第122話 名を賭ける
答えは、静かな朝に来た。
いつものように、名の出ない書類を整えているときだった。決裁の順序を確かめ、日付を照合し、道筋を整える。私がいちばん得意な、地味な仕事。
その束の上に、見覚えのない一枚が載っていた。
北方港の荷役の男が出した嘆願だった。荷降ろしの手筈が二度、直前で組み替えられた。そのたびに、雇いを外された。日雇いの二日は、その家の二日ぶんの糧だ。
どなたのご判断でしょうか、と男は書いていた。
私は組み替えの決裁を辿った。順序は残っていた。日付も、経由した部署も。
名だけが、どこにも無かった。
誰も規則を破っていない。ただ、二日ぶんの糧を失った男に、詫びるべき相手がいない。
扉のほうで、物音がした。
アレクシスが、戸口にいた。置いたのは、彼だ。
「これを、私に」
「回すべきだと思った」
彼はそれだけ言った。なぜ私に、とは言わない。
「お前が、いちばん長く見ている」
理由を聞かない男は、理由を言うのも短い。
扉が閉まったあと、私はもう一度その一枚を見た。
この書類には、私の名は出ない。
でも、もしこの決裁がいつか誰かを傷つけたら――私は、逃げるだろうか。「制度に従っただけ」と言うだろうか。
言わない、と思った。
なぜなら、この一枚を自分が整えたと知っているから。
名が出なくても、私は負う。
――そこだ。
私は、羽根ペンを止めた。
朝の光が、机の上を白く照らしていた。辺境の、いつもの朝。
こんな静かな場所で、国のかたちの足りない一片が見つかるとは思わなかった。急かされない場所だから、見えたのだ。
制度で負う。それは、正しい。個人の善意に国家を委ねてはならない。それも、正しい。
でも、制度はそれ自体では誰も痛まない。制度は、顔を持たない。だから、人はその後ろに隠れられる。
足りなかったのは、これだ。
制度で負う。その制度に――名を賭ける、一人の個人を必ず置くこと。
どの決裁にも、「私が、これに責任を負う」と名を書く者を、一人。匿名の決裁を禁じる。正しい理由で、名を隠すことを許さない。
カイウスの「責任は、私が負う」は、個人に負わせすぎた。国家を、一人の覚悟に預けてしまう。
レオンハルトの「制度で負う」は、個人を消しすぎた。誰も、痛まなくなる。
その、間だ。
制度が大枠を負う。その制度の一つ一つの決裁に、名を賭ける個人が必ずいる。
制度は、逃げ場にならない。個人は、潰されない。
――倒れない、を前提にするのではなく。倒れても、誰が積んだ石か分かるように。
私は、新しい紙を一枚引き寄せた。
そこに、初めて私自身の名で書きはじめた。
書き終えて、宛名の欄で手が止まった。
この一枚を最初に誰へ差し出すかで、この先の順番が決まる。
私はまだ、その名を書けずにいた。
制度で負う。その制度に、名を賭ける個人を、必ず一人。
足りなかった一つが、言葉になりました。
あとは、この一枚を誰に差し出すか、です。




