまで珍しいものではない。可不可は別としてね。シズナさんはそれを可能にしたのだから、八賢者にふさわしい魔女であることは疑いようもない」
褒められて照れ笑いを浮かべるシズナだったが、これではまだブライトの推測に行き着いていない。浮ついた気持ちを頭を振って切り替えると、ペンを走らせた。
『しかしブライト様、呪文の代替と推測にどんな関係性があるのですか?』
「おっとそうだね、本題はそれだった。閑話休題、話を私の推測に戻そう。私が思うに、シズナさんは呪文の代替を手話から着想を得た手印のみではなく、思考や意志、もしくは感情などでも行っていたと考えている。魔法の術式はとても複雑で、複数の手印だけですべてを代替出来たとは考えにくい。つまりシズナさんの魔法は、そもそも魔人たちが用いた直感的な技術を、意図せずに再現していたのではないかというのが私の推測だよ」
ブライトの説明を聞いて、シズナはぱちぱちと大きな目を瞬かせた。目から鱗が落ちるとはまさにこのことかと思った。
この推測は魔人とシズナとの共通点が魔人化という性質にあらず、用いる魔法の方にあったというものである。生物として人間と何ら変わらないシズナは、魔人や魔物との関連性は皆無であった。
ブライトは運命の子たちもシズナと同じように、呪文を代替する技術を研究していたはずだと考えていた。そして選んだものが、人の身を捨てて魔に落ちたのではないかと推測した。
なぜなら運命の子たちはシズナと同じように、《《言葉を話せない》》という同じ境遇を持っていた。ならば運命の子たちは魔観こそ使えたものの、魔法が使えたとは考えにくい。歴史上、シズナの魔法を除いて、無詠唱で発動出来るようになった魔法は幾何の方盾ただ一つだけだからだ。
「シズナさんが魔法の力を取り戻すためには、今一度自らが用いていた魔法を再構築することだと私は考える。そのために必要なものはすべてここに揃っている。そして微力ながら私も手伝うことが出来る。ついでというと聞こえが悪いが、運命の子たちのことも紐解けたのなら、言う事無しだとは思わないかな?」
ブライトの言葉に、シズナはただこくこくと何度も頷いた。見えなかった光明が、やっと見えてきた気がしていた。




