第120話 正しい理由の人
宰相ベルフォードは、静かな男だった。
協議の資料を届けに来た、という体で、私は彼の執務室に通された。
彼は、痩せた品のいい老人だった。声を荒げそうにない、穏やかな目をしていた。
執務室は、整然としていた。塵ひとつ、ない。書棚の書物は、寸分の狂いもなく背を揃えている。
この部屋の主は、人も国も思いどおりに整えたいのだろう。
私と同じ「整える人」だった。けれど、整え方が決定的に違っていた。
「アルヴェイン嬢」と彼は言った。「戻ってこられたと聞いて、驚きました。あなたは、賢い方だ。もう、この街に未練はないと思っていましたが」
「未練はありません。ただ、確かめに来ました」
「何を」
「あなたが、私をなぜ消したのか」
彼はわずかに眉を上げ、穏やかに微笑んだ。
「消した、とは人聞きが悪い」
「では、なんと」
「整理した、と言いましょう」
彼は、茶を静かに啜った。
「国というものは、あまりに多くの人間の、あまりに多くの思惑で動いています。放っておけば、遅く鈍くなる。誰かが束ねねばならない。……あなたは、優秀すぎた。あなたがいると、辺境が独りで立ってしまう。国の統一にとって、望ましくなかった。それだけのことです」
「それだけのこと、で、人ひとりの人生を」
「一人の人生と、国の秩序。……天秤にかけるまでもないでしょう」
「北方港の荷役は、あなたが関税を締めた冬に仕事を失いました。誰が、その冬を負いましたか」
「負う、という言い方がそもそも正しくありません」と彼は言った。「帳簿に載らないものは、国には無いのと同じです」
私は、背筋が冷たくなった。
彼は、嘘をついていない。演じても、いない。一人の人生など、国の秩序の前では塵に等しい。――それが、この人の世界の見え方だった。
彼の声には、ためらいも罪悪感もなかった。
「あなたは、悪びれないのですね」
「悪いことをしていないからです」と彼は言った。「私は、国のためにやった。誰かがやらねばならなかった。その役を、引き受けたに過ぎない」
国のため。誰かがやらねばならなかった。
――正しい理由。
この人は、悪人ではない。悪人なら、まだ良かった。
心から、自分を正しいと信じている。
だからこそ、名を残さない。正しいことをしたのだから、隠れる必要はない、と言いながら、決して署名はしない。
なぜなら――正しい理由は、誰も責任を負わずに済むから。
目の前に、その言葉の生きた姿が座っていた。
悪人なら、まだ良かった。
心から自分を正しいと信じる人は、いちばん、名を残さない。
次回、レティシアは、自分自身に、突き当たります。




