第115話 名を変えた男
私は、レオンハルトにその一枚を見せた。
消し忘れられた、「カイル」の署名を。
彼はそれを見て、長いあいだ動かなかった。
紙の上の、三文字。カイル。
その名を、彼はまるで他人の名のように見ていた。あるいは、二度と見たくなかったものを見せられたように。
否定は、しなかった。
「……見つけたか」
「はい」
「私は」と、彼はゆっくりと言った。「あの名を、捨てたつもりでいた」
窓の外で、王都の塔が灰色に並んでいる。
「カイルは、愚かだった。人に流され、聖女の涙に流され、隣にいた人の価値を最後まで見なかった。……私は、その男であることをやめたかった。だから、レオンハルトとしてやり直した。国を真剣に考えた。均衡を選んだ。それで――償ったつもりでいた」
「償い、ではありません」
私は静かに言った。責める口調には、ならないように。
「あなたは、良い王太子になろうとした。それは本当だと思います。でも――良い人になることと、したことの責任を負うことは、別です」
彼は、目を閉じた。
「カイルとして署名したことを、レオンハルトの善政で上書きすることはできません。それをしたら、それは――いちばん上品な黒塗りです。誰も負わずに済むように、名前だけを消す」
沈黙が、落ちた。
やがて、彼は口を開いた。
「では、私はどうすればいい」
「まだ、分かりません」
私は、正直に答えた。
「ただ――あなたに、確かめたいことがあります。あの裁定を、あなたは一人で決めたのですか」
彼は、首を振った。
「いや」
その先を、彼は迷いながら言った。
「あの場は、既に決まっていた。私が署名する前から。……私は、決めたのではない。決められた紙に名を貸した。誰かが、あの舞台を用意していた」
「誰が」
「宰相府だ」
彼は、言った。
「聖女を仕立てたのも。私をその気にさせたのも。すべて、あの部屋から始まっていた。……私も、たぶん道具の一つだった」
道具。
彼は、加害者で、同時に使われた者でもあった。
そのことに、私は少しだけ戸惑った。
彼を恨むのは簡単だった。長いあいだ、私は彼一人を憎んでいれば済んだ。だが、その憎しみの先に、彼を操った、もっと大きな手があった。憎しみは、行き場を失う。
私は、その複雑さを裁くことはしなかった。
ただ、記録に残すべきことが、また一つ増えた。
――そして、もう一人。
同じように、あの部屋に仕立てられ、使われ、そして捨てられた人がいる。
聖女セシル。
私は、彼女に会いにいくことにした。
加害者で、同時に、使われた者でもあった。
複雑さを、裁かない。けれど、記録には残す。
次回、捨てられた聖女を、訪ねます。




