第117話 泣けない女
狭い部屋だった。
物は少なかった。寝台と、机と、椅子が一つ。窓は小さく、光は薄い。かつて聖女として、絹に囲まれていた人の今の暮らしだった。
セシルは、冷めた茶を私の前に置いた。それきり、しばらく何も言わなかった。
「あなたを恨んでいないのか」
やがて、彼女のほうから口を開いた。
「恨む相手を間違えていたことに、気づいたので」
私は、正直に答えた。
彼女は、乾いた笑いをこぼした。
「昔の私なら、ここで泣いてみせたわ。可哀想な私を、演じて。……でも、もう泣けないの。涙の出し方を忘れてしまった。使い道がなくなったから」
泣くことが、武器だった人。
その武器を、彼女はもう持っていなかった。
「教えてください」と私は言った。「あの婚約破棄の日。あの舞台は、誰が用意したのですか」
彼女は、長いあいだ黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「宰相府よ」
私の息が、止まった。
どこかで、そうではないか、と思っていた。だが、本人の口から聞くと違った。想像と確証は、重さが違う。
「私は……ただの田舎の娘だった。聖女の資質なんて、あったのか、なかったのか、今でも分からない。ある日、宰相府の人が来て、私に言ったの。あなたは、選ばれた人です、と。国のために、ある役を演じてほしい、と」
「役」
「カイル様の、隣に立つ役よ」
カイル様、と彼女は言った。
レオンハルトではなく。
あの舞台の上で、彼女が呼んでいたその名で。
「あの人も、たぶん知らなかった。自分が舞台の上にいることを。私たちは、二人とも台本の上で恋をさせられていた。……レティシア様を追い落とすための、台本の上で」
台本、と彼女は言った。
書いた者が、いるということだ。
私は、その一言の重さを抱えたまま冷めた茶に手をつけられずにいた。
私たちは、台本の上で、恋をさせられていた。
火遊びにすら、脚本があったのです。
次回、その脚本を書いた部屋へ。




