第39話 私の人生は、私のまま
夜は、静かだった。
窓の外には、月明かりに照らされた森が広がっている。虫の声が、遠くで一定のリズムを刻んでいた。
私は、椅子に腰かけたまま、何もせずにその音を聞いている。最近、王都のことを思い出す回数が少し増えた。
特別な理由はない。ただ、どこかで何かが動いている気配が、心の奥に小さな波紋を作っている。
――もし、戻ることになったら。ふと、そんな未来を想像してみる。
王城の廊下。磨き上げられた床。控えめな囁き声。机の上に積まれる書類。整えてほしいという視線。
“あなたがいれば助かる”という、当然の前提。私は、目を閉じる。その場に立つ自分の姿を、思い描く。
笑っている。穏やかに頷いている。迷いなく書類を整えている。でも。その胸の奥は、少しだけ息苦しそうだった。
誰かのために動くことは、嫌いではない。整えることも、苦ではない。ただ。
“それが当然”になる場所には、もう戻れない気がした。ここでは、違う。何もしなくても、誰も眉をひそめない。
選ばなくても、責められない。黙っていても、存在が消えない。私は、ゆっくりと目を開けた。
月明かりが、床に細い線を引いている。王都に戻る未来を想像しても、胸が高鳴らない。懐かしさはある。
悔しさも、少しは残っている。けれど。あそこに立つ自分は、また“役割”を着せられている。
私は、役割そのものではない。私は、私だ。この当たり前のことを、王都では忘れていた。
ここに来てから、ようやく思い出した。私の人生は、私のまま。誰かの都合に合わせて形を変えるものではない。
まだ、それを口にする勇気はない。戻らない、と宣言する覚悟も、今は持っていない。でも。
想像した未来が、少し苦しそうに見えた。それだけで、十分だった。私は椅子から立ち上がり、窓を閉める。
森の音が、少し遠くなる。明日もまた、ここで目を覚ますだろう。
その未来を想像したとき、胸は静かだった。
それが、今の私の答えだった。
――では、いつまで。
その問いだけは、どうしても答えの形にならなかった。




