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婚約破棄された悪役令嬢は、役割を与えられない場所で静かに生きる 〜尽くしても報われなかった私を、理由も聞かずに受け入れてくれる領がありました〜  作者: 水無月カレン


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115/130

第115話 名を変えた男

 私は、レオンハルトにその一枚を見せた。


 消し忘れられた、「カイル」の署名を。


 彼はそれを見て、長いあいだ動かなかった。


 紙の上の、三文字。カイル。


 その名を、彼はまるで他人の名のように見ていた。あるいは、二度と見たくなかったものを見せられたように。


 否定は、しなかった。


「……見つけたか」


「はい」


「私は」と、彼はゆっくりと言った。「あの名を、捨てたつもりでいた」


 窓の外で、王都の塔が灰色に並んでいる。


「カイルは、愚かだった。人に流され、聖女の涙に流され、隣にいた人の価値を最後まで見なかった。……私は、その男であることをやめたかった。だから、レオンハルトとしてやり直した。国を真剣に考えた。均衡を選んだ。それで――償ったつもりでいた」


「償い、ではありません」


 私は静かに言った。責める口調には、ならないように。


「あなたは、良い王太子になろうとした。それは本当だと思います。でも――良い人になることと、したことの責任を負うことは、別です」


 彼は、目を閉じた。


「カイルとして署名したことを、レオンハルトの善政で上書きすることはできません。それをしたら、それは――いちばん上品な黒塗りです。誰も負わずに済むように、名前だけを消す」


 沈黙が、落ちた。


 やがて、彼は口を開いた。


「では、私はどうすればいい」


「まだ、分かりません」


 私は、正直に答えた。


「ただ――あなたに、確かめたいことがあります。あの裁定を、あなたは一人で決めたのですか」


 彼は、首を振った。


「いや」


 その先を、彼は迷いながら言った。


「あの場は、既に決まっていた。私が署名する前から。……私は、決めたのではない。決められた紙に名を貸した。誰かが、あの舞台を用意していた」


「誰が」


「宰相府だ」


 彼は、言った。


「聖女を仕立てたのも。私をその気にさせたのも。すべて、あの部屋から始まっていた。……私も、たぶん道具の一つだった」


 道具。


 彼は、加害者で、同時に使われた者でもあった。


 そのことに、私は少しだけ戸惑った。


 彼を恨むのは簡単だった。長いあいだ、私は彼一人を憎んでいれば済んだ。だが、その憎しみの先に、彼を操った、もっと大きな手があった。憎しみは、行き場を失う。


 私は、その複雑さを裁くことはしなかった。


 ただ、記録に残すべきことが、また一つ増えた。


 ――そして、もう一人。


 同じように、あの部屋に仕立てられ、使われ、そして捨てられた人がいる。


 聖女セシル。


 私は、彼女に会いにいくことにした。

加害者で、同時に、使われた者でもあった。

複雑さを、裁かない。けれど、記録には残す。

次回、捨てられた聖女を、訪ねます。

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