第38話 同じ空間にいるだけ
午後の執務室は、静かだった。
窓から差し込む光が、床に細い帯を作っている。机の上には整然と並んだ書類。時計の針が進む音だけが、小さく響いている。
私は、いつもの位置に立っていた。辺境伯アレクシスは机に向かい、黙々と書類に目を通している。会話はない。
指示もない。ただ、同じ空間にいる。以前の私なら、沈黙は重かった。何か言わなければ。役に立たなければ。
この場にいる理由を示さなければ。そう思っていた。今は、違う。
私は、自分のペースで書類を整理する。気づいた点に、小さな印をつける。それだけで、十分だと分かっている。
ふと視線を上げると、辺境伯の横顔が見えた。集中している。眉間にわずかな皺。だが、張り詰めた緊張はない。
私は、視線を戻す。この空気は、嫌いではない。静かで、押し付けがましくなくて、余計な期待もない。
しばらくして、辺境伯が低く言った。
「……そこは、どう思う」
書類から目を離さないままの問い。私は、手元の頁を確認する。
「優先順位を少し下げても、問題はないかと」
「理由は」
「他の案件の方が、波及が大きいです」
簡潔なやり取り。辺境伯は頷き、特に評価も付け加えない。それで、終わる。会話は少ない。けれど、無駄がない。
私は、ふと気づく。ここでは、声を張らなくていい。強く主張しなくていい。黙っていても、存在が否定されない。
同じ空間にいるだけで、成立している。それが、どれほど安心できることか。
夕方、書類を片付け、私は一歩下がる。
「以上です」
「ああ」
短い返事。それ以上の言葉はない。私は一礼し、執務室を出る。
廊下を歩きながら、胸の奥に小さな感覚が残っている。恋だとか、特別だとか、そういうものではない。ただ。
同じ空間にいることが、苦しくない。それだけで、十分だと思えた。窓の外で、夕日が森を染めている。
私は立ち止まり、その光を眺める。言葉は少なくても、伝わるものがある。
今日も、私はここにいた。
そして、それを誰にも証明しなくてよかった。
部屋に戻る途中で、一度だけ振り返る。
執務室の灯りは、まだ落ちていない。




