人と魔を分かつのは その1
話は少し前に遡る。テオとメグが立ち去ったことを十分に確認したハワードは、もう一度シズナと膝を突き合わせた。
「シズナよ。確認するが、本当に手印を用いずに魔法が発動したのだな?お主以外の誰かの魔法という訳ではないのだな?」
『…はっきりとは分かりません。でも何故か、私が発動させたという実感のようなものがありました。間違いないと思います』
「そうか。いや、お主がそう感じたのならそうなのだろう。しかしそうか、うむ…」
シズナを前にして、ハワードは黙って考え込んだ。沈黙の時が暫く続き、ようやく重い口を開く。
「シズナ、少しいいかね。ついて来なさい」
そう言って腰を上げると、ハワードはシズナを、里の中心にある石碑へと連れてきた。そして石碑に刻まれた文字を指でなぞると、なぞられた文字が端から青白く光り始めた。
「三歩ほど下がりなさい」
言われた通り、シズナは下がる。するとすぐに、石碑の周りの石畳がガコガコと音を立てて沈み始めた。螺旋状に地下までの階段が出来上がると、そこを二人はゆっくりとした足取りで下りた。
階段を下りきった先には扉があった。扉を開けるとそこはとても地下とは思えないほど広大な空間が広がっていて、宙に大量の本が浮遊していた。
『ハワード様、ここは一体?』
「ここは魔守りの里の真髄。正直なところ儂ら里の者でさえ、滅多に足を踏み入れることはない。ここは使い方次第では毒をもたらすのじゃ」
『毒、ですか?』
「うむ。知識と言う名の猛毒じゃ。この場所の名は、識の揺籃。いわゆる巨大な記録収蔵庫と言ったところじゃな」
ハワードが宙で手招きをした。するとどこからともなく一冊の本が手元まで飛んでくる。首から下げた分厚いレンズの老眼鏡をかけると、本のページをめくり、あるところで止めてシズナに見せた。
「魔法の黎明期。人々がまだマナという未知の力に恐れを抱き、それを忘れていなかった頃の話じゃ。当時の魔法使いの中に、マナを操るのに呪文を必要としなかった者たちがおったそうじゃ。その者たちはただ念ずるがままに、奇跡としかいいようがない事象を操ってみせたという」
シズナはその話を聞き、目を丸くさせ驚いた。それはまるで、自分が使っている魔法のようだと思ったからだった。そしてそれこそが、コルヴォに傷を負わせた魔法ではないかと、そう考えた。
しかし、そんなシズナの考えを察したハワードは頭を振った。それは違うという、明確な否定の仕草であった。
「似ていると感じたのじゃろう。だが違う。これはな、もっと恐ろしいことなのじゃ」
シズナに本を返すように言うと、ハワードはそれを受け取って宙へ放り投げた。本はすーっと飛んでいき、あるべき場所に戻った。そして次の本が手招かれる。
「シズナ。これは基本的な知識じゃが、魔法使いがこの世で一番魔物に近い存在であることは知っておるな?」
『はい。師匠から厳しくそう教わりました』
「うむ。では聞くが、魔法使いを人たらしめるものとはなんじゃ?」
ハワードの質問に対して、シズナは少々面食らった。人であることは大前提であると考えていたからだ。ゆえに返答には非常に困った。
『魔法を用いる人を魔法使い、または魔女と呼ぶのでは?』
「定義としてはそれが正しい。しかし本質的には違う」
ますます言葉の意味が分からなくなったシズナは、首を傾げて困惑した。ハワードはそのことに「無理もない」と頭を振って言葉を続けた。
「魔法使いを人たらしめているのは、人が人のために編み出した手法に基づいてマナを操る術を行使しておるからじゃ。魔観にせよ、呪文にせよ、現在魔法の発動に不可欠な要素は、人としての生を守り、魔と分かつために作られた制約でもあるのじゃ」
『…つまり私たちは、敢えて力を弱めて使っていると?』
「そうじゃ。おかしな話に聞こえるかもしれぬが、魔法を使っている限り、魔法使いは人であり続けることが出来るのじゃ」
それからハワードは、本を開いてシズナに魔法の歴史について語った。それは今代の魔法使いたちには、絶対に知らされることのない、里のこの場所で秘匿されているものであった。
マナとは、遥か昔から現在に至るまで、常に万能のエネルギーである。それらは世界中のあまねくものに影響を与え続けている。草木を芽吹かせ、大地を潤し、実りを与え、生命を育む。マナの知覚の可不可を問わず、世界樹からもたらされるマナはそういうものであった。
魔法使いたちの出発点は、このマナという未知の万能エネルギーを我が物にせんと試みたところからだった。しかしこれには、先天的に魔観と似た能力を持つ者が現れるのを待つほかなかった。
それと同時に、当時の世界情勢も重要になる。今でこそ内環諸国は外環諸国と比べて遥かに高い国力を持つが、当時はまったく真逆であった。その理由は、内環諸国に安全な場所が少なかったことに由来する。
世界樹は世界の中心に位置している巨大な樹木である。その高さは世界最高峰の山を超え、幅は一つの大陸である。それほど目立ち、世界を象徴するシンボルではあるが、しかし誰一人として直に世界樹と接触できたものはいない。
理由は至極単純なもので、世界樹に近づくほどマナの影響を強く受けるからである。世界樹に近づいた生物は瞬く間に魔物に転じ、世界樹から過剰に供給されるマナの影響で知性も理性も蒸発して凶悪に暴れまわるだけの存在と成り果てる。
それゆえ世界樹周辺には常に強力な魔物が生息していて、近づくことすら容易ではない。そして少しでも近づきすぎれば、即座に人も魔物化する恐れがある危険過ぎる領域であった。
それと同じことが内環諸国にも一部で当てはまっていた。内環諸国は世界樹に近く、あらゆるものがいつどこで魔物化しても不思議ではなかった。当然、人も例外ではない。
内環の人々は安息の地を求めて外環へ向かった。しかし、その者たちが住まう土地や食料を巡り争いが起こった。当時の外環の国々は、次々と内環諸国からの流れてくる人の扉を閉ざし、武力によってこれを鎮圧していた。
そうしなければ出口のない熾烈な争いが長期化することは目に見えていたことだが、無理やり武力で締め出された人々の不平不満は日に日に高まっていった。外環諸国側の、自国の守備を名目にした正義の名の下で行われた暴力や虐殺など犯罪行為は留まることを知らなかった。
外環諸国は内環諸国の人間を、マナという危険な病原を運ぶばかりか、自分勝手に住み着こうとする薄汚いネズミであると罵った。こうした意識が差別を生み出し、外環諸国には内環排斥の気運が高まった。外環諸国の人々は、内環諸国の人々が不和をもたらしていると信じて疑わなかった。
実際には、一個人が他のものを魔物化させられるほどのマナを保持することも、させることも不可能である。そもそも世界樹から遠く離れた外環諸国であっても、魔物化の現象は存在していた。ゆえにこの風聞は見当違いも甚だしいものであった。しかし今よりマナの研究が進んでいなかった当時の人々に、それは知り得ないことだった。
そして例え外環諸国の主張通りであったとしても、正義の名の元に行われた蛮行の数々は許されるものではなく、それは人の尊厳を著しく破壊せしめるものであった。
安息の地を追われ、強力な魔物が頻繁に発生する危険な土地に押し込められた内環諸国の人々は、どうにかしてそこで生きる術を得る他なくなってしまった。だがそれは簡単なことではなく、突然出現する魔物の被害によって多くの人が命を落とした。
内環諸国の人々はやるせなさに外環諸国への恨みを募らせた。どうして奴らばかりが安全な土地を得られる。どうして我々ばかり過酷な環境で生きねばならない。魔法を開発する原動力となったのは、この時感じた強烈な恨みと劣等感も間違いなくあった。
やがて内環諸国に、四人の赤子が誕生した。その子らは生まれつきマナをそれぞれの感覚で感じ取る能力を持っていた。後の世でそれは魔観と名付けられ、魔法使いにとって必須の能力になる。そしてこの子らの誕生が、本格的に魔法が開発される契機となった。
話の途中で、突然ハワードが頭を抑えてふらついた。シズナは咄嗟に、ハワードの体を支えて倒れるのを防いだ。
「おお、すまんな。衰えとはまったく嫌になるものじゃ」
『大丈夫ですかハワード様?』
「今のところはな。しかし今日はここまでにしよう。この識の揺籃という場所は、ただ形としての本を保管している場ではなく、この場所そのものに数多の知識が溶け込んでいるのじゃ。本は必要な知識を引き寄せる呼び水に過ぎない。入り込んでくる膨大な知識を整理するのには体力を必要としてな。すまぬな、シズナよ」
『いえ、それならなおさらご自愛なさってください。私のためにハワード様が無茶をされては忍びないです』
「それこそお主が心配することではない。里長としても、お主の親代わりとしても、これは儂にやらせてもらいたいのじゃ。とにかく、続きは後日じゃ。お主も旅の疲れを癒やすがよい。魔守りの里は誰の追跡も叶わん場所じゃ、ゆっくりとしていきなさい」
シズナはハワードの体を支えながら地上に上がった。外はすでに夜の帳が下りてきていた。




